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哲学の特殊化・個別化としての分科学=個別科学:ヘーゲルとマルクスを例に

哲学とは何か?ということを一般的に極めてざっくり言えば、自然科学、社会科学、精神科学という個別科学をさらに一般化したところに成立し、それら特殊、個別の科学を統括する論理を体系化した一般科学と言えるものである。

あるいは、論理という面から見れば、個別科学のそれぞれの論理性を自然科学、社会科学、精神科学という共通項のあるグループとして括ったもの、それらに共通する論理を体系化したところに成立する論理学を駆使して、自然、社会、精神を体系的に論じた「論理学の駆使の形態」が学問としての哲学といえる。

以上は南郷継正先生の定義をなぞる形で自分なりにまとめてみたものである。

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ヘーゲルは周知の通り『精神現象論』を最初に書き下ろし、そこから学的に出発した。

なので、マルクスがヘーゲル哲学の「要」として『経済学・哲学草稿』で『精神現象論』を取り上げたのは、おそらく要のところを批判できればヘーゲルの全てを批判できると勘違いしたことによるのではないかと思われる。

マルクスは経済においてヘーゲルの疎外論の足りないところ=資本主義によって労働者の自己疎外が搾取の道具にされているところを批判し、その自己疎外の論理をもって、絶対精神の自己運動を本質とするヘーゲル哲学を批判しようとしたのではないか。

ただ、冒頭の哲学の一般的な定義にもあるとおり、哲学は自然、社会、精神の各特殊な分野を統括するところに成立する一般科学であって、自然科学、社会科学、精神科学に共通するとともにそれらを成り立たせている根本的な論理を体系化したものである。

なので、個別科学の論理=経済学の論理でもって、哲学の論理を批判すること自体がおかしいと言える。

それは自動車の良し悪しを論ずるに、タイヤの良し悪し、ギアの歯車の良し悪しの論理を以て、その自動車の良し悪しを論じるようなものと言える。

あるいは、人体全体の治療をするにあたって、肝臓だけを取り出して、心臓だけを取り出して云々して、人体そのものを見て取ったと錯覚しているようなものである。仮にその臓器がいかに重要なものであるとて、それはしょせん部分に過ぎないのであって、部分は全体たりえない。

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マルクスがヘーゲルを真に学的に批判したいのであれば、経済学を学問体系として完成させると直接的同一性として、経済学を学問として成立させたところの「もの」は一体何なのか?というところを出発点として、専門は経済であっても、経済を学問として成立させることを通して、自らの専門分野の上に立つ体系として、自らヘーゲルに並び立つ学問体系の構築を!と志し、その学問体系でもってヘーゲルの批判を成さなければならない。

それは、ヘーゲルがカントを批判するにあたり、カントの物自体論というカント哲学の本質論に統括された体系を、ヘーゲル哲学の本質論である絶対精神の自己運動を頂点とする体系によって批判しなければならなかったのと同じである。

たしかに唯物論と観念論の学的世界観を明らかにすることは大切であるが、マルクスの場合、しばしば事実レベルでヘーゲルの観念論を批判していると思しきところが散見され、これでは論理の体系としてのヘーゲル学を批判したことにはなり得ない。

現代でもそうであるが、事実と論理の違いを混同して、事実レベルで観念論を批判しても(カルト的な俗説はともかく)、学問としての観念論を批判したことにはならない。

なぜなら、学問とは観念の世界の話であり、現実の王国に対する「影(論理)の王国」であるから。

ゆえにヘーゲルを頂点とする観念論哲学はたとえそれが観念論であったとしても学問であるが故に成り立っているのだから、観念論的前提を事実的に違うと言ったところで「いや、論理の話だから」と一蹴されてオシマイである。

ただ、残念ながらマルクスは事実的批判で学問的批判をやったつもりになり、そのまま共産主義のアジテーターとして社会主義運動の方面のことをやるようになり、学的研鑽がおろそかになってしまったのが致命的であったといえる。

それはちょうど、嘉納治五郎が柔道の国際的普及に忙殺されるあまり、柔道の論理、柔道の道の完成に至れなかったのと同様であると言える。

以上が『経済学・哲学草稿』を読んでみて、マルクスの出発点のレベルと到達点のレベルをおおよそ推し量ることができたまとめである。

『経済学・哲学草稿』はそれぞれ独立した草稿を寄せ集めたものであるが、「経済学の論理で(ヘーゲル)哲学を批判しようとしたもの」という意味で、マルクスの限界を示すものであったということができると思った。


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