読書感想「ヘッセ 車輪の下」

ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」井上正蔵訳 1992年 第一刷 
を読んでの感想。

「車輪の下」という題名は、神学校の校長のセリフからとられたものだ。車輪の下に押し潰されてしまうこと、つまり、社会システム、その歯車に押し潰されていく悲惨さというのが、この本のテーマだろう。

主人公のハンスは車輪に押し潰された被害者として描かれている。
ハンスは、最初は優秀な子供として、父親や町の牧師に期待され、神学校に入学する勉強をさせられる。子供らしい趣味も遊びも排除して勉強する日々を過ごし、周囲からのプレッシャーに苦しむが、結果的には見事合格する。

神学校は昔の東大みたいなもので、卒業すれば一生が約束されるものだった。
ここまでだと、ただ天才が楽できる物語なのだが、ここからハンスは同級生のハイルナ―に影響されて、成績がどんどん落ち、最終的には精神を病み、家に帰り、二度と戻ることがない。

その後は恋をするも、破れ、
肉体労働をすることになり、
最後には川に落ちて死んでしまう。

予定調和のような”転落”劇に感じるが、よく考えれば、そもそもハンスは、他の人と比べて本当の意味で”上にいた事”があっただろうか。

ハンスは常に車輪の下にいた。とても近くにいた。その車輪の中に上手く組み込まれるために近づいたのだ。ゆえに、車輪の圧を最も間近に感じていたことだろ。
「もし合格できなかったら?」
「もし卒業できなかったら?」
「子供らしい趣味も遊びも捨てて
勉強をしなければならない」

そんな圧を感じていただろう。

後半に登場する町の人達は車輪の下で、割と楽しそうだった。それは、車輪から遠いゆえに、車輪がよく見えなかったからではないだろうか。

町の人は車輪の圧を感じぬまま、それなりに幸せに生きている。
ハンスは車輪の圧だけを感じ、車輪に届かぬまま車輪から離れていった。
どちらが”上”だろうか。
どちらが”幸福”だろうか。
もしもハンスが神学校を卒業していたら、自分がその圧をかける側に回り、やっと”上”になり”幸福”を享受できたかもしれない。


日本は先進国であり、さらにインターネットの発達、価値観の多様化で、社会システムというものが、とても広く、近い。広く近すぎて、薄ぼんやりしている。
今やその圧を誰もが感じているにも拘らず、その正体はおぼろげに、複雑になってしまった。
正体不明の圧を、現代人の多くが感じている。
今やほとんどの人がハンスである。それも、「一生安泰」を
保証されることなど一生ないバージョンの。

ただそれでも鈍感な人はハンスにはなり得ないし、
多くの人はハンスの様な結末を迎えないだろう。
何か希望を見出し、生きていくのだろうと思う。

最近、バカになれという人が増えたのも頷ける。
僕は馬鹿になり切れないし、天才でもない側の人間なので、
ハンスト同じ結末を辿らぬように、どうにか生きねば、と
思った次第。



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