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muvluv 1. ノベルゲームとはなんだろうか #小説マンガゲーム #HUNTER×HUNTER #キぐるみ #文字情報と映像の時間表現 #オタク文化の行方【全文公開】


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これはゲームの記事であっても遊びではない。

1-1 ノベルxゲーム?

僕はテレビゲームが大好きだった。いや、いまも大好きである。さすがに、「フィジカル」が求められる競技的なデザインのvideogameにはもう手を出しづらくなってきているが、それでも様々なジャンルのゲームにそれなりに触れて生きてきた。そんな中、ずっとずっと食わず嫌いしてきたジャンルのゲームがある。テキストを読まされるタイプのゲーム、いわゆるノベルゲームである。

何故だろう。

「テキストとビジュアルとサウンドが融合する」と言えば聞こえは良いが、実際はそんなにうまく機能しているとは、とても感じられないのだ。テキストを「読む」という行ないに要求される「主体性」だけが、他の要素に対して突出して高過ぎる。ビジュアルを「観る」こととサウンドを「聴く」こと、この二つの受け身の動作に対して、テキストを「読む」行ないの整合性が取れていない。早い話が、

圧倒的に「読む」ことばかりに気を取られる。

つまり、「ゲーム」とは名ばかり、操作感がまるでゲーム的ではないのである。たとえば、普通のゲームならA地点からB地点へキャラを操作して動かせば済むところを、「君はA地点からB地点へと重い足取りで歩き始め……」などといったテキストをひたすら読まされることになる。

そもそも小説とゲームは本当に融合し得るのだろうか。

おそらく難しい。それが本当にうまくいくのなら、現時点でノベルゲーム(サウンドノベル・ビジュアルノベル)はもっともっと広く市民権を得ているはずである。僕の数少ないノベルゲーム体験における印象では、間違いなく、ノベルゲームはゲームではない。ノベルである。つまり、「ゲーム(型)ノベル」と言った方がより正確かと思われる。意図されるゲーム進行とテキスト読み進めの主観的時間軸が全く合致しておらず、要するにテキストを読む行ないが常に全てのゲーム進行の律速段階となってしまうことが理由である。どう考えても、これは認識としてはゲームではなくノベルだ。

もう少しだけ補足をしておこう。

1-2 マンガとの比較

ノベルゲームと近しいジャンルのメジャーな文化表現物として、マンガを取り上げて、同様の観点から検討して見せようと思う。

マンガもビジュアルとテキスト(文字情報)から成り立っているので、ノベルゲームに似ていると言えば似ている。しかし、どうだろう、受ける印象は全く違う。一体、ノベルゲームとマンガの何が違うのか。

「動き」まで文字情報に投げているか

ここが、大きく違う。「動き」とは、時間のことである。マンガは基本的にコマを追うことで時間軸を体験するようにデザインされている。我々は、マンガのコマを「読む」ことはない。我々はマンガのコマを「追う」。

マンガにおける文字情報について、もう少し詰めておこう。マンガにおける重大な文字情報のほとんどはセリフである。時々ちょっとした描写(説明)の情報が入ってくるかもしれないが、理想的には、マンガで読まされる文字情報はセリフ(音)のみであって欲しい。それが僕の私見ではある。

先ほどから、僕はコマを「追う」という表現を用いている。我々は、コマを追うという動作の中でマンガの時間を体験している。「読む」というのは極めて主観的(記号的)な行為であり、大げさに表現するなら、そこに時間は流れない。より正確には、(脳内での)時間経過は読み手に委ねられる。一方、目で「追う」というのは外界の動きが基準であるため、間違いなく受動的な時間の流れを生む。本来、画像は止まった構造であり、時間パラメータは含まないはずだ。しかし、映像作品(motion picture)同様、マンガもコマ送りの概念によって、見事に我々の脳をハッキングし、静止画に時間を感じ(錯覚)させているのである。

それでは、日常の時間の流れに身を委ねる中で、我々が最も自然に触れている言語情報とは何だろう。

考えるまでもない。そのほとんどは発話(記録音声の再生も含む)である。つまり時間パラメータを含んだ「音声」言語情報だ。書かれたテキストを、本人の「読む」という能動的な意図なくして受動的に浴びることは、よほど特殊な状況でない限り、ない。

コマを追うというのは、一見能動に見えながら、実は外部の受動的時間経過に依存する。その中で自然に感じられる文字情報はセリフ(正確には音声)だけであるということは、断言しても問題ないだろう。

