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ワークショップ第09回『倍速視聴といふこと』【表現研】[20210719-0801]

皆様、お待たせ致しました。お待たせし過ぎたかもしれません。西村による『ジェイラボ部活動 ワークショップ』のお時間がやってまいりました。

今回はこの活動の言い出しっぺである僕が直接担当して、進行をコントロールしながらそもそもイメージしたワークショップ像を、一つの参考として提示させていただきました。この部活動自体は『文化表現研究部(表現研)』という名目で、アニメ班マンガ班ゲーム班実写班という内部カテゴリのメンバーでオタク的な精神で作品そのものやその背景について考えようという体になっております。高尚な芸術作品は基本的には扱いません。よろしくどーぞ。

今回は、「ネット配信の映像作品を倍速視聴すること」の是非をテーマとして扱いました。記事のタイトルは、後半に突然小林秀雄の話が出てきたので、それっぽく少し遊んだだけです。深い意味はありません。

なお、問題意識を共有するため参考として指定したブログ記事がありますのでリンクを置いておきます。まずこちらに目を通してみてください。

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参考記事

#0 「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来

#1-1 映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由

#1-2 『逃げ恥』『シン・エヴァ』…「リテラシーが低い人を差別しない」作品が時代を制する

#2 「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由

#3 失敗したくない若者たち。映画も倍速試聴する「タイパ至上主義」の裏にあるもの

#4-1 若者のあいだで「批評」と「スポーツ観戦」が不人気な理由


#4-2 「インターネット=社会」若者の間で広がる「セカイ系」の世界観

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では、これからこのワークショップで行われた議論を貼りますが、PDF化して読むべきレベルでめちゃくちゃ長い(48,000字)です笑 それこそ「倍速で読みたい」あるいは簡潔な「まとめ」が欲しいというところになるのかなとも思います。いつもの僕なら「やかましい」と言いながら長大な議論の中に意図を埋めるんですが、今回はテーマがテーマなので、敢えてお手軽に先に結論を見せることにします笑 時系列を並べ替えて、参考記事のポイントと今回のテーマに関する僕の総括を先に配置しておきますので、お手軽に結論に触れた上で、更に詳細な議論に興味を持たれた方のみ、過程をお楽しみください。僕もかなりの量の投稿をしていますし、たくさんのご意見をいただき、それなりに刺さるポイントもたくさん埋まっていると思います。

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ポイント

にしむらもとい
さて、
忙しくて記事なんか読んでられないという皆さんのために、記事のトピックをもう一度ポイントとしてまとめ直して、以下に並べておきます。
【記事まとめ(西村成分多め)】
■昨今の視聴者の傾向
・映像作品はネット配信で観ることが多い
・ネット配信は再生速度を速めて観ることが多い
・かったるいシーンは平気でスキップする
・話の流れは全て言葉でわかるように説明して欲しい(思考力を使わせないで欲しい)
・自分で思考したくないので与えられる文字情報も多いほど良い(ただしわかりやすいものに限る)
・「わからない=自分の頭が悪い」を認めたくない
・オタク属性(作品を観たという結果)だけが欲しい(×作品を観た結果属性を得る→〇属性を得るために作品を観たという事実だけで良い)
・自身(および自身の推し)への批判を看過できない
■視聴者が時代背景から受けた重大と思われる影響
・全てをセリフで説明しないとわからなくなった(わかろうとする意識がなくなった)
・謎(わかりにくさ)が喜び(面白さ)にならなくなった
・視聴者から見た映像作品の定義が変わってしまった(制作者が意図した経過時間が意味をなさなくなった)
・ストーリーさえ(情報として)わかればそれでよくなった
・おもしろいという(ポジティブな)感想をシェアするのがリスクになった(おもしろくないと否定されるのが怖い)
・負け馬に乗るオタクのかっこよさは失われ、勝ち馬だけが生き残る空間になった
・背伸びしてなんとかわかろうとする姿勢は時代に合わなくなった(習慣の問題)
・「なろう系」主人公のようにアビリティをチートで身につけるという概念が、作り話ではなく実感覚としてリアリティを持った
・需要の多様性がなくなった(目的がシェアなので視聴者もシェアしやすさを優先し冒険しなくなった)
・スポーツを観る若者が減った(スポーツの試合は応援したからと言って自分に都合の良い自分が気持ち良くなれる結果が得られるとは限らない)
・しっかりした(体系的かつ本質的な)批評を受け入れる素地がなくなった(即時的に理解できない)
・「推し活動」の楽しさだけがオタクの基本動機になった
■理由・背景
・サブスクなどで安価で観られる作品があまりに増えすぎた
・特にNetflixは、デフォルトで字幕が完備されており、イントロスキップなどの機能も初めからかなり入念に準備されていて、明らかにコンテンツの大衆消費の仕方に強い影響を与えている
・即時的に感想をシェアできるソーシャルメディア空間が幼稚な観客を可視化して民意として固定した
・ゲーム原作などの場合、映像作品はマーケティングの役割を強く担っている場合があり、そうした場合は商品説明の役割が伴うので、作品として以上に説明のわかりやすさが求められる
・「リテラシーが低い人を差別してはいけない」というポリコレが生み出された
・「やってみて失敗しないとわからない」はいじめ(時間の無駄)
・キャリア教育が学びすら効率化した(ライフプラン、キャリアプラン、綿密なロードマップetc)
・効率重視の結果、作品を体系的に鑑賞する習慣を持つ若者が減った(体系的な理解に基づく評論は重すぎて消化できない)
・好きなものを好きに愛でるという極めて個人的純度の高い、自分だけの「快適」が許される空間が作り上げられた
・社会に対する解像度が低い(ネット、とか、みんな、とか極めて括りが大雑把)のでコンテンツの中身よりも顔が見えること(知り合いである、親近感が湧く、など)に安心する(内容の良さより誰とシェアするかが重要)
■作品に返ってくるフィードバック
・ストーリー情報(プロット・伏線)が作品の全てと判断されてしまうことに自覚的になった
・手触り、肌触りのような、生身の感覚みたいなものは作品の価値から除外された
・特にラノべ作家などがソーシャルメディア空間の幼稚な読者からの反応のフィードバックを受けてしまい、大衆から突っ込まれないことばかりに寄せて作るようになった(ポピュリズムの極み)
・「早送りしようが何しようが視聴者の自由」という意識により、映像作品もある種オープンワールドゲーム化した(作品内イベントのどれを体験してもしなくても「差別」があってはならない)
■記事執筆者の最終まとめ引用
タイパ(タイムパフォーマンス)重視。手っ取り早く何かを得たいマインド。エンタメに快適さだけを求めること。批評に不寛容で、好きなものを絶対にけなされたくない気持ち。その背景にある、若者たちが受けてきた「個性重視」という外圧や、SNSの爆発的普及。これらすべてが、つながっている。倍速視聴という習慣は、時代が生んだ必然だったのかもしれない。

