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【表現研】ゲーム表現の本質 - 『FF7リメイク』は「はらわたゲー」

※本記事における『FF7リメイク』のネタバレ要素について
強いて言うなら「フィーラー」という存在について少しだけ考察したのがネタバレに当たるかもしれません。それ以外では、本作の内容には一切触れていません。

0. はじめに

先日発売された『ファイナルファンタジーVII リメイク』を、無事にエンディングまでプレイし終えた。一応、配信禁止区域以外は全てYouTubeでLive配信させていただいた。

僕はこれ以上トロコン(トロフィーコンプリート)などのやり込みはやらないと思う。

世間の反応を見ていると、概ね「好評」なようである。確かに、面白い。とても面白い。そう、これが「新作」であるならばね。

『FF7』というタイトルは、ゲーム史(という短い時間軸)においては、もはや「古典」と言っても差し支えない作品である。古典に手を出したのだ。ただの新作で済むはずがない。

これから扱う論点を下に挙げておこう。

1. 原作との対比に意識を向けさせるべきではなかった
2. 枠組みがなくなって情報量だけのお化けになった
3. 厨二過ぎる演出を現代風に解釈し直すべきだった
4. 僕が遊びたかった最強の『FF7リメイク』

では、順に見ていこう。

1. 原作との対比に意識を向けさせるべきではなかった

初めに、少しだけフィクションというものについて話をさせて欲しい。小説に始まり、映像作品も、ゲームも、絵画や音楽といった純粋な芸術すら、基本的には言語という道具立てによって構築された「モノ」である。芸術は爆発であって言語なんかにはよらない、というなら、言語の部分を「イメージ言語」とか「想像力」とかに言い換えて納得して欲しい。

言語によって紡がれる「モノ」は、基本的に「物語」である。それが虚構であるかどうかなど、実はどうでも良い。なぜなら、そもそも「神」を対比に置けば、人の知り得る全ては虚構である。初めから全てが虚構ゆえ、本質的には虚構かどうかなどに意味はないのだ。僕達には真実など与えられていない。その中で、ただ虚構を虚構の濃度で線引きする。

そういう意味で、僕はフィクションとノンフィクションという「区分」に全然納得がいっていない。そこに境界などなく、あるのはグラデーションだけ、としか思えないからだ。言語の成り立ちとしては、フィクションが先立ち、そこにノンなフィクションが続いたのだと思えば、ノンフィクションではなくフィクションの方に本質があるとみなすのは自然だろう。ノンフィクションに本質はない。物語を、無理矢理フィクションとノンフィクションに分けて、「これはノンフィクションだ」などと言ったところで、既に起こった事実の「再現」である以上、それはあくまで架空の「物語」であり、決して「事実そのもの」ではない。まして、「真実」などであろうはずがない。だから、正直なところ、僕には本当にフィクションとノンフィクションの区別がつかないのだ。理屈では、「架空」要素の濃度の違いはある程度認識できても、ファンタジーとルポルタージュが本質的に異なると思えないのだ。「事実に基づいているか」という視点が、一般的な意味でのフィクションとノンフィクションの境界だと思うが、僕は、その二つのスペクトルは不連続ではなく連続であるとみなしているので、そういう流れで話を進めてゆく。

話を戻そう。作品をリメイクするという行ないは、実は相当にこじれた厄介な行ないである。何故かというと、いったん作品がリリースされ世間に広く認知されると、その作品自体が既に「事実」の性格を帯びて一人歩きを始めてしまう。だから、作品をリメイクするというのは、「『フィクションたる作品』に現実世界で手を加えるというノンフィクション」というメタ構造を持ってしまうからだ。しかもその構造は濃淡で表現されるため、視点が混ざり合って話がこじれるのは避けられない。

その構造をまとめるために、本作では、原作にはないあるアイデアが盛り込まれていた。フィーラーという存在である。運命を司る存在として描かれたこの存在は、物語の運命を保存せんとして働く何らかの力である、とのことである。メタ構造を物語内で昇華するのに、もってこいのアイデアではある。いわば、原作の流れを知っているプレイヤーが、物語に干渉する姿、それがフィーラーと言えるのかもしれない。ただ、そうなると、『FF7リメイク』はその世界が原作ありきで存在していること、すなわち、その世界は「作り物である」ということを、あまりにも素朴に認めてしまうことになる。作り手が「これは所詮ゲームに過ぎない」とあっさり認めることは、確実に没入感を阻害する。原作との対比を意識させるような作りは、盛り込むべきではなかった。