もちろん、情景の中に自然に配置される看板の文字や、仕事上の書類などの演出で、書かれたテキストがマンガのコマに混入してくるのはリアリティとして何の問題もないと思うが、人物の心情のようなものをつらつらとテキストで書き綴るというのは、「マンガとしては」形式上相性の良いものではない。

1-3 サンプルa 『HUNTER×HUNTER』

その代表として挙げられそうなのが『HUNTER×HUNTER』であろう。僕はあまりこの作品に詳しくない(とっくの昔に読むことに挫折した)ので、以下もどんなシーンかよくわかっていないが、テキトーな見開きページを引用してみる。

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果たして、これはマンガと言えるのだろうか。

僕は『HUNTER×HUNTER』のコアなファンではないので、文字情報にガン振りしてまで作者が表現したいことが、作品全体の中でどの程度の効果を及ぼしているかまでは把握していない。書かれた内容自体は矛盾なく面白い情報なのかもしれない。ただ、よくは知らないものの、断言するが、これはただひとえに形式としてマンガの「情報密度」ではない。

密度とは何当たりの密度か。空間か。

単位時間当たりの密度である。

マンガとは、読み手がある程度自主的にコマを追うスピードを変えることで、時間の流れを自由にコントロールすることが許されたメディアである。しかし、それはコマを「追う」ことができるという前提の上での話である。皆さんは、上に引用した『HUNTER×HUNTER』のコマの「動き」を、マンガとして自然に「追う」ことができるだろうか。僕には到底不可能だ。ひたすら立ち止まって文字を読んでしまう。つまり、通常想定されているコマを「追う」という動作に対して、この場合は、文字情報を読み込むために時間の流れる速度を異常に遅く調整していることになる。これは時間当たりの密度が濃過ぎることの帰結である。僕は先ほど、セリフという文字情報ならマンガ内でも自然に感じると言った。上のシーンでも、一応ほとんどの情報は吹き出しに詰め込まれている。それはどうなのか。もちろん、通常のマンガのコマ速度では追えないので、完全に形式を逸脱していると断言できる。シンプルに、全く自然ではない。

映像作品に変換して考えれば明らかだろう。これは、ギュウギュウ詰めのセリフを三倍速くらいの早口でまくし立てているようなものだ。それが内容などどうでも良い「情報過多」という演出でないかぎり、視聴者は内容を理解する必要がある。そして、この情報量を理解するためには、スロー再生したり、何度も巻き戻して見直したりしなければならなくなる。それは、実験作(アート)ならいざ知らず、少なくとも商業的な映像作品としては、やってはいけないことだろう。

1-4 サンプルb 『キぐるみ』

上で引用したような『HUNTER×HUNTER』のコマは、言わばコマ割りした小説である。僕は、実はラノベとは異なるこの手の「コマ割りビジュアル小説」というジャンルに、かつて一定の可能性を見出していた。随分昔になるが、そのような野心的な作品を実際に読んだことがあるので、以下に紹介しておく。

非常に実験的でとても面白い作品だったと記憶しているが、残念ながら中古市場では、もはや値段もつかないようである笑 よくあることだが、こうして「意味ある」作品が時代に埋もれ意味をなくしてゆくのを見届けるのは悲しいことである。

「NOVEL COMIC」などと称されているこの作品、はたして知っている人はいるだろうか笑 ジャンルとしては、これはマンガという媒体形式を援用した小説である。断じてマンガではない。マンガと小説の融合でもない。まぎれもなく、ちゃんと小説である。それが、とても重要なことだ。変に融合させようなどと色気を出すと、先に述べたように時間軸がブレてしまう。作者が、そこら辺を意図してわきまえていたのかはわからないが、ともかく小説としてちゃんと読める作品になっていて、こうしたイロモノの中では圧倒的に作者の「思想」があった。

「マンガとしてコマを追うことを媒体の最終フォーマットにしない」こういう方向性でなら、おそらく『HUNTER×HUNTER』もそれなりに読める作品にできるのではないかと思うのだが、いかんせん、マンガであることをやめ切れずにズルズルしているのが問題なのだろう。自分の表現したい内容(そのためにかけられる制作コスト)と媒体が噛み合っていないなら、媒体を乗り換えるか、自分で新しい媒体形式を作ってしまえば良いと思うのだが、どうだろう。自身による作画コストがキツいのなら場合によっては作画は外注しても良いのかもしれない。その辺は、作者の作家性の問題ではなく、クリエイターとしてのコミュニケーションの範疇であろうが、まあそれはまた別のお話、今回は置いておこう。

