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なぜオリジナルな思想は難しく語られるのか


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読書が嫌いな皆さんは、一度は思ったことがあるのではないだろうか。

こいつは一体なぜこんな難しい書き方をするんだろう。もっと簡単にわかりやすく書けよ。

その相手が、哲学者か思想家か科学者か、あるいは僕に対してすらそんな視線が向けられ得るのかわからないが、文章が難しくならざるを得ないことは間違いなくある。

その一つの理由は、think difficult のシリーズで書いたように、

思考過程を「伝達する段階」で捻じ曲げることを避けると抽象表現にならざるを得ないということである。もっとも、正しく伝達したとしても正しく解釈される保証は全くない。むしろほとんどにおいて誤解される。それでも、伝達する最初の段階から諦めて妥協するのは思想的な仕事ではない。思考は正しく抽象の塊として表現すべきである。つまり、極めて意図的に難解な表現を敢えて選択しているという一面は、間違いなくある。

しかし、実はそれだけではない。

つまり、意図的に表現そのものを難しくしているということとは別に、全体的な構造が全くスムーズでないということもしばしば感じるのではないか。特に古典的な思想書や哲学書などを読むとそう感じることは多いと思う。

とにかく、回りくどい。

僕も若い頃はずっとそう感じていたし、イライラもしていた笑 しかし、そうならざるを得ない理由があるのだ。それは、自分でオリジナルな思想を書いてみた人間にしかわからないことである。

難解な思想や概念のわかりやすい解説書というのは、世に遍く出回っている。しかし、その難解な原著を残した思想家は本当に難解な表現しかできない人間なのか。もし、彼らに改めて自分の著作を編集し直してダイジェスト版を書く機会を与えたなら、それなりにわかりやすいダイジェストは書けるのではないか。少なくとも僕はそう感じている。僕だって書こうと思えば(書きたいと思わないが)難解な書籍のわかりやすい解説書くらい書ける笑 何が言いたいかというと、世に出回っている、ダイジェスト版、猿でもわかる、マンガでわかる『✗✗』シリーズというのは、二次創作であり、思想家が未知とのファーストコンタクトを綴るのとは全く別物だということである。二次創作には生みの苦しみがない。今日では、書籍だけでなく動画メディアなどでも知識人風の解説がたくさん出回っているが、全て二次創作である。

まだ言いたいことが伝わっていない人がいるかもしれない。

真っ白な紙に絵を描けと言われて描ける人は、本当に絵が描ける人だけである。しかし、既に絵が存在するなら、それを加工するという作業は、途端にハードルが下がる。たとえば、上から輪郭だけを写し取る作業なら、ど素人でもできる。背景描写を消して人物だけを浮き彫りにすることもできる。コンピュータを使えばあらゆる加工が可能になるだろう。大量の絵から機械学習で新しい絵を生み出すことすらできるかもしれない。しかし、そのいずれの作業にもオリジナルの絵を生み出した時のイメージをキャンバスに降ろす苦しみは見当たらない。

オリジナルな思想を綴るとはどういうことなのだろうか。日本で大学受験までこなしたことがあるような人なら、一定のボリュームの文章をまとめる経験は持っているかもしれない。しかし、大学受験程度の小論文は、ボリュームが小さい上ほぼ形式が決まっているので、文章そのものがオリジナルであると言えるほどのものではない。もちろん、小論文を書くには技術的な難しさはあるだろうがそれは別の話である。

オリジナルな思想は書き上げるまではどこにも可視化されておらず参照することができない。そんな中、実際に権威的であるかはともかく、権威性を引き受ける(書いたものの責任を取る)覚悟も要る。誰の助けも借りられないし誰のせいにもできない。オリジナルな研究というのも似た要素があるかもしれない。

この辺の記事も関係があるかもしれない。

僕の場合は、自分の考えを綴る際、少しだけ書き出して形にしてはそれを眺めながら考えるという作業を繰り返している。オリジナルな思想を最初に綴る瞬間というのは、自分で全体構造が全て見えていてそれを落とし込んでまとめる作業ではないのだ。もちろん、書き始める段階では既に全てが見えていて後はそれを書き下しているだけだとうそぶいている書き手もいるだろうが、そういう人はおそらくフィクションの作家に多いのではないだろうか。書きながら多少の「書き損じ(勢い)」は持ち味としてそのまま走り抜けるというのを自分のスタイルにしているだけのことであろう。そうやって書き上げたものは、「書き始めた瞬間頭にあった大きなアイデアの寸分違わぬ写し絵」などでは決してなく、あくまでも躍動感あふれる「走り抜けた軌跡」である。フィクションではそれが可能でも、さすがに思想というのはなかなか走り抜ける感覚で綴ることはできない気はする。神がかった才能でそれができる人はいるのかもしれないが、僕には想像できない。もし走り抜ける感覚で「思想」を綴ったなら、カーブのたびに相当な大回りをすることになるのではないか。

ともかく、僕のように構造を重視する書き手はじっくり少しずつ書くべきことを確かめながら書く。存在しない概念に名前を与え、存在しない構造を可視化する。この世に存在しない文章を生み出す。それが僕にとって思想を綴るという行ないである。オリジナルな思想と、既に形にされたアイデアのまとめ直しとしての二次創作とを「わかりやすさ」という指標で比較するのは非常に愚かしい感覚であろう。オリジナルであることを突き詰めれば突き詰めるほど、思考の過程が「生々しく荒々しく」綴られることになり、「わかりやすさ」は失われてゆく。思考の「現場」を綴って綺麗にまとまるはずがないし、そのまとまりきらない過程の中にも思想がある。逆に、

わかりやすく書こうなどと考えた瞬間、思考から生々しさ荒々しさは失われ、手順に則って「既にわかっていること」しか書けなくなる。

オリジナルな思想を綴るには「わかりやすく書かねばならない」という義務との決別も必要になる。だから、誰もオリジナルな思想など綴りたいと思わないのだ。オリジナルとは、自己完結しているということだ。外に賞賛を求めることは全く別な問題である。

今日、メディアで目にする思想家にオリジナルな人がどれほどいるだろうか。

わかりやすいのはそれはそれで良いじゃないか。

これがダメ押しである。こう感じている人が圧倒的大多数だろう。わかりやすい本は読んではダメなのか。

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