2. 枠組みがなくなって情報量だけのお化けになった

僕が言わんとしていることが、通じているだろうか笑

『FF7リメイク』というゲーム、やればわかるが、めちゃめちゃコンテンツがリッチである。リッチというか、世界の表現にものすごいコストがかけられている。世界の中身がギッシリなのだ。それは間違いない。

しかし、枠組みがない。そこには中身しかないのだ。それでも、多くのプレイヤーは、そのあまりの中身の充実ぶり、完成度の高さ、それだけで満足しているのだろうと思う。でも、これは『FF7』なのだ。『FF7』には枠組みは、ある。物語の、ゲームとしてのシステムの、明確な枠組みがある。あった。リメイク版ではどうだろうか。処理しきれないほどの世界表現のリアリティはあふれているが、物語がしっかり世界の枠組みを示しているかというと、僕はそうは思えない。いまさらだが、この作品は原作を何分割かしたうちの最初にあたる「分作」である。そして、「世界の全体」も提示できないまま、原作厨にしかわからないような単語を小出しにしてストーリーは進み、そのまま何も謎は解消されないまま終了となる。

デザインにおいて、「神は細部に宿る」という言葉が割と有名ではあるが、この意味は、乱暴に言えば、細部の細やかさが全体の価値を底上げするといったニュアンスのことである。細部は主役ではないが、そこにこだわるからこそ全体が生きる。

ところが、このゲームは細部を主役に抜擢してしまっている。細部を拡大し過ぎて視野角を失い、細部の情報量に半ば溺れている感がある。細部、ディティールが全体の枠組みに優先してしまって、全体が見えないというアンバランスさを感じる。あの時代のRPGは概ねそうであったと思うが、原作にはもっと「なりきり」の没入感があった。リメイクに、没入感は全くない。リメイクのクラウドは、完全に、画面の向こう側、美しき「作り物」の世界の住人である。想像力を働かせる余地もないくらい全てが作り込まれてしまったからだ。「完璧に」再現された世界というのは、介入の余地のない独立した別世界(作り物)である。何かが足りないからこそ、そこに最後のピースとして自分をはめることで没入が可能になる。演出の意図もないのに、ただただ無邪気無自覚に「完璧仕上げ」を施してしてしまうと、没入よりも鑑賞という態度を呼んでしまう。

はっきり表現するなら、これは『FF7』の世界観を再現したテーマパークアトラクションである。特に原作を知っている者にとって、これはその世界に没入するための『FF7』ではない。異なる切り口からコンテンツを再消費するための『FF7』である。

原作当時は、技術的に当然いまほどの映像再現力はなく、したがってその世界観はかなりのレベルで想像力が補強材の役割を担っていた。想像力が、その世界の枠組みを組み立てる最後のピースとなり、『FF7』の世界は形を成したのだ。当時のゲームとはそういうものだった。ゲームシステムを少し触れば、各ゲームそれぞれの世界の枠組みがどんなであるか、それは容易に想像で埋めることができた。

リメイクでは、世界の枠組み、「骨格」はプレイヤーには与えられない。ただ美しい世界の「情報量」だけがそこにある。骨組みを失って溢れてきた「はらわた」のように、枠組みを持たない「情報量」だけが溢れている。見ることはできる。聞くこともできる。触ることもできる。でも全体はわからない。『FF7リメイク』は「はらわた」をかき分けてもかき分けても、ただただ美しい「はらわた」が出てくるだけの「はらわたゲー」なのだ。骨がない。こういうゲームだと思えば、それはそれで非常に完成度の高いゲームではある。しかし、くどいが、これは『FF7』なのだ。僕達はその視点を放棄することはできない。

正直に言うなら、『FF7リメイク』はゲームである必然性の低い作品であった。この世界観は、他の派生作品と同様に映像作品でも十分表現できただろう。ゲームのフォーマットにする理由がない。

映像としての完成度よりも、ゲームとしての『FF7』の完成度を優先して欲しかった。ミッドガル脱出を描くのに、ここまで細部を拡大する必然性は全くない。オープンワールドを歩く。そして、世界の輪郭(枠組み)に触れる。それができないなら、そもそも『FF7』ではない。

3. 厨二過ぎる演出を現代風に解釈し直すべきだった

かつて『FF7』をやり込んだ少年少女も、いまや、おじさんおばさんである。当時、映像技術に興奮してギリギリ許せていたような意味不明な厨二演出も、いまとなっては結構見るに耐えない。説明のない用語や現象を、小出しにして引っ張りすぎである。さすがに、少し萎えてしまう。