いま挙げた『キぐるみ』なる「NOVEL COMIC」に話を戻すが、この作品は作品で、結局のところあまりに独創的に過ぎ、その後にフォロワーもムーブメントも生んでいない。マンガではなく「文芸」という畑から登場したのも問題だったかもしれない。そもそも、アナログ(本)よりもデジタル(ゲーム)で表現するアドベンチャーゲーム、ノベルゲーム、そういった文化が既にある程度その地位を占めていたことも大きいだろう。こんなマイナーなジャンル、文学を気取っているようなやり方では生き残れなかったのだ。時にはエロという要素で泥にまみれ魂を売りながらしたたかに生き残り続ける「ノベルゲーム」の陰で、「NOVEL COMIC」などというアートの試みは、それなりに面白さはあったと思うが結局一ミリもメジャーに浮上することなく闇に消えていった。

話を整理しておこう。

要するに、

コマを追うという時間の流れをスムーズに感じることがマンガを読むダイナミズムであり、時間の流れは無視してじっくりと文字情報を読み込んで記号的世界(静的構造)を自らの脳内に創造(再構成)してゆくことが小説を読む本質である。

これでおわかりになっていただけたと思うが、この二つが融合することなど、あり得ない。映画字幕が長すぎるとダメなのもよく似た理由だ。時間ベースの作品形式に「非時間」は合わない。繰り返すが、先に挙げた「NOVEL COMIC」は、じっくり読み込む小説という非時間的形式の中にマンガ的なダイナミズム(時間)をあくまでも「引用」しただけである。小説というベースが揺らいでいないから、ちゃんと読めたのだ。

1-5 結論「ノベルゲームはノベル」

では、改めてノベルゲームの話に戻そう。

ノベルゲームは、一般論として少なくとも僕の知る程度の認識では、マンガ的なコマの概念はない。それを古典的ノベルゲームと呼ぶなら、それらは全て、一枚絵の連続である。

一枚絵(画像)に与えられた目的は、「動き」ではなく「説明」である。

だから、ゲームではなくノベルなのだ。

それなら、もう、それはそれで認めれば良いではないか。そう思うかもしれない。確かにその通りである。

しかし、我々一般人はゲームをプレイする時には「ゲームをプレイしたい」のだ。ゲームをプレイする時には小説が読みたいわけではない。

つまり、

僕の最大の過ちは、ノベルゲームをゲームとしてプレイしようとする姿勢にあった

と言える。ノベルゲームはゲームとしてではなく、ノベルゲーム(早い話が小説)として触れなければならないものなのだ。この誤解がすべての根源であった。しかし、そんなこと、教えてくれなければわからない。ゲームとついているのだから、普通にゲームと思うだろう。これは、ノベルゲームという、市場規模の小さな業界特有の怠慢ではないのかと、文句を言ってしまいたくもなる。全て理解して当然のように受け入れてくれるファンがいるがゆえに成り立っているという、日本のオタク文化全般にある、ある種の「甘えの構造」である。新規を迎える入り口が狭すぎる。

わからんやつにはまぁわからんよね。

それは良いことなのか悪いことなのか。

大量のテキストを「読む」という「リテラシー(忍耐)」をユーザーに求めている時点で、ノベルゲームというのは小説同様、初めからそのジャンルのファン向けの娯楽である。万人にわかってもらうことよりも「わかってくれる人だけわかってくれれば良い」というある種の制作者都合のこだわり(諦め)が先立っているのは事実だろう。そして、売るためだと思うが、特に、いわゆる「エロゲ」と呼ばれるジャンルの中で、こうしたノベルゲーは、その「庇護」のもと進化を続けてきたようだ。僕はこのジャンルの歴史には決定的に疎いが、話を聞くに、エロの要素でユーザーを獲得する中、その熱量、売り上げのお陰で、クリエイターは野心的な表現活動を実験するということがうまく両立されてきたのだろうと推測される。小さな市場でなんとか生き残るために、クリエイターの意志とは無関係にエロは必須事項だったのだろう。エロゲには、およそ素人には理解できない謎な名作が山ほど転がっていると聞く。奇妙なことであるが、エロゲというのは、もちろん100%生粋のエロゲもありつつも、しかし、エロが本質ではない意欲的な作品が多々あるらしい。素人にはわけがわからないが、「エロ」というマーケティングの中で作家性が生かされてきたという抜け道は、なかなか興味深くはある。

1-6 『マブラヴ』?