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総括

にしむらもとい
■西村総括(いつも通り長いです、すいません笑)
今回題材とした記事のベースになっている話を簡潔にまとめると、要するに、「シェア可能性」という綺麗な直線に乗らない情報が全てないがしろにされて、「シェア可能性」だけが作品を鑑賞する動機において「唯一の正義」になりつつあるのだと思います。リニア(線形的、予測的)でない情報は、「シェア」の際に相互不一致を生み、自身がコミュニティから弾かれる可能性も生むので、極めて単調でほぼ一意に伝達できる情報だけを用いて作品を捉えることが習慣になりつつあるように感じます。

僕が先日読み終えたマンガ『進撃の巨人』や以前実況したゲーム『十三機兵防衛圏』などは、ただ伏線だけが凝っている作品で、作中にリアルに動いている生身の人間を感じませんでした。『シュタインズ・ゲート』くらいの時代まで遡れば、伏線がめちゃめちゃ凝っていても、同時にまだちゃんと生身の人間も感じられる作品がメインストリームだったように思います。つまり、話のプロットを横に置いて、ただ時間の流れに任せてぼーっと見ていても「感じる」ものがありました。これが、いわゆる文学とラノベの境界でもあると僕は認識しています。

文学は伏線の設計(デザイン・骨格)の見事さなどではなく、描かれた人間の生々しさ(実体・皮膚感覚)という刹那にこそ宿るものです。ラノベの本質は設定資料集であると僕は以前から主張していますが、その意味でラノベの価値は情報の(構造的な)複雑性にあります。だから、伏線さえ凝っていれば、「この作者は頭が良い」というとてもわかりやすい「シェア」が成立します。この「シェア可能性」の文脈は、YouTubeやTwitterその他あらゆるソーシャルメディアを論じる際、全く同様に存在します。少し検討してもらえれば、シェア可能性でコンテンツの価値が決定されていることが容易に確認できるはずです。そして、ソーシャルメディアにおける「シェア」というのは「共感」とは異なるというのも、ある程度実感いただけるのではないでしょうか。

「◯◯感」という用語を「シェア」することはできても、感覚そのものは「シェア」できません。ソーシャルメディア空間でバーチャルに「シェア」するという目的が、生身の自分が目の前の何かから何かを直接感じるという行為よりも、価値として先立つようになっているのだと思います。それは、そうした空間に滞在する時間が増えれば誰にでも自然に起きる感覚だと思います。異を唱えていたはずの僕ですら、いまやそうなりつつあります。まして、それがネイティブの世代はそこに疑いなどまず持たないでしょう。そして、「シェア」できる情報というのはデジタルな情報であるという話に戻ってきます。

情報が「シェア」できる条件として「リニアである」という表現を先に用いました。要するに、計算式に放り込める情報しか「シェア」できないということです。考えが「薄っぺらい」という表現がありますが、解釈に豊かな幅を持つ考えは加工しないと計算式に容易には放り込めません。「薄っぺらい」考えというのは解釈が単純ということであり、そうであるからこそデジタルな空間で容易に「シェア」できるという側面があります。「はいかいいえで答えてください」という「薄っぺらい」言い回しによく現れています。全てが「はいかいいえ」で答えられる空間にどのようにして文化的な「豊かさ」を保存するのかあるいは保存するべきなのかに問題は残りますが、その方向に時代が進んでいるのは間違いないと思います。量子コンピューティングなど更なる技術革新で曖昧さをも計算に飲み込んでその風向きが変わることがあれば、また面白いとも思いはしますが、どうなるかわかりません。せめていま自分にできることとして、単純な「シェア」に乗らない厚みのある活動、もっと端的に言うならこうした「面倒臭い」活動に意味を持たせる場というのを提案できないかと考えて、このような活動(ジェイラボそのものやこうした部活動など)をしているという側面があったりします。

そう考えると、作品の批評というのはなおのことわかりやすく「薄っぺらい」ものであってはいけないように感じます。それはもちろん「衒学的」であれという意味ではありません。あるいは、もはや作品それ自体が完全に「シェア」そのものへと同化してしまい、作品の楽しみ方というのは作品の鑑賞から切り離されて批評空間にしか存在しない、そんな事態にもなり得ると、僕は感じています。作品に触れること自体に「楽しむ」という要素がなくなる。それは一見恐ろしいようにも感じますが、よく考えれば文化というものは要素を一度切断し新たなマナーとして再構成することで洗練されてきたという側面が確実にありますので、そんなものなのかもしれません。
ようやく今回議論のきっかけとして用いた「倍速視聴」の話に着地しますが、以上の観点から今の時代における「倍速視聴」は、僕の個人的な意見としては、何ら問題ある行為ではないように思えます。視聴するという行為そのものからは、「楽しむ」が切り離されたのだと考えるなら、視聴自体は単なる「摂取」でしかないということになりますから、早く食べるか遅く食べるかという議論と変わらなくなるのだろうと思います。おそらく、これからの時代においては、「楽しむ」というのはもはや誰にでも許された気ままな行ないではなく、極めて自覚的な高いリテラシーが求められる行ないになってゆくのかなと感じています。すなわち、中毒のようにYouTubeで動画を観ている人々は、いまのこの文脈においては、そうした動画を「楽しんで」いるとは全く言えません。

というわけで、僕が現在行なっているこの『ジェイラボ』というちっぽけなコミュニティ活動の理念(YouTubeで「教育」はできない)と今回のテーマは、実は完全につながっていた、ということで、めでたくオチとさせていただきます笑

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それでは、以下、詳細な議論を時系列順に貼りますね。

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一日目

にしむらもとい
さて、それでは今週から(『ゲーム研』を吸収合併しました)『表現研』によるワークショップを始めさせていただきます。ひとまず今回分は西村が責任をもって担当させていただきます。
ある一連のネット記事を取り上げてきっかけとして、いまの時代のコンテンツとの向き合い方について考えてもらおうという内容になります。一定のタイミングでこちらからトピックとアンケートを投下していきますので、皆さんは受け身でトピックを追いながらアンケートに答えてみたり、言いたいことが出てきたら大いに発言してください。部員からも適宜、意見は投下されると思います。今回は、僕が言いたいことが、初めからやや強めにありますので、ちょっと「西村色」強めになるかもしれません。よろしくお付き合いください。