ここまで映像再現度を高めたなら、設定的に、いくらファンタジーとは言え、どうしても一定のリアリティーが求められる空気になる。クラウドがいちいち「頭痛がイタイイタイ」するような意味不明で脈絡のない単なる厨ニ演出などは、全てボツにすべきだったろう。それは映像再現度の低さゆえに許されていたことなのだから。

正直、いい大人となったいまでは、銃と剣が並び立って使われているだけでも十分変な感じはするし、剣で切っても銃で撃っても血の一滴も出ないのも、「ここまでの」映像再現度にしてしまうと違和感を感じなくもない。

そもそも『FF7』の世界観は厨二の塊なのだ。それを最高の映像美で再現などしようものなら、厨二的世界の矛盾、綻びが、同じ解像度で拡大され、浮き彫りになるのも道理であろう。

何もこのリメイクだけが、これまでのFFと比べて際立っておかしな、矛盾した演出を含んでいるわけではない。しかし、映像表現力を増せば増すだけ、映像作品としての表現性の要求度が上がり、結果として、良くも悪くもなっていないこれまで通りの映像演出のクオリティの低さが浮き彫りになっている。ゲームの範疇で比較するなら通用したのかもしれないが、一般の映像作品と比較してしまうと、明らかに映像演出レベルが落ちる。ここまで映像再現度を増せば、当然、ゲームを飛び越えて映像作品と比較される。オタク専用コンテンツではなく、一般向けの作品としてみるなら、脈絡もなく放り込まれる原作知識前提の初見意味不明厨二演出がオタク的同人的排他性を生み出していることは、明らかに作品としてマイナス評価である。

「厨二」という遊び心を真剣にこのレベル(一般映像作品)の解像度で表現しようと思ったら、それはもう、ものすごく頭を使う作業になるのだろうと思う。たとえば、本作発売に遅れること二週間で『攻殻機動隊 SAC_2045』という作品がNetflixで配信開始されている。こちらは映像作品であるが、全編フルCGで制作され、それと同時に、その映像再現度のレベルは本作に遠く及ばない。現代の技術レベルからすれば、背景はともかく特に人物表現が非常に拙い。にもかかわらず、それは紛れもなく『攻殻機動隊』であった。正確には『現代版お手軽攻殻機動隊』だ。まだ全てを観終えていないので全体評価は保留しておくが、映像再現の技術レベルが少々稚拙でも、演出さえ良ければ作品になるのだ。それこそ、モノクロの線画だけでも、演出によっては作品になる。いま挙げた『攻殻機動隊』は、いわば大人の「厨ニ」の極みのような作品である。設定の甘さも可能な限り抑えられていて、『FF7』とは比べるべくもない。それが一般視聴者に耐え得る演出につながる。本作も、ほぼ映画レベルの映像表現をメインにするなら、演出はもはやゲームクリエイターが「ついでに」やる程度のものでは済まないということである。一般映像作品として十分にリアリティを持つレベルの演出にしなければ、作品のバランスがおかしくなる。運転初心者が通勤にフェラーリを使うようなアンバランスさを感じる。拙い運転では、フェラーリそのものがモノとして美しい以上の、掛け算的なダイナミックな価値は生まれない。

演出ができないなら、いっそのこと敢えて映像再現度は抑えて、プレイヤーの想像力をパズルのピースとして利用したオールドスタイルなデフォルメ表現で作った方が良かったのではないか。

4. 僕が遊びたかった最強の『FF7リメイク』

散々、文句を言ってきたが、ではどんなゲームだったら良かったのか。

一応、僕のアイデアを示しておこう。

そもそも、『FF7』発売当時と今とでは、あまりに時代性が違う。社会背景もそうだし、テクノロジーとしても表現できることのレベルが抜本的に違う。だから、古いコンテンツをそのまま美しく作り直すというだけでは、面白いゲームは作れても、名作は作れない。時代性が考慮されていないからだ。

今の時代のゲームの本質は何か。

そんなことは、誰でもわかる。

「マルチプレイ性」である。

マルチプレイそのものという意味ではない。

そもそも、技術的な意味において、もはや表現力はあまりに強くなりすぎているので、作り込んだ物語をただ上から見せられると、それはただ別世界の美しい作り物にしか感じない。想像力の入り込む余地がないからだ。没入感を重視した作品では、必ず、想像力で視聴者が自分自身を最後のピースとしてはめるための「隙」が設けてある。だから、今の時代のゲームはどうなっているかというと、物語は作り込まれない。作り込まれるのは「世界」である。徹底的に作り込まれた世界という「場」が与えられる。その「場」で、たとえば、バトルロイヤルや鬼ごっこをすることで、自分で自分の物語を紡ぐというわけだ。それが、「いまの技術水準におけるゲーム」が意味する「マルチプレイ性」である。