さて、かねてから、そうしたノベルゲーム(エロゲと言っても良いのかもしれない)の名作の存在を、いくつか耳にはしていた。しかし、そのハードルの高さゆえ、ずっと敬遠してきたというのが正直なところである。その中でも、特に気になっていた『マブラヴ』なる作品、これは関連シリーズが大量に存在するのだが、そのうちの『マブラヴオルタネイティブ』という作品がアニメ化されることを知った。この作品は『進撃の巨人』の作者が元ネタにしたなどとリスペクト発言したことで一気に知名度が上がったようだが、なるほど、さすがにアニメ化までされるのなら観てみようか。そう思ったものの、それは素人考え、実はそんな簡単に済む話ではなかった。(何も知らなかった当初は単発の軽いギャルゲー程度の認識だった……)

  • このアニメは、そこに至るまでの前日譚、背景知識として『マブラヴ』という作品をやっていないと、おそらくまともに話を追えない(設定資料的な理解と登場人物への感情移入が追いつかない)

  • そもそもこのアニメシリーズ自体も、原作のボリュームからすればあまりに短すぎて、ダイジェスト感のある作品にならざるを得ない

  • それゆえ、アニメ化される『マブラヴオルタネイティブ』ですらも、まずはゲームで触れた方が良い

以上の忠告を既プレイ勢から受ける。

何だろう。僕はただ

いちアニメファンとして『マブラヴオルタネイティブ』という作品を純粋に楽しみたかった

それだけなのだが、こうなってはもう仕方がない。ということで、遂に、重い腰を上げた。

『マブラヴ』そして『マブラヴオルタネイティブ』この二つの「ゲーム」をやってみることにした。

ちょっとリサーチしただけで、それはもうとてもとても長い旅路になるであろうことは容易に想像できた。それならば、その中で感じたことを、都度ここに体験記として残してゆくことにしよう。そういう次第である。

1-7 ローカルかグローバルか

ちなみに、先日『イカゲーム』というNetflix発で爆発的世界ヒットとなった韓国ドラマシリーズを、話題共有のため(だけ)に一応鑑賞したので、時事ネタとしてその話を少しだけ絡めておこう。この作品は、日本的であることとグローバルであることの差異がはっきりとわかる良いサンプルであった。

日本で成熟した「オタク文化」は、かなり高い精神性を持った、相当に成熟度の高い代物である。ハイカルチャー的高尚さがあるかどうかまでは別として、関わっている人間のこだわりは凄まじい。しかし、じゃあそれをグローバル基準の作品にどう消化するかという話になった時に、非常に大きな問題を抱えることが多い。この文脈でグローバル化するとは、たとえばハリウッド化するということである。いや、もっとシンプルに言い換えるなら、

世界中のどんな文化背景を持つどこの誰が観てもわかるように基準をフラットにする

ということである。そう、日本人の持つディティールへのこだわり気質が、この部分と大きくぶつかるのだろう。

日本人クリエイターは、自らが高い精神性を持つが故に、程度の低いフラットな表現の場へと降りたくないのだ。

もちろん、そんなクリエイターの熱い想いこそが「日本文化を日本文化たらしめている」のだろうが、同時にそれが「日本文化を日本文化に閉じ込めている」とも言えるのかもしれない。それが良いことか悪いことかは判断が難しい。何故なら、売るためとは言え、グローバル(フラット)な基準に合わせるとは、確実に表現の文化レベルを下げることを意味するからだ。それでも「売りたい」ならそうすべきではあるのだろうとは思う。

僕のような、ただ作品を楽しませていただくだけのいちファンの立場としては、正直なところ、資本主義に魂を売り渡して売るためだけに作られた、それこそ『イカゲーム』みたいな作品よりも、同じデスゲームでも、日本でしか理解されなくても成熟した作品の方が面白く感じるのは間違いない。でも、

それではグローバルにはならないのだ。

1-8 思考の臨床記録として

この『マブラヴ』というずっと隠れ続けた名作が、どうやらいま「売る」ことを目指して動き始めているらしい。もっとも、グローバルな視野ではなさそうではあるが、ともかく、僕もせっかく作品に触れる覚悟を決めたので「現象」として少し観測してみたい。

とりあえず、原点の作品をプレイしてみるところから始め、そのプレイ体験を通じて、アニメやゲームに限らず様々なジャンルの観点を幅広く拾い上げ、そう、マブラヴに触れながらマブラヴに限らないあらゆる思考の足跡をここに綴っててゆけたらと思う。

ところで、初めに誰か教えて欲しい。

「マブラヴ」って一体どういう意味なの?


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