にしむらもとい
ひとまず、参考にして欲しい一連のネット記事を貼っておきます(冒頭に移動)。目を通してみてください。

にしむらもとい
情報量がまあまあ多いので、本日はここまででとどめておきます。明日以降、この記事をベースに少しずつトピックを追加で投下していきますので、何がテーマとなるのか理解しておいていただけると嬉しいです。

Takuma Kogawa
本題に大きく関係しなさそうなことを書いておきます。
学生時代に、他大学の学校祭でジャズ研の演奏を観に行きました。演奏が盛り上がったと思ったら急に音を出さなくなったシーンがありました。私を含めて会場にいた人はみな「演奏中」であることを理解していたため、じっと演者を見ていて、しばらくすると再び音を出し始めました。演奏終了後に、無音の部分はジョンケージの「4分33秒」を演奏していたとMCがありました。もしライブではなく映像で観ていたとしても、私は飛ばすことはしないと思います。
最後に記事に関連して言いたいことがあります。逃げ恥の新春スペシャルは、変に社会問題を入れすぎて世界観がおかしくなっていたため、私はあのシナリオを許しません。

にしむらもとい
「4分33秒」の演奏についてのお話は今回のテーマに関連したとても良い具体例を挙げていただいたと思います。ありがとうございます。
その「曲」に関しては、生の会場ではなくコンテンツとして触れた時に、どの程度の価値があるのかは評価が難しい気もします。会場にいたならその雰囲気を肌で感じられると思いますが、コンテンツがその空気を再現できているのか。熱心な音楽愛好家ではない僕は飛ばしてしまうかもしれません……。

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二日目

にしむらもとい
二日目となります。よろしくお願いします。最初にひとつアンケートを提示しておきます。これは最終日に集計しますので頭のどこかに置いておいてください。

にしむらもとい
アンケート#01
文化的な表現物(作品)の楽しみ方は素養(体系的な知識の習得や背景の理解その他の訓練)次第で変わるのか

にしむらもとい
さて、
忙しくて記事なんか読んでられないという皆さんのために、記事のトピックをもう一度ポイントとしてまとめて直して、以下に並べておきます。(冒頭に移動)

にしむらもとい
では、本日もここまでとしておきます。もう一度論点を整理して、可能なら記事を読み直してみておいてください。明日からアンケートなど進めていきます。 

にしむらもとい
まだウォームアップ期間ですが、記事および僕のまとめの中から気になるポイントがあれば言及していただいて構いません。 

にしむらもとい
せっかくなので例に挙げていただいた「4分33秒」についても、感想程度で構いませんので良かったら教えてください。 

ていりふびに
(1)「4分33秒」について
「4分33秒」という作品は、僕も含めて多くの人は音楽作品なのに楽器を演奏しないという意外性に関心を持っている気がします。
作品の生身の感覚よりも作品の情報への興味が上回っていると言えるかもしれません。
(2)記事全体について
最近はyoutubeでの動画のように短い時間に「起承転結」が詰まっているようなコンテンツに慣らされている感覚があり、コンテンツとの向き合い方を少しずつ考えているところでした。
そのため普段ネット記事はあまり読みませんが、貼ってある記事はすでに読んでいるものが多かったです。
しかし、読んだだけでまだ深く考えてはいなかったので、このWSがいい機会になりそうだと思っています。
にしむらもとい
(1) おっしゃる通り「4分33秒」に関して最も重要なことはそこで新しく提示された作曲上の「概念」だと思います。そして、「それ」を本当に真面目に「聴く」かどうかという段階になった時には、関心が「情報的」であるからこそ複雑性を伴ったアナログな感覚がそこにあるかはそれなりに重要な気はしています。全てわかった上で、録音された「4分33秒」を真面目に聴くのは少し馬鹿らしく感じてしまいます。でも、「録音」を聴く中でもそうした「概念」について思いを及ぼすことは可能なので、結局この曲の鑑賞においては作曲上の意図を知っているかどうかが一番重要なのかもしれません。
(2) この二週間お付き合いいただけると幸いです。
バックれ
4分33秒は「コンサート」という文脈内での作品だと思うので、おもむろにスマホを取り出して「ホレ、4分33秒wこの沈黙が〜」とかぬかしてくる輩は殴りたくなります。あのなっがい、また芳醇な音をドバドバ浴びる中での4分33秒であると思いますねん。
作品を自由に楽しむ姿勢はどこに行ったんや…
Takuma Kogawa
4分33秒は音だけ聞いても何の価値もないと思います。その場の空気、演奏者のパフォーマンス(積極的には音を出さないもの)を感じるものと理解しています。聴覚刺激がない分、他の感覚が研ぎ澄まされるといいましょうか。
何度かライブペインティングを観たことがありますが、演奏なくただ絵を描く時間を設けている人もいます。これも広義の4分33秒だと思います。

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三日目

にしむらもとい
三日目となります。よろしくお願いします。本日はアンケートを置いておきますので、アンケートをきっかけに何か思うところがあればご意見いただければ幸いです。

アンケート#02
映像作品のオープニングやエンディングを早送りやスキップすることはあるか?

ある    19
@Hiroto, @ていりふびに, @yuuma, @Yujin Yonehara, @イヤープラグさざなみ, @せきと, @西住, @ほうむたろう, @Shun, @さかぼう ver.狂蝉, @Takuma Kogawa, @マッキー, @GZ, @谷本, @いいだ, @にしむらもとい, @コバ, @シト, @野澤
ない    4
@バックれ, @蜆一朗, @光, @Tsubo

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アンケート#03
映像作品「本編」を早送りで(1.5倍速や10秒スキップなどを使用して)観ることはあるか?

よくやる    2
@ほうむたろう, @にしむらもとい
たまにやる    2
@さかぼう ver.狂蝉, @マッキー
やらない    17
@Hiroto, @ていりふびに, @yuuma, @Yujin Yonehara, @イヤープラグさざなみ, @せきと, @西住, @蜆一朗, @Takuma Kogawa, @Shun, @GZ, @谷本, @いいだ, @コバ, @光, @野澤, @Tsubo

Created by @にしむらもとい with /poll
アンケート#04
映像作品を早送りで観ることは悪いことか?

とても悪い 0
多少悪い    9
@Yujin Yonehara, @せきと, @蜆一朗, @Shun, @マッキー, @いいだ, @コバ, @野澤, @Tsubo
悪いことではない    12
@Hiroto, @yuuma, @西住, @Takuma Kogawa, @ほうむたろう, @さかぼう ver.狂蝉, @ていりふびに, @GZ, @谷本, @にしむらもとい, @光, @バックれ

Created by @にしむらもとい with /poll
アンケート#05
1.5倍速と10秒飛ばしは本質的に同じ行為か?