つまり、この『FF7リメイク』は発想が古い。

では、どうすれば良かったのか。

僕たちは、『FF7』の世界で物語を紡ぎたいのだ。作り物の物語進行をただ鑑賞したいわけじゃない。それなら、ゲームでなくとも映像作品で良いのだ。だから、たとえばだけど、『FF7』の世界に住めたなら、それは最高だ。もはや想像力の入る隙もない「なりきれぬ」クラウドを鑑賞させられるより、クラウド達と連続した時空間軸で「自分自身」が隣人として暮らせれば、どんなにわくわくするか。そのための「場」としてミッドガルを作り込んでプレイヤーに開放してくれれば良かったのだ。それが、さっきから僕がずっと言っている世界の「枠組み」の意味である。

物語を上から「見せる」ゲームデザインは古すぎる。物語そのものは各プレイヤーに「紡がせて」欲しかった。それは、MMORPG化しろという短絡的な意見ではない。一本道ではないオープンな世界を担保するために、視点をがらっと変えてプレイヤーが「本人」として参加できる『FF7』として作り直せば良かったのではないか。実際にマルチプレイにするかどうかは、僕の主張の本質ではない。プレイヤーが存分に「主人公」として振る舞える世界観を整える。そのためには、それくらい大胆にデザインを変えても良かったのではないかということである。フィーラーを登場させるのではなく、普通にプレイヤーをキャラメイク込みでそのまま新しいキャラとして登場させてしまえばよかったのではないか。仮に、そんな、自分目線で共にミッドガルを生きる『FF7』が作られていたなら、分作であることによる不満など噴出のしようもなかったはずである。テーマパークアトラクションではなく、テーマパーク「そのもの」を作るべきだったのだ。他にもいくらでもアイデアは思いつくが、ともかく、この『FF7リメイク』は、制作陣が意図した路線での完成度は素晴らしかったが、そもそものリメイクの意図があまりに平凡すぎた。

5. まとめ

以上、気になった点と僕の願望を説明させてもらったわけだが、それでもなお、このゲームは、確かに面白かった。

しかし、繰り返すが、『FF7』は「古典」なのだ。古典を現代風にアレンジするなら、絶対に抜本的なリメイクが必要だった。コケにコケた『映画版FF』の頃から映像演出における進歩がまるで感じられない。FFは映像が「美しいだけ」と揶揄されることもあったりしたが、本作はさすがにそのレベルは十分クリアしている。普通に面白い。しかし、強いて言うなら、「面白いだけ」なのだ。原作焼き直しのコンテンツを消費する刹那的な楽しみしかない。上でも述べたように、いまやゲームとは物語発生ないし発見の「場」を提供するものだ。『FF7リメイク』には、プレイヤーが没入するための「場」はない。あるのは現実から切り離されたテーマパークアトラクションとしての「作り物」の「はらわた」だけ。

そして、不満に関してはこれが最大の理由だと思うが、原作の超序盤だけで本作が力尽きてしまっていること、これが致命傷であろう。このクオリティで仮に全編を一気に再現できていたなら、少し話は変わってくる。「はらわた」しかなくとも、全体(輪郭)が見えていれば、十分ゲームとして成立する。しかし、現実は序盤しか作れていない。これはゲームとして欠陥品である。よく見積もって、最高級レベルの体験版と言ったところだろうか。

そう、FFはいつだって大切なことを教えてくれる、素晴らしき反面教師。

本作が教えてくれたこと。それは、ゲームとはクリエイターが作った物語を見せる「媒体」ではなく、プレイヤーが物語を紡ぐための「場」である、ということだ。FFのクリエイターは、プレイヤーに世界を「見せる」テクノロジー(細部)より、プレイヤーに世界で「過ごさせる」デザイン(枠組み)についてもっと考えるべきだ。「見せる」クオリティーにこだわって「物語」の一部しか切り取れなくなるのではなく、「過ごさせる」クオリティーにこだわって一部しか切り取れなかった「場」をそっくりそのまま「世界」にしてしまえば良かったのだ。

あるいは、もしもこれが本当に広く受け入れられ評価される作品なのだとしたら、作品ではなく僕達の側の問題として、「クソ厨ニ病」が既にクソ無視できない規模のクソ勢力を築き上げていることになる。

『FF7』は技術的社会的時代背景あってこそ成立していた作品である。この論考では社会背景までは触れる余裕がなかったが、間違いなくそこには「世紀末」の日本があった。そんな時代性を切り離して、現代と改めて紐付け直すことの意味。それを、いま一度「深く」考えてみて欲しい。

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