Think difficult ! part5「知性とは何か」 -限界を目指すことと日常を営むことはそもそも全く違う【全文公開】
"Think difficult!" を説いていると、いずれ必ずぶち当たる疑問がある。考えるという「閉じた」行ないで、はたして人生が「開かれて」良くなるのかということである。つまり、実践の部分で役に立つのかということだ。
これまで僕がしてきた話は、皆さんの役に立っているだろうか。
これはいわゆる「哲学」そのものについてまわる問題でもある。これまでの多くの哲学者もその問題と向き合ってきたはずだ。哲学はそれ単体で直接誰かを助けられるようなものではない。哲学で飢えを満たすことも病を治すこともできない。誰かを助けるという価値観で語るなら、圧倒的に医学に軍配が上がる。だから、一般的には哲学より医学の方がエラい。もう少し率直に言うなら、哲学より医学の方が、役に立つシチュエーションが圧倒的に多い。それは間違いないし、僕も敢えて異論を唱える気はない。
しかし、一方で哲学を単なる「言葉遊び」だと一笑に付す人達は、おそらく「言葉遊び」という言葉の意味すら理解していない。少なくとも、その言葉に僕が感じる程度の情報量を感じ取っていることすら、まずない。
僕だって病に苦しめばもちろん医学に頼る。哲学で痛みは消えない。宗教なら痛みくらい消せるかもしれないが、残念ながら僕は役に立ちそうな信仰を持ちあわせていない。やっぱり医学は必要だ。しかし、じゃあ医学が常に正しいかというと、それも違う。医学はあくまで道具だ。哲学は道具じゃない。科学も道具だ。統計も道具だ。論理ですら道具だ。道具はそれ自体としての正しさなど持たない。当たり前だ。バカとハサミは使いようである。
でも哲学は道具ではなく、それ自体が既に行為であり目的であって、使いようの工夫の余地などない。
皆さんが一般に「哲学」という言葉からイメージするものは何だろうか。正直、あまりポジティブな印象はないのではないだろうか。せいぜい、「深い」とか「難しい」とかそれくらいの印象だろう。そんな印象、ないのと同じだ。いまどきな表現を拾うと「わかりみ」「尊い」などといった、前回話した「ワンクリック」系の形容詞でまとめられることも多そうだ。こんなものはもはや、ポジティブではなくネガティブである。
哲学は尊い。わかりみ。
これは哲学の否定と言って良い。念の為に言っておくが、否定だから即悪いと言っているのではない。そう感じたなら、もはや皆さんの脳もワンクリック化されているのだろう。
あるいは、哲学へのネガティブな印象は、もっとステレオタイプなものが、古来よりたくさん準備されている。屁理屈。言葉遊び。考えたってわからない無駄なこと。無意味なこと。暇人のすること。
そう。哲学とは「現実の生活から乖離した言語だけで作られた(架空の)世界」というのが最も広く共有されたイメージだろう。そして、それは基本的には「正しい」評価である。
「考える」とは「言語を運用する」ことである。「マラソンを完走する」は「考える」ではない。「酒を飲んで酔っ払う」も「考える」ではない。「楽器を演奏する」やその他「芸術を創作する」に関しては保留しておく。広い意味ではそれは言語運用に入るかもしれない。
哲学を定義するのは難しいが、わかりやすさを重視するなら、哲学とは思考原理主義である。以降、「哲学」という言葉はその意味でのみ使用するので注意されたい。そこでは体験ではなく思考だけが価値を持つ。経験論も、あくまで経験に基づいた思考という意味であって、経験そのものではない。そして、「考える」とは「言語を運用する」ことだとさっきからずっと言っている。だから、哲学とは思考すなわち言語運用それ自体と同値ということになる。言語を使ったコミュニケーションによる「相互作用」は、思考だけで完結したものではないので、その意味では哲学ではない。己のみを閉じた器として言語を運用することが、ぴったりそのまま哲学の必要十分条件である。そして、それを成立させるために最重要なことは「正しい」言語運用である。
言語運用における「正しさ」とは何か。
ほとんどの人は「正しさ」イコール「論理的首尾一貫性」と主張するだろう。正しさとは論理の裏付けである、と。
僕は全くそうは思わない。
論理より先に担保すべきことがある。それは共有イメージのズレを最小限に抑えることだ。抑えることが叶わぬなら、まずズレを自覚することだ。
論理の正しさは、その結果として自動的に担保されてゆくものである。先に論理があるのではない。先に言語があるのだ。それがわかっていない人の「論理的な」言説には、僕はまともに触れる気になれない。
陳腐な数式を書く。
1+1=2