同じである    3
@蜆一朗, @Takuma Kogawa, @さかぼう ver.狂蝉
同じではない    19
@Hiroto, @yuuma, @せきと, @西住, @ほうむたろう, @Shun, @Yujin Yonehara, @ていりふびに, @マッキー, @GZ, @谷本, @いいだ, @イヤープラグさざなみ, @にしむらもとい, @コバ, @光, @バックれ, @野澤, @Tsubo

Created by @にしむらもとい with /poll
マッキー
作り手の伝えたい情報を毀損させるという意味では同じかなと感じてます。でも、倍速は情報に可逆性が残るという点で10飛ばしとは異なると感じます。つまり、1.5倍速で見たモノを頭の中で等倍の感覚に再構成できる可能性は残っていると思うんです。記事の中で出てきた”間”も含めて。でも、10秒飛ばしは情報自体が欠落しますから、その部分は再構成のしようがない。この点は質的に異なると言っても良いレベルの違いかなと思います。
にしむらもとい
基本的にはその通りと思います。「本質的に」と問いましたが、結局のところ人間の基準なので、人間が読み取れる「意味」という点において、両者には確実に差がありますね。ただ、一点強く念を押したいことがあります。倍速視聴は、僕は字幕がついていなければやりません。英語だからとかではなく日本語のアニメでも字幕がなければ倍速では観ません。つまり、倍速視聴も実質Netflix専用です(恐ろしい) そして字幕付き倍速視聴している時は、明らかに字幕を読む作業に追われます(「小さなため息」みたいなものまで字幕で追う羽目になる)。なので、未視聴の作品をハナから倍速視聴した場合、等倍速で観た時得られたであろう情報量を後から再現することはたぶんできないと思います。字幕ばかり追っているので。つまり、倍速視聴は、間の取り方などの感覚的なものだけではなく、明確に量としても情報の選択を行なっているので、再構成の可能性は、僕はない気がしています。それでも、そうした視聴をしているのは、現状では僕自身の好奇心が原因ですね。そういう視聴が可能な環境が準備されているならそういう視聴をすることでどんな感覚が生まれるのかというのを試してみたくてやっています。そして、段々ミイラ取りがミイラになりつつあります笑
バックれ
確かに倍速するときは字幕を追いますよね。だからこそセリフで表現されていく必要性も高まる、と…
飛ばしはほんとに離散的なジャンプですから、もう元の作品のテイは保ってないですよね。切り抜きとかダイジェストならまだしも、初見の状態で10秒ジャンプはもう…見なきゃええやんって思います。

にしむらもとい
以上です。よろしくどーぞ。

Takuma Kogawa
映像作品としてアニメを想定すると、基本的にオープニングとエンディングは同じと想定されるため、そこをスキップすることは合理的といえます。作品によっては回ごとに変化するものもありますので、すべてスキップするともったいない(が、スキップした人は気づかない)こともあります。
アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」のエンドレスエイトはほとんど同じ話を8週間連続で放映したのですが、このうち7回を丸々観ないことが合理的かというと、私はそうは思いません。微妙な変化を楽しむのが良いところだと思いますが、昨今の視聴者がどう考えるのかは興味があります。
スキップと倍速再生は、製作者の意図を無視した視聴をしているという意味では同じだと思います。また、ここで短縮した時間をSNSやネットサーフィンに使うのであれば、削減したコストと得た/失われたパフォーマンスを比較すると「あなたにとってコスパとはなんなのか?」と疑問です。

にしむらもとい
映像作品の視聴がネット配信主体になったことが明確に影響を及ぼしていると思います。円盤で観る時は、正直飛ばしたり戻したりするの逆に面倒というか、腰を落ち着けて観る気分で観ますので、僕も飛ばしません。でも、Netflixなんかだと、最初からイントロはスキップありきでスキップ機能ついてますし、エンディングは視聴者の意志でスキップを止めないとむしろデフォルトで勝手にスキップされてしまいます。たまにいつもと違うパターンのオープニングやエンディングだったりすると、それはそれでスキップしないでいてくれたりします。他の配信サービスはここまで「親切」ではありません。視聴者(顧客)に提供するサービスとして突き詰めた結果、競合に勝つためにこういう部分がウリになったのだと思いますが、プラットフォームとして明らかに視聴スタイルそのものに強く影響を及ぼしています。僕も、同じ作品がNetflixとそれ以外で観られるときは、ほぼNetflixで観るようになり、かつそうしたスキップ機能を多用しています。
製作者の意図を無視した視聴は幾分の問題を孕んでいるのは間違いないと思います。つまり、「こうした観られ方をすることを想定していなかった時代の作品」については、僕は飛ばし方はかなり慎重に対応します。それでもモノによっては飛ばします。でも、自分が大好きな作品を観直してじっくり製作者の意図まで含めて楽しみたいというような時は、飛ばしません。
「削減したコストと得た/失われたパフォーマンスを比較する」というのは具体的で考えやすい観点ですね。明らかに失われたものはあると思います。でも、作品そのものも変わってきているので、少なくとも今、進行形で作られている作品群に対しては、そういう単純なトレードオフの感覚では捉えきれない部分もあるのかもしれません。

Takuma Kogawa
ありがとうございます。私はNetflixなどのネット配信サービスを利用したことがないため、感覚としてわからない部分がありました。テレビか円盤で観ていたので、視聴について「お節介」をされることがありませんでした。視聴者自身の視聴スタイルが先に変わったのか、最近の配信サービスの意向を受け入れているだけなのか、興味深いです。ニコニコ動画の一般会員がシークできない仕様だったのは、ある意味でクリエイターフレンドリーといえるかもしれません笑

Hiroto
エンディングなどをスキップすることはあるにはありますが、多少の罪悪感というか、「全部見ました!」と手放しで言えないなという気持ちはあります。
なので、「全部見ました!」と言いたい作品に関しては、極力どこも飛ばさないようにして見ています。
また、どこからを映像作品ととるのかと言われると#03は微妙だなと思います。YouTuber(所長以外)の動画なんかは飛ばしまくりますし。結局自分の決めた価値基準の中で、飛ばすべきかどうか無意識に決めている時点で、ガチ映画をスキップしてみる人と本質的に差は無いのかもしれません。

