見出し画像

シリーズ「能力主義」#01【哲学的研究】個人的な話から始めよう、必要なのは向上心ではない【全文公開】


  • 本記事は全文無料公開しております。価格表示についてはただの字数に応じた設定です。投げ銭とでも考えていただければ幸いです。

  • 『Core Magazine』購読で購読月の有料記事は月額980円で読み放題となります。購読月以外の有料記事は別途購入となります。


関連記事


1.1 個人的な話

僕は、頭が悪い。

確かに学校の勉強「程度」のタスクで困ったことはない。しかし、自分の判断基準において自分が賢いと感じたことは、一度もない。少なくとも、僕のこれまでの人生の大半は、自分の期待に対する知的能力の不足と向き合い、それを認め、その不足を補完する方法を考え、時に諦める、そうしたせめぎ合いであった。逆に知的能力以外の身体的才能や芸術的独創性といったものには一定の自負はあったが、生まれ育った環境の成行の中で全てドブに投げ捨ててしまった。

僕の頭の悪さの特徴は二段階で説明できる。記憶力の悪さと頭の回転の遅さ。僕の記憶力の悪さというのは、もう少し正確に言えば、動機が存在しない分野の詳細を記憶することへの強すぎる抵抗意識のことを指す。僕の頭の回転の遅さとは、詳細の記憶を拒むことにより思考のベースが著しく抽象に偏り、とっさの会話で具体的な知識を引用してみせることが苦手なことを指す。そして、その二点が、僕が社会とうまく適合しない決定的な問題になっている。

僕は、世の中のほとんどの「人的な営み」について、興味を持てないが故に、ディティールを捨てて抽象した構造しか見ていない。つまり、感覚野の入力のままの景色を全く見ておらず、見た景色をほぼスルーしてワイヤーフレームしか見て(見ようとして)いないということだ。これは比喩ではないので、ピンポイントの動体視力が求められるスポーツは、実際得意ではない。人の顔や名前、その他特定文脈から派生した知識についても、そのほとんどをまともに見ていない。もちろん、人の「存在」そのものはちゃんと見ているつもりではある。いま話題にしているのは「存在」ではなく「営み」についてである。

1.2 権威と専門性

人的な営みを、ただワイヤーフレームでしか見ない。いつからこうしているのか定かではないが、これはおそらく人並に具体性を暗記するのに僕の脳みそではリソース不足であることへの適応である。そして、いまのところ人的な営みの「把握」だけであれば、それで十分に事は足りている。

しかし、そのせいで多くの他人との意思疎通の可能性を捨てていること、これも事実である。

ワイヤーフレームでは、人を「把握」はできても、人と「交換」ができない。

コミュニケーションを情報交換と定義するなら、どれほど抽象されたワイヤーフレーム情報であろうと、必ずコミュニケーションの俎上に乗せることはできるはずだ。しかし、具体的な事実や固有名詞を抜きにしてコミュニケーションを行なうことは、実際には不可能に近いほど困難である。

俎(まないた)に乗せられるのは鯉だけなのだ。俎に、食べられない(具体的でない)ものは乗らない。

一般に、俎の鯉を他人のために調理する人間のことを「専門家」と呼ぶ。専門の中で専門性を全うする人のことは「専門家」とは呼ばない。専門性の中で生きている者は専門外の人間からは見えず、存在しないに等しいからだ。

そして、おそらく、僕には「専門家」でありたいという動機が存在しない。

「鯉」とは専門知識というディティールのことを指している。そして、調理という目的設定の強いプラットフォームに乗った「知識」には、僕は全く興味が湧かないのだ。

この時点で、どうだろう、ほとんどの読者と僕は共感の接点を失っている(コミュニケーション不全を来たしている)自覚がある。さすがに年齢とともにそれくらいは自覚できるようにはなった。

僕などの権威なきオリジナルな意見より、権威ある専門家の具体的な言葉を聞きたい。そういう人がほとんどだろう。

わかりやすさとは、一番しんどい理解の芯の部分を権威に預けて"take for granted"することだ。科学的と言いながら、ほとんどの人は根っこの部分は目をつぶったまま神様に"grant"してもらっている。