これは論理として正しいから正しいわけだが、先に論理があるのではない。この数式(言語)の意味、定義、文法、そのイメージが先になければ論理もヘチマもない。それが言語というものである。情報という意味では、論理はおそらく言語に先立つか同次元で存在しているルールであると思われるが、手続きとしては言語なくして論理など認識すらできない。だから、哲学における最重要事項は論理の遵守ではなく言語の運用そのものである。極論するなら、言語が自覚的に運用されさえしていれば、論理などどうでも良い。異論はあるかもしれないが、そうでしかあり得ない。
これがウィトゲンシュタイン的帰結である。
たとえば、いま使用した表現において、文脈として「これ」が指すものがちゃんと一意に定まっているか、ここで言う「ウィトゲンシュタイン的」という表現が意味する含みが意図した効果を生んでいるか、「帰結」という語句の選択が適切か、そういったことを日本語という言語の特性も踏まえて入念に検討しなければ、こんな表現は決して使ってはならない。もちろん、どんな表現であれ、計算通りの効果を生む確信があるなら好きに使えば良い。
そして、そこまで徹底して計算して運用される言語というのは、「会話」では成立しない。会話の速度は哲学の速度ではないのだ。だから、ディベートは断じて哲学ではないし、論破という行ないも全く正しさを保証しない。イメージの共有を目指さない、初めから消費を目的とした言語運用は、原理的に知性的なものではあり得ないということだ。『朝まで生テレビ』が知性的であり得るはずがないのだ。それは出演者の問題ではなく形式の問題である。お互いが気の済むまでいくらでも時間をかけて対話を続けるのであれば、そこには知性は存在し得るかもしれない。
「自覚的に運用された言語」のみが知性の生産物である。「反応」は決して知性と関わりを持たない。
反応ではない自覚的言語運用能力は、「そのように」言語運用することでしか磨けない。全てを自分だけで「閉じて」自覚して徹底的に考え尽くす。自ら創り出した言語表現を、使用された語句全ての意味までことごとく定義に立ち返って、徹底的に考え尽くす。自分だけのために導き出したその帰結を、今度は他人にもわかるように「開いて」表現する。その「閉じて開いて」という果てしない反復運動こそが最も効果的な訓練になるだろうと思う。
アカデミックな立場の読者は少ないであろうから、そこからは離れて語っているが、実践的には哲学の訓練とはこうした言語運用の訓練のみを指すと思ってもらえば良いかと思う。
哲学の訓練とは思考力というエンジンのパワーを上げることではない。言語運用のトランスミッションをオートマチックからマニュアルに変更することである。
この表現はいま僕が作ったが、なかなか本質を言い得ていると思う。哲学の本質は、思考の量ではなく思考の様式の中にあるのだ。
ここで冒頭の問いを思い返そう。
こんな訓練をして、役に立つのか。
皆さんが役に立つと感じないなら、今回は僕も強くは言わない。しかし、「知性は自覚的な言語運用にしか宿らない」というのは、僕の中では「火にかければ水は沸騰して水蒸気になる」程度には「物理」である。
そして、もう少し正確に真実について告白する。実際には、知性ある人はいちいち訓練などせずとも初めから言語運用に自覚的である。つまり、初めから言語運用に自覚的な人だけが知性ある人になり得るのであって、自覚的な言語運用を訓練すればいつか知性ある人になれるというのは詭弁である。アヒルはどう訓練しても白鳥にはなれない。みにくいアヒルは訓練などせずとも白鳥になる。念を押すが、これはアヒルと白鳥のどちらが良いという価値観の主張ではない。
知性と知能の違いにも触れておこう。知性と知能はカバーする領域にズレがある。知性は指向性の問題であって知能は能力の問題である。しかし、たとえば高IQで名高いノイマン氏ほどの常識外れた知能があれば、知能の高さだけでも知性の指向する領域を丸ごと含み得るだろう。しかし、たとえば東大京大の学部入試に合格する程度の小賢しい知能は、知性をまるごと飲み込めるほど大きくはない。逆に、大学になど行かぬ者の中にも、名も無き真の知性は存在し得るだろう。
ひと握りの例外を除けば、「知性」とは生まれながらに言語に取り憑かれた人が持つ「狂気」とでも定義するのがわかりやすかろうと思う。
「知性」は訓練で得るものではないという意味である。
「知的である」という人間としての文化的な「香り」と、「知性」という人間であることの限界点を目指す「狂気」は、全く異なるものだ。
「知性」とは頭の良さのことではなく、考えるという行為をただひたすら続ける動機の永久機関のことだという解釈でもわかりやすいかもしれない。