にしむらもとい
エンディングをスキップすることに対する罪悪感は、僕もずっと持っていましたが、いまでは、ほぼなくなりました。これは映像作品そのものの定義が変わってきていることのフィードバックを受けているのだと思いますが、ここまで視聴スタイルに変化が生まれた現状において、はたして作品の「価値」に視聴方法がどこまで口を挟めるのか、なかなか難しいところですね。「とりあえず見る」ことと「価値まで理解しようとする」ことの間には大きな亀裂があり、自分なりの評価基準で作品の価値を判断するレベルでの視聴というのは、もはや「当たり前」ではないのかもしれません。どこからが「映像作品」かは、それも考えて欲しい問題ですが、少なくともYouTube発信の動画群は全て映像作品ではないと思います。中身の質に踏み込むまでもなく、YouTubeというプラットフォームで発信されている時点で無条件に映像作品足り得ないと思います。いまは、映像作品を飛ばすかどうかという論点なので、映像作品ではない僕の動画もガンガン飛ばしてください笑

Hiroto
あと、「人との関係性のために、作品を見ざるを得ないんだ!!!」と主張する同年代と会ったことがありません、、。
友達が多いわけでもないですし、周りの環境も偏ってるので、たまたまと言われればそうなのでしょうが、本当に「作品見てないとハブられる」のが"若者"の間で常態化してるのかは大いに疑問です。

にしむらもとい
これについては、さすがにちょっと表現に誇張があるように僕も思います笑 まあ、関係性のための「せざるを得ない」を声高に主張するとむしろ関係性に悪影響を及ぼすので、そう思っていたとしても、そもそも本人も主張はしないとは思います。ただ、たくさんネタを仕入れておいた方が関係性維持に役立つという意識は持っている人の方が多いとは思います。そして、それを少し拡大解釈すれば、こうした結論にはなり得る気もします。「ネタを仕入れるために見る」というのは、「見ざるを得ない」とほぼ同値かと思います。

Yujin Yonehara
僕はアニメだと特にOP、EDは一回見れば2話からは飛ばすのですが、飛ばさずに見る方はその部分まで作品の本編として観賞しているということですか?
テーマ曲は、作品の世界観を作曲家のフィルターを通して伝えるものであるとすれば、そのフィルターはあまり通さずに作品を観たい派です。
もちろん「なんかええ曲やん」だったらしっかり聴きます。

にしむらもとい
テーマ曲を本編から切り離したいというのは、なかなか面白い、独特な主張かなと感じますが、どうなんでしょうか。僕はアニメのOPやEDは普通に飛ばします。そもそもアニメのOPやEDはテレビで放映される(強制的に流れる)ことを前提に作られているものだと思います。だから飛ばせる環境で視聴するなら何度も観るのはかったるくなって飛ばして当然な気はします。もっと言うと、ネット配信オリジナル作品なんかは正直、OPもEDも不要とすら思います。単なるテレビ時代の名残りにしか感じません。配信プラットフォーム自体が率先してスキップさせてますからね笑 ビジネスとしてテーマソングを設定することは重要だと思いますが、ネット配信だけで視聴を完結させてしまうと、下手をするとテーマソングを一回も聴かないまま視聴を終えることもあります。あまり突っ込むと、そもそもテーマソングって何やねんという話に脱線しそうなので、ここらへんで。
バックれ
自分は飛ばさない派ですが、確かに飛ばしても(なくても)いいとは思います。ただ、なんでしょう、子供の頃の金曜夜の「ドラえもん」の時放映されてたマックとか天神のCMみたいな存在と言いますか…今思うとああいうCM含めての金曜夜7時から8時じゃありませんでした??自分にとってのO P、EDは天神みたいな存在なんですOPだからできたことなんです。
そういう意味で、OP EDを作品の一部と捉えてます。
ドラえもん見てなかったらすいません
Yujin Yonehara
それこそ「ご覧のスポンサー」はテレビで放映して視聴者の目に強制的に入れるものですよね。それは本編ではないにせよ、ノスタルジーのようなものを感じます。サザエさんの「この番組は、東芝と…」は割と好きです。日曜の夕方に、祖父母の家で見ながら食べたカレーを思い出します
ドラえもんは単行本派でした。
バックれ
確かにノスタルジーですね…。OPEDに拘ってしまうワイは既に時代から取り残されている老害になっていた…?
サザエさんの例えは秀逸で泣きました。カレーも泣きました。
ワイも単行本派です。好きな話はしずちゃんがのび太のこと好きになる家に入れられてその家のライトがお尻みたいな形だねって二人で話す回(ヤバい目)

ていりふびに
Hirotoさんも話題に挙げていますが、僕もyoutube等で動画を見る際にはスキップを多用しています。失礼かもしれませんが、youtubeでの大半の動画を「映像作品」だとは自分は思っていないようです。自分の中で「映像作品」の明確な定義があるわけではありませんがアンケートを答える際には無意識に「映像作品」から「youtubeの動画」を外していました。ただ、自分が高校生でyoutubeを見始めた時は動画をスキップせず、「映像作品」のように感じていた気がします。この10年間でyoutubeの動画が変わったのか、それとも自分が変わったのか....

にしむらもとい
YouTubeの動画を映像作品と思わないという感覚は、真っ当なものだと思います。自分で提供した数少ない動画も含めて、僕も同じ感覚です。ふびにさんがYouTubeを見始めの若い頃は動画をスキップしていなかったというのは面白いですね。慣れによる情報読み取り(予測)速度の向上がスキップしたい気持ちを生んだ(退屈さが増した)のかなとは想像されます。ただ、YouTubeが広告媒体として明確に地位を確立した(広告がたくさん挿入されるようになった)ことで動画時間が長くなった(密度が薄まった)ことも影響していると思います。昔は編集で全てを切り詰めて凝縮して短時間動画化するのが主流でしたが、いまはわりとダラダラした感じまで含めて長く楽しむ動画が多いので。

にしむらもとい
昨日のアンケートについてですが、「映像作品」の定義とそれを「観る(鑑賞する)」とはどういうことかの定義がかっちりしないと答えにくい問題ですね。数学やってる方はやっぱりそういう定義の線引きをちょっと気にしておられるのは興味深いです笑 そもそもの今挙げたような言葉の定義についても少し考えてみてもらえたらと思います。僕は、明らかに定義は変わりつつあると思います。ちなみに、僕は作品次第ではガンガン早送りで観ます。既に映像作品はそういうモノになってしまっていると感じているからです。かつてシコシコとミニシアターに出かけてクソ長いエンドクレジットを全部観ながら「一人で」余韻に浸っていたような感覚は、僕はもう持っていません。