そんなわけであるから、神様(共通理解の文脈)を経由しない僕の言葉が世間一般に対して求心力を持つことは考えにくい。そして、僕は全くそれで良いと思っている。

分野に違いはあれ、学習者は皆、基本的には専門性を高めることを目指す。それは当たり前だ。そして、専門性を十分に高めた後、才能に恵まれた者はその道を専らに進む。才能に恵まれなかった者はその階段を一歩降り、生きるために専門性を「利用」し始める。身につけた専門性は社会に"take for granted"され、望むなら「専門家」としての道が開かれる。

権威とは専門性によって成り立っている。つまり、権威とはわからなさで成り立っている。それがわかりやすい説明である。透明な権威などない。原理的に、権威とは関係の不透明さそのもののことである。外部からチャレンジされ得ないことこそが、唯一の権威の要件である。

僕は、自分の頭の悪さもあって、そもそも深い専門性を身につけることを拒んで生きている。だから、僕には権威などない。誰にでもチャレンジされる隙を常に身にまとい続けている。しんどい生き方をしている気はするが、それで全然構わない。少なくとも僕は、他人にチャレンジされて減るような生き方などしていない。

僕は、確かに世の中の全てを知らないが、しかし世の中の全てを確信している。

そう言い切れる生き方をしてきた。だから、自分の無知を恥じる気持ちが全くない。もちろん、僕が無知であることは上で説明した理由、すなわち僕の頭の悪さに基づくことは理解しているので、決して開き直って自分が賢いと言っているわけではない。これはあくまでも自分なりの適応である。頭が悪いなりに、僕は専門性にリソースを割き過ぎて足元が見えなくなるよりは、この方が良いと確信している。

1.3 向上心という硬直性

知識人が理解し合えないのは、「知識」をぶつけ合うからだ。知識とはその人にとって侵され得ない絶対領域である。絶対領域同士は決して重なり合わず、結果的にいつも対決姿勢を生む。しかし、僕は知識という絶対領域を持たず(頼らず)に生きているので、おそらく知識人と相対しても喧嘩にもならない。他人と重なり合うこと、自分の領域を他人に侵させることに、何の躊躇もない。そんなところに、意固地になって守るほどの己の自己同一性など感じていない。

知識を得たい、賢くなりたいという気持ち。知識が賢さなのかという問題もあるが、何よりも、知識欲というのは完全に麻薬である。知識には依存性がある。「知って」いれば、無条件に社会に"take for granted"され、他人からチャレンジされないからだ。知識はコミュニケーションの待避所である。皆さんも、ほとんどが「知りたがり」だろう。知ることで自分を「高めたい」と願っているだろう。人はそれを向上心という。

僕にとって向上心は決してポジティブな言葉ではない。上を目指すとは何か。下を作り出すということである。下がなければ上という概念もまた存在し得ない。つまり、上を目指すとは、全員で一斉に丸ごと一段階上に上がるという意味ではなく、下の存在を認めつつ自分だけが上に上がれさえすれば良いという欲望の意味である。上を目指すとは、当然下になりたくないということでもある。だから、一度上に上がった者は、高貴なる「善意」をばらまくことはあっても、自発的意志で自らが下に降りてくることはない。

これが向上心では絶対に世直しができない理由である。

いくら上からお金や「善意」をばらまいても、原理的に「世直し」には届かない。もっとはっきり言うと、世は直されるものではなく直るものである。

では、「上」にいない我々一般人はどうやって生きればよいのか。どうやって生きれば世は「直る」のか。

上ではなく前を見て、ただ生きればよい。

たったそれだけのことができないせいで、人類は永遠に争い続けている。はたして、今後それを社会の原理に実装できるのか、そんなものはあくまで手の届かない倫理的理想としてただ眺めるしかないのか。

皆さんは前を向いているだろうか。それとも上を向いているだろうか。

俺が世の中を変える。私が世の中を変える。

本当にその気持ちは変革に届くのだろうか。

ここから先は

0字

¥ 300

私の活動にご賛同いただける方、記事を気に入っていただいた方、よろしければサポートいただけますと幸いです。そのお気持ちで活動が広がります。