ふんわりしたSFからの随想1

「ふわふわとカチカチ」

 ハードSFの対局はソフトSFだろうか。科学的考察や設定、現代物理学的土台を要求しない、ちょっとテキトーなSFが私は好きだ。私の言葉で言うと「ふんわりしたSF」。それは一体何ぞやと、眠れない深夜に考えている。

 恐らく、ハードSFとは、広義のSFから区別する形で使うのが通例だ。個別にハードSFか否かと厳密に考えてゆくと「これは○○の描写が非科学的でフィクションではなくファンタジーの領域である」等の意見が根掘り葉掘り採掘され、厳密なハードSF作品はほとんど存在しないという結論に至りかねない。また、科学の進歩と共に先代の作者がSFとして描いたものが今日には既に日常となり、かつてはフィクション(又は開発以前の研究段階)であった部分がフィクションではなくなっているなんてケースもあるかもしれない。故に、私にとってハードSFとは明瞭に定義し難いものだ。

 そこで、私は自分の好きな「ふんわりしたSF」の輪郭を求める為、現行主流のハードSFの定義とは別の判断基準を用いたい。それは「伝え方」に注目したものだ。記録文書や記録映像に近しい手法により伝えたもの、1次情報や2次情報により近いものが堅い(ハードな)SFであると仮定する。

 1次情報とは体験者が発するもので伝聞が進むにつれ2次3次となる。

 そうすると火星人が襲来したとラジオニュースの体で伝える事が、私の知る限り一番ハードかもしれない。そこから少し軟化させると物語の文脈が入ってくる。例えばエジソンの伝記を今から1000年後の設定でリライトした様な作品があれば、それに当たる。履歴書の職歴欄とは違い作者の意図が伝記には含まれる。また実際はドキュメンタリ映像は何割がファンタジィ(やらせ)なのか、ナレーションでどれだけ印象を操作しているのか議論があるかもしれない。

 では一番軟化した状態とは何だろうか。私の考えでは舞台演劇による表現である。舞台でカッサンドラが血を流していても、役者も観客も救急車を呼ばずに、これはフィクションだと分かった上で参加している。歴史再現を舞台上でしていても、自分が今見ているのは虚構が含まれていて(傷を負った女性が過去にいたかもしれないが)実際には傷を負っていないと思い観劇している。記録文書や記録映像とは明らかに別ものである。

 ただ、これは一概に映像が一番ハードで次に音声で次が文書、最後の演劇が一番ソフトだという順次ではない。例えば、ギリシャの舞台に今カッサンドラが流血していたのを見た人が見てきた様子を身振り手振りで群衆に伝える行為は、現場の1次情報を伝えるさながら記者であり、かなりハードだ。それは童話の映像作品、例えば日本昔話、のよりもハードな作品と言える。

 上記の様な定義をすると、何が良いのかと言うと、ハードSFにはフィクションと言う前提が含まれる以上、一番カチカチなモノは難しく構造的に享楽的なモノを量産しにくいと言える。次に、世間的にハードSFと分類されるSF作品を、演劇的手法に依存した作品であればやわらかいSFとして列挙しやすくなる点が良い。

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