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四日目

にしむらもとい
四日目となります。よろしくお願いします。本日もアンケートを置いておきますので、アンケートをきっかけに何か思うところがあればご意見いただければ幸いです。

アンケート#06
作品内で「すべてをセリフで説明する」ことは悪いことか?
とても悪い    2
@yuuma, @にしむらもとい
多少悪い    9
@蜆一朗, @バックれ, @マッキー, @イヤープラグさざなみ, @シト, @ていりふびに, @コバ, @光, @せきと
悪いことではない    9
@さかぼう ver.狂蝉, @Yujin Yonehara, @Hiroto, @Shun, @いいだ, @西住, @Takuma Kogawa, @ほうむたろう, @野澤

Created by @にしむらもとい with /poll

にしむらもとい
本日のアンケートはこの一つだけです。よろしくどーぞ。

マッキー
これはセリフに限らず、表現すべてに関する情報の密度について言える話かと思います。あえて情報を減らして観客に考えさせる”引き算の演出”と豊富な情報密度で観客を圧倒する”足し算の演出”そのどちらも有効な手法だと思います。その作品のテーマや出演者の質、シナリオ構成、監督の強みにベストマッチな手法であれば、どちらの演出でも傑作は生まれるはずです。
ただ、Jホラーにおいては、最近のものは「説明のし過ぎ」であり、それは「多少悪い」ものと感じます。ホラーで場の構造を説明し過ぎちゃうと冷めちゃうんですよね。
『シライサン』というホラー映画(去年公開)があるのですが、呪われた人はシライサンを見つめ続けないと寄ってきて殺されちゃうんです。怖いのに見ないといけないというパターン自体は斬新でよかったのですが、『話を聞くと呪われる』『シライサンは見つめ続ける限り寄ってこない』と重要な攻略ポイントが序盤から丁寧に言葉で明かされちゃうので緊迫度が一気に下がっちゃいました。他にも「それ言わずに匂わせとく程度でいいのに」がたくさんあり、結果、僕の中では凡作の一つに収まってしまった映画です。

にしむらもとい
足し算、引き算で演出を考えたときに、どちらでも傑作を生み出し得るというのは、確かにそうかもしれません。演出としては。ただ、作品内に「説明」を置くというのは、足し算どころか、「演出」の域を超えていると僕は感じます。わかりやすさのために乱暴に定義すると、「演出」というのは「感じてもらうため」のものであり、「説明」は「知ってもらうため」のものかと思います。「作品」とは、誰かに何かを感じて欲しいという作者の願望で作られたもののはずです。それを考えれば、「説明」は本来、作品内には混入し得ないことは誰にでも理解してもらえるとは思うんですけどね。「誰にでも」の「誰」が誰を指すのかが、ソーシャルメディアによって大きく変わってしまいました。
ホラー映画視点で考えると確かにわかりやすいですね。お化け屋敷をガイドさんに引率されながらツアーで回って怖いか、というようなことでしょうか笑 全部説明してホラーが成立するのかは興味深くはありますが。

Hiroto
映像作品にとどまらない話で言うと、最近の「ONEPIECE(漫画)」のセリフや書き込みが多すぎる、というのはよく言われますね。
「セリフが多くて読みにくい」「読むのに時間がかかる」というような、サラッと読みたい派からの批判が散見されます。
サラッとコンテンツを消費したい派の主張が、
・映像作品→ボーッとでもスキップでも倍速でもついていけるように「セリフを多く」
・コミック作品→ボーッと流し読みできるように「セリフを少なく」
というように、字面だけ見ると正反対のように見えるのが面白いです。
なぜ正反対なのかと考えてみると、単純に「視覚と聴覚」の問題なんですかね。
「聴覚・時間」的メディアの映像作品
↑↓
「視覚・空間」的メディアの漫画作品
と比較してみると、考えさせられるものがありそうな気がします。あまりまとまった考えではないですが、投下しておきます。

にしむらもとい
漫画と映像作品の消化に文字情報が及ぼす影響というのは面白い視点だと思います。僕もよく考えます。もう一つ、文字情報オンリーの「本」を比較対象に入れてみます。本は読まないけど漫画は読む勢が多いという文脈を考えた時、その理由は何故か。本来、絵は絵で膨大な情報量を持っています。テキストデータと画像データを比較すればそれはあまりに明らかです。なのに、文字より圧倒的情報量が大きい絵の方が処理しやすく感じる。文字というのは抽象化された記号ですから、そこから実感を再構成するのに、脳の機能としてはかなり能動的な動きが必要なので、訓練していないとしんどい。そして、その訓練はほとんどの人が避けたまま生きています。絵は見たままを解釈せず受け入れることはそれほど難しいことではありません。それはたぶん脳の機能としてシンプルなステップだからでしょう。あくまで難しいのは「解釈」です。漫画と本という文脈から考えた場合は、漫画に文字情報を増やしすぎると、読みたい速度に対する能動的動作の比率が高くなりすぎて読み手がしんどいのだと思います。そしてそれは映像作品でも基本的には同じことだとは思います。ただ、漫画を読む時間的感覚と映像作品を観る時間的感覚を完全に横並びにしようとすると(そんな視点を持つのはどうかと思いますが)、これまでの映像作品は明らかに感覚に寄っていて、言語的情報が薄い。だから漫画と同程度までには言語情報を増やした方が良い(わかりやすい)という感じになっているのかなと思います。もちろん、これも増やし過ぎれば逆効果で、視聴者が処理できる閾値内で最適化する必要があるのでしょう。そして、視聴者側の能動作業を減らすため極力具体的な(解釈を必要としない)言葉が選ばれているとも思います。「テレビのバラエティ番組のテロップと同じ感覚」と記事にも書かれていた気がしますが、そう思います。長くなるのでいったんここら辺で切りますね笑 

にしむらもとい
町山さんがTwitchのウォッチパーティーで『2001年宇宙の旅』を視聴解説してたのでちょっと見てきました。ひたすら付帯するメタ情報の解説をしてました。言ってみれば、今してる議論も、究極は「最初からこういう解説まで込みで作品作ったらわかりやすくて良いんじゃね」ってことよね。もしかしたら、冗談じゃなくそのうち解説付きエディションみたいなのを初見から見るのが当たり前になるのかもしれないと思います。

