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私が<土木業界で>はたらく理由 Vol.1

ここ数か月くらい、ずっと悩んでいたことがあった。
考えても考えても、自分で気持ちを取り繕っているような気がして、自分の選んだ道に自信を持てずにいた。

私は本当に土木が好きなんだろうか?

この悩みを語るにあたって、まずは私が土木という世界に興味をもったきっかけから書かなければいけない。

画面越しに見た3.11

当時、私は小学校の卒業を数日後に控えた6年生だった。
地震が起こったときはグラウンドでドッヂボールをしていて気付かなかったけれど、低学年は机の下に隠れるくらいの揺れが大阪でもあったそうだ。

私が東北での地震を知ったのは、揺れがあってから2時間くらい経った下校間際だった。1年生の教室の前を通って学校から出ようとしていたとき、教室で先生が見ていたテレビの画面。

川の境目も分からないぐらいに溢れた茶色い泥水が、とてつもない勢いで街を飲み込んでいた。いま、このときに、日本のどこかでとんでもないことが起きていることを把握するのには、少し時間が必要だった。

「きゃー-」「高いところに逃げろ!」と声をあげる人々が、数秒後には水に覆われて見えなくなる。自然の前で、我々人類はこれほどに無力なのかと、悲しさと悔しさの入り混じったような気持ちになったのを覚えている。

頑丈な建物を設計できる建築士になりたい

正確にいつからこの夢を持ち始めたか定かではないが、小学6年生まで翻訳家になりたいと言っていた私が中学生でいきなり建築士になりたいと言い出したのには少なからず東日本大震災の影響があるだろう。

3.11のあと、テレビでは「1軒だけ残った施設」「みんなが避難していたけど流されてしまった避難所」など、建物にフォーカスをあてた特集がたくさん組まれていた。1つの建造物の周りで起きた、たくさんの命を巡るドキュメンタリーを見ているうちに「みんなが安心して避難できるような建物をつくりたい」という気持ちが芽生えたのだと思う。

それから月日は経ち、きっかけもあやふやになりながらも「建築士になりたい」という夢を引きずり続けて高校2年生になった。進学コースの理系クラスに進み、模試の志望校の欄にも「〇〇大学工学部建築学科」を並べていた。

東北で見たもの

高校2年生が終わる頃、学校のプログラムで希望者20名が参加できる東北フィールドワークなるものが発表された。応募した人のなかから抽選で20名を選ぶというもので、なんとしてでも行きたいと思い、抽選だから関係ないのに応募用紙に熱意を込めまくった応募動機を書いた。

そして、当選。
晴れて3月に東北に行く切符を手にした。

まちの防災に携わりたい

東北に行くことが決まってから、自分の進路について考え直す時間があった。街に1つの強靭な建造物があっても、ひとの命は守れても暮らしはなくなってしまう。思い出や大切なもの、日常が奪われないようにするためには、そもそも災害に強い街をつくらなければ、と。

どうすれば災害にあわない街が実現できるのか、そのために自分は何ができるか、勉強そっちのけで調べまくった。そして、とあるホームページにたどりついたときに「これだ!」と思った。

当時見たページ▼

逆流する水の力で立ち上がる防波堤の実験映像を見て、かつてないくらいテンションが上がった。科学の力とアイデア・発想力がかけ合わさると、こんなにも画期的な研究ができるのかと衝撃を受け、そのままの衝動で志望校を京都大学工学部地球工学科に変更した。

当時言っていた将来の夢は「防災に携わりたい」という非常にぼんやりしたものだったが、この研究所に入れば何かしらのアプローチで自分も防災に携われると思った。

東北で見たもの

石巻では「がんばろう!石巻」という看板を制作した方が語り部として来てくださり、当時の様子や想い、看板をつくった経緯のお話を聴いた。看板のある場所の近くで遺物の収集作業のお手伝いをして、5年経っても次々と見つかる遺物の数に驚くとともに、復興はまだまだ終わらないんだと実感した。

東北大学の訪問も印象に残っている。
災害科学国際研究所という、震災の経験を蓄積して世界へ発信することを目的につくられた研究所に行った。
当時採択されて半年くらいのSDGs(持続可能な開発目標)と防災のつながりについてのワークショップを受けたり、被災地を3Dカメラで撮影し続けて制作された映画『大津波~3.11未来への記憶』を見せていただいた。

※なぜこんなに詳細に書けるのかというと、のちに大学で災害・復興について話す機会をいただいた際に、当時のことを思い出すために高校の先生に連絡し、資料を送っていただいたものが残っていたからです。
「東北フィールドワーク通信」という、当時の私たちが当日につくった新聞のデータを送っていただきました。

昔のスマホの画像をバックアップしたときに、当日の感想文の写真が出てきた。書いてることは薄っぺらいけど、写真撮ってた当時の私さすが。

東北から帰ってから、防災に携わりたいという気持ちに拍車がかかり勉強に打ち込んだ。高校2年生の終わりという時期に自分の進路をみなおすようなきっかけがあって本当に良かった。

大学生活(超省略)

結局、いくら勉強しても物理の点があがらず京都大学に落ち、関西で土木に関する学科がある私立大学に入学。

そこでもやっぱり物理に躓き、自分はアイデアを広げることは出来てもそれを実現するだけの脳みそがない、と研究の道を諦めた。

防災と土木の関わりについて触れておくと、まず土木というのは道路や橋、河川、傾斜面など街のインフラといわれるもので、街の暮らしを支えるすべての構造物のことをいう。防災は文系理系の融合分野のような感じで、物理的に災害を防ぐアプローチや、市民の防災意識の向上、避難経路の見直しといったソフト面でのアプローチがある。

私はもともと物理的に街を災害から守りたいという気持ちがあったので、街のインフラである土木の世界に足を踏み入れた。

ここでは超がつくほど省略することになるが、大学2年からSDGsの推進活動をする団体に所属したり、地域のコミュニティに関心をもって飛び込んでみたりと、課外活動に力を注ぐことになる。

※また、関連するnoteを書いたら載せます。

土木の知識やスキルよりも、企画のアイデア出しや広報、運営の経験を積み上げていき、就活の時期を迎えた。

就活はたぶん、成功した

過去に就活に関するnoteを2つほど投稿しているが、自分の具体的な話はあまり書いていなかった。

私は大学生活で楽しさを知った「企画」「広報」を仕事にしたいと思う一方で、専門にまで進んだ土木・防災の道を諦めきれずにいた。

建設会社に入ると高確率で現場の仕事をすることになるし、事務員はワクワクしないなぁと思っていた。広報や企画であれば、どんな業界に入ってもある程度楽しんで仕事ができそうだと思いいろんな会社を受けたが、落ち続けた。

最終的に、滋賀県で「建設会社で広報・企画の仕事ができる」という自分にとって最適解のような会社に出会い、内定をいただき今もそこで働いている。

<<Vol.1はここまで>>

とりあえず、土木に関心をもったきっかけから就職に至るまでを書いたので、Vol.2では「なぜこの仕事を選んだか」「はじめに書いた悩みについて」を書こうと思います。


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