「考える」ことを続けずにはいられない、「考える」ことにおいて言語が果たす役割を自覚するが故に、言語的に意味が構成されるたびにいちいち脳内の回路がショートするほど徹底的に自身にその意味をフィードバックさせ続ける、そういう狂気じみた病的な資質こそが、「知性」であると感じるのだ。こんなものは、たとえば、ビジネス(日常生活)には絶対に要らない邪魔なものだ。ビジネスとは狂気ではなく常識である。狂気などあってはならない。ビジネスの範疇で言う「非常識」は真の非常識ではない。常識をぶち壊せというのはあくまで方便であって、本当にぶち壊してはいけない。常識をぶち壊す真の非常識とは狂気であり、狂気が他者の理解を得る(ヒットする)ことなどない。
冒頭の問いにそろそろ明確な答えを出そう。
哲学的訓練が直接役に立つかどうかは、資質次第である。
もしあなたが、いつだって何かを考えずにはいられない性分を持っているなら、自覚的に考える訓練は役に立つ。それこそがあなたの止められない衝動を制御し得る唯一のものである。訓練次第でその衝動を制御し大きく爆発させることもできるだろう。その爆発が役に立つものなのかどうかの保証はできかねるが、何らかのエネルギーは生み出せるはずだ。
あるいは、資質がない、つまり生きているだけで自発的な問いが言語の形で次から次へと気も狂わんばかりに脳内に湧き上がって「こない」皆さんは、哲学的訓練をしても直接得るものは少ないだろう。ただ、そうした哲学的な言語運用や思考方法は、それを当たり前としない皆さんの日常感覚とは丸っきり異なると思われるので、何らかの新しい視点を得ることにはつながると思う。そして、そのように「身の丈に合わない他人行儀な思考の服を無理矢理着る」ことは、哲学ではなく「思想」と呼ばれるべきものである。
万人が哲学者には生まれつかないし、人類全体のためには絶対にその方が良い。哲学者しかいない世の中を想像すれば、その恐ろしさがわかる。マクドナルドの店員が全員哲学者であったならどうなるか。「フライドポテトの善悪」に決着がつくまでポテトすらまともに揚がらない。そして、そのうちポテトからも離れて、そもそも「善悪とは何か」の議論が始まる。
哲学者に生まれつかなかった者は、思想家になれば良い。
僕がこの一連の文章の中で用いている言葉の用法は、一般的なものとはズレがある。しかし、十分自覚的に使用しているのでズレまで含めてご理解いただきたい。
確認すると、僕が使用している意味においては、「知性」は日常生活を営むことと何の関係も持たないものである。むしろ関係があったなら、そんなものは「知性」ではない。「知性」とは人間の「限界点」を目指す指向性なのだから、「日常」と相性が良いはずがない。
多くの皆さんは、基本的には「知性」を持つことなど訓練して目指す必要はないだろう。実際、訓練しても得られない。でも、人類が全体として「知性」を捨てても良いのか。それを考えるために、「思想」が必要なのである。常識の範疇で、哲学という生々しい行為を追体験しその意味を検討するために「思想」がある。そして、その「思想」の実践には言語運用の訓練が必要、という流れになるわけだ。ようやく言いたいことにたどり着いた。
「思想」を実践するために、別に内在的哲学的動機になど基づかずとも、最低限の自覚的言語運用訓練はした方が良い。もちろんそれはそうであって、そのために僕もこうして考えを説いているわけだが、さっきも言った通り、それは皆さん個人の生活のためではない。人類全体のためなのである。だから、個人レベルなら、こんな話よりやっぱり「人生を変える!明日からできる話し方講座!」でも受講した方が役に立つ。そう思う人には、もちろん僕の言葉は届かない。そして、既に述べたが、会話は哲学ではないので、「話し方」は哲学の範疇にはない。
そもそも「考える」という極限指向的行為を「役に立つ」という日常的基準で測ることに無理があるのだ。
「役に立つ」とは何なのか。
哲学者にとって、「考える」とはそういうレベルのことである。初めから、既に基準を超えている。
自身が生まれながらの「哲学者」ではなかったとしても、せめて、皆さんには「思想家」として「哲学者」の友人になってあげて欲しいと願っている。だから、僕はこんな文章を書き続けているのだ。しかし、これは目的ではなく動機に関わる問題である。強制することはできない。
Think difficult and feel different!
最終回じゃないぞよ
もうちっとだけ続くんじゃ
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