バックれ
全部はまだ追えてないので尚早ではありますが、今日感じたことを書かせていただきます。
今日、ある女に4ヶ月ぶりに連絡をしてみたのですが、“暇な時だけ連絡してくんな“、”ほんとに狙ってるならこまめに連絡しろ“、”暇じゃないからもう連絡してくんな“とDTなら過呼吸を起こしかねない反応を取られました。しかししつこく食い下がっているうちにあることに気づいたんです、「こいつ言葉の上では嫌がってるけど律儀に毎回返してくるし、君可愛いね系の言葉には何にも拒否反応してこないやんけ!」と。
今日、ある女に4ヶ月ぶりに連絡をしてみたのですが、大きなことを学べました。
言葉だけで判断してはならない。行間、雰囲気、実際の行動、本音と建前を大学入試に挑むときのような心持ちで頭を働かせることで読み取れることもある。 そして女はめんどくさいとともに大変可愛い生き物である。
行間や映像演出のように、気づかないと読み取れない表現は単純に「気づく」ことができるとセリフのそれよりも嬉しく楽しくなるものです。(ペロペロ

にしむらもとい
表現に「気づく」というのは、かなり強烈な体験だと思います。「ある女」をどうすれば落とせるのかの説明書が手に入って説明書通りの行動で「ある女」が落とせたとしてそこで手に入る喜びというのは、試行錯誤の末の気づきで落とせた時の喜びとは大きく違うはずですが、結果落ちれば何でも良いという視点からは同じになってしまいますね。むしろ面倒臭いから説明書をさっさとよこせと思ってしまうかもしれません。個人的には、僕は他人を落とすよりは自分が落ちることの方に喜びを感じます。(ペロペロ

ほうむたろう
説明セリフが多くなることについて
言わなくてもわかるでしょと言ってくれなければわからないのせめぎ合いなのだと思います。個人的な趣味は言わずとも語られる表現形式で、受け手が勝手にいろいろ妄想する余地を残してくれているものです。
粋とかイナセとかわびさびとか奥ゆかしさとか、日本文化が大切にしてきた何かをどこかで刷り込まれていて、それに共感するところが大きいのかもしれません。
映像作品ではないですが、漫画で音楽をテーマにしたものの中でもBLUE GIANT石塚 真一が好きです。セリフが全くない1話をところどころにぶち込んでくるあたり、ワンピースのそれとは対極に位置している形式をとっています。
漫画を読んでいて音が聞こえてくるような錯覚をするときがあります。
アンケート#01について
素養次第で変わるし、素養を身に着けるも付けないも自由にしておいてほしいと私は思います。
あまり考えが纏まっていないので何とも言えないところですが、表現物を作る側も、受け取る側もSNSに接続されているが故クソコメクソリプの嵐に身を焼かれる可能性が顕在化しているなかでの振る舞いに試行錯誤している段階なのだろうと思います。
私にとっては極まりの悪い方向にそれぞれが過剰適応しているように感じます。

にしむらもとい
「言わなくてもわかるでしょ」は、もう通用しなくなるんでしょうね。せめぎ合いではなく、言ってくれなければわからない世界。ある意味、世代がデジタルに囲まれてデジタルネイティブになればなるほど、実際の感覚もデジタル最適化されAI的になっているような気もします。明確なdiscriptionのないものはerrorになってしまう。もちろん、その中心にあるのはソーシャルメディアですね。そんな中で、音楽をテーマにしたセリフのない漫画というのがどの程度理解されるんでしょうね。解説(discription)付きなら受け入れられはすると思いますが。
ほうむたろう
せめぎ合いと書いたのは、そうであってほしい願望が現れたのだと思いました。多分私は「言わなくてもわかるでしょ」派として老害ポジションなのだとも思います。
全てを記述する方向に傾くには、ベースの言語がより洗練される必要がありそうな気がします。「緻密な言語」を操る層と、絵文字やスタンプなどの非言語でのコミュニケーションをする層と乖離が進むのでしょうか。
映像作品がビジュアル・オーディオ情報+言語による説明(記述)となってきていることを見るにつけ情報空間に対する構え、態度の変容が起こっているのだと気づかされました。
蛇足的感想
この場(スラック内)のやり取りが記述された言語のみであるから、これがベースになりがちですが、ある意味この空間は異常ですね

にしむらもとい
昨日のアンケートについて。
結局、いま僕があらゆる作品をある程度早送りで観るかどうかを検討するようになったのは、こういう「全部言っちゃってる」元も子もない作品群が増えてきたからです。そういう作品群が存在する以上、それらは早送り対応で「消化」されることが初めから前提として作られているので、そうせざるを得ません。良い悪いというのは、個人的な「願望」の話で、僕はそういう方向にはあまり行って欲しくなかったという気持ちは強くありますので、回答としては、「とても悪い」を選択しました。でも、それをどうにかしてストップして「本来の映像作品の在り方を取り戻そう」などとは思いません。基本的にこういう変化はテクノロジーと紐付いて起きていることなので、止めようがないというか止まるはずありません。全部を言語化しないことでの「表現」というのは、今後、広く受け入れられる「作品」の成立条件からは除外されていくのかなと思います。良い悪いという聞き方が良くなかったかもしれませんが、それは寂しいことではありますよね。

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五日目

にしむらもとい
五日目となります。よろしくお願いします。本日もアンケートを置いておきますので、アンケートをきっかけに何か思うところがあれば意見いただければ幸いです。

アンケート#07
「オタク」であることはカッコイイ要素になり得るか?
なり得る    11
@いんげん侍, @Hiroto, @Takuma Kogawa, @マッキー, @蜆一朗, @Shun, @バックれ, @光, @せきと, @ていりふびに, @にしむらもとい
なり得ない    3
@ほうむたろう, @野澤, @コバ

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にしむらもとい
本日もアンケートはこの一つだけです。自分にとって「オタク」って何だろうからカッコイイって何だろうまで自由に考えてみてもらえると嬉しいです。

マッキー
箸休め程度に読んでいただければ。何も論理的ではなく、オタクキャラ且つモテている友人2人を思い出して書いてみました笑
※異性に対してだけでなくあくまで”人気者”という意味で
A君
気質的には明るく、要領よく最短距離で「スペック的なオタク」属性を身に着けた人
頭の回転が速く、好奇心も旺盛で知識欲も旺盛、世の中で流行っているものに対してのアンテナが高く、これと決めたら最短距離で時間投下して”オタク”化する。HUBでマイナーなサッカーチームについてマニアックに語り、『キモい!』と引かせることで敢えて、女の子に印象を残す。
B君
気質的には内向的で、あまり人前に出たがらない。漫画愛が凄まじく、好きな漫画は頭の中で映像化しながら読むので1冊2時間かけることもあるらしい。女性にはモテないが基本的に優しいので、男女問わず人望がある。決して押し付けはしないが、同じ趣味の友人には情報提供を惜しまない。3~4人の友人の輪の中で強いリスペクトを得ている。
私の中では両極端な二人なのですが、周囲からは二人とも”オタクキャラ”で通っています。”オタク”ってなんなんでしょうね。気質的なオタクとスペック的なオタクが分離独立して存在可能な社会になったことがオタク像の範囲を広げている気がします。
記事の中で出てきた若者像はA君に近いのかなという気がします。

にしむらもとい
記事で扱われていたオタクはソーシャルなつながりという文脈からでしたんで、A君寄りですね。他人とつながるチケットとしてオタクを利用する。本人にどの程度意識があるかはわかりませんが、A君はオタク化することに明確な「下心」があるように見えます(あくまでコメントからの印象だけの話です)。他の要素と組み合わせて見せることに初めから意識が及んでいるように思います。B君はそういう文脈から少し外れた、クラシックなオタクとでも言えば良いんでしょうか。他人とつながる目的が先に立ってはいないと言いますか。スペックとして切り取ればどちらもオタクですが、オタクをスペックとして見た場合は、他要素との組み合わせで他にももっと多様なオタク像は形成される気がします。

バックれ
初日の記事は、倍速で見ることを許容しなさすぎかなと思いました。究極的には鑑賞者は刺激を求めて作品に触れるものであって、何を「目的」に作品に触れるのかを作品作成者が決めることはナンセンスであります。鑑賞者が目的とする刺激には作成者の意図を感じ取ることである人もいるでしょうし、コスパの良い摂取が目的の人もいるでしょう。動機にまで作成者が踏み込むのは不可能です。倍速映像の中でコスパを求めている若者を感化できれば多少は記事の筆者が望む方向にいくかもしれませんが。

にしむらもとい
倍速で見ることを想定していない時代に作られた作品を倍速で見ることは、まあ普通に考えたら許容し難いとは思います。フレンチのコース料理をマナー無視して「好きに食えば良いじゃん」と言ってめちゃくちゃな食べ方をすることは、基本的には許容できないと思います。そう、クラシックなフレンチのシェフならね。でも、いまは「場」そのものが変わってきてますんで、一概にマナー無視を非難するのもナンセンスですね。たとえば、ホームパーティーに呼ばれて食事するのにあまりにマナーマナー言われたら僕もキレます笑 一応倍速視聴を許容できない側からの意見を想定してみました。でも、全てにおける「自由」を完全に許容してしまうと、フレンチのコース料理を食べるという感覚は、おそらく失われてしまいます。まあ失われても良いのかもしれませんが。

バックれ
そもそもみなさんやこの記事の筆者は「倍速で見ることの何を問題にしているのか」をぜひお聞かせ頂けたらと思います。
若い人の風潮として「倍速で見る」ことが主流であるのは記事の執筆者の考えの通り、もはや文化・社会・テクノロジー・時代の流れなのでしょう。僕もそう思います。ですから作品の形として倍速になっても大丈夫なような作りに変化していくのはしょうがない。お金儲けのために作品作る部分もありますから。と同時に作成者がうんうん頭を働かせて表現した作品を楽しむことを楽しむ自由、その作品の供給があることが大事です。問題はそういった作品がてんで売れなくなること、これはつまり「そういった作品を作成する体制が維持できなくなること」であり、はたまた売れなければ作品作成ができないシステムに、つまりポピュリズムに問題があります。ポピュリズムを排する社会システムを作るべきだとかまでは拡張しませんが、作品・表現においてポピュリズムが優先されるべきではない、この範囲で今回はライン引きしときます。映画とか番組は口うるさいスポンサーとかの関係があるから、そういうところでのYOUTUBEだったりインターネットだったりの「個人の時代」的なことを思ってましたが、スケールの壮大な作品とかはまだ難しいか…。
まぁ大事なのは「個人個人が何を感じたか」でありそれ以上でもそれ以下でもないです。っていうのがワインの意見。倍速とか何を視聴目的にするかとかはその人の自由。その分深みのある作品を楽しむのも自由。ちなワイはAVを飛ばさずにみたことはない。(断言) 

Takuma Kogawa
個人的には倍速視聴そのものというより周辺に問題があるように思います。
・作品の内容よりも時代に合った適切な構成であることが評価(商業的に成功することなど)される
・「人気のあるものに触れる」ことが優先され、自分の審美眼、選球眼が養われない(これは映像作品に限らないかも)
・製作者が、SNSのコメントを世論だと過大評価してそれに合わせてしまう
ビジュアルノベル業界はブランドごとにシナリオ重視、萌え重視、エロ重視などが棲み分けされていますが、反対に映像作品が特定の構成に収束していく(多様性が失われる)のではないかと危惧しています。いざとなれば同人プラットフォームに行けば自由な製作は可能ですが。
不満に思った点をSNSで製作者に雑に発信できてしまうこと、倍速で観ないといけないほど供給過多な映像業界などの環境も倍速視聴を生んだ要因かもしれません。
バックれ
ご意見ありがとうございます!!!
僕は作品を作ることの目的として「お金を稼ぐこと」と「自己表現」に分けられると思っています。自己表現は自らを表すだけではなく、何か作品の中で伝えたいテーマを伝えること、まぁその欲求自体「自己」から発すると思うので自己表現としているわけですが…。
ともかくその二つに大別できる以上“作品の内容よりも時代に合った適切な構成であることが評価(商業的に成功することなど)される“ことは「お金を稼ぐ」という目的に沿っているものであり、その流れは倍速視聴が問題になる以前にも存在するものと考えます。確かにお金を稼ぐために作品を作るということ自体は芸術鑑賞の観点から見れば良くないですよね。
また、takumaさんは「自分の審美眼、選球眼が養われない」ことを問題にしてらっしゃるんですね。その視点が自分には抜け落ちていたので面白く感じました。改めてお聞きしたいのですが“自分の審美眼、選球眼が養われない“ことの何が問題となるのでしょうか。審美眼・選球眼がなくとも、その作品を楽しめればなんら問題はなく、作品が楽しめなくて更なる良い作品に出会いたいと思うからこそ審美眼が磨かれていくと思ってしまいます…。
“製作者が、SNSのコメントを世論だと過大評価してそれに合わせてしまう“ことも「お金を稼ぐこと」が絡んでいる問題ですよね…。
ヴィジュアルノベル業界は住み分けがなされているのですね!それがまだ大衆用に作られていない前時代的な「オタク」コンテンツだからという理由なら悲しいですが、なにか脱ポピュリズムへのヒントが隠されていそうで興味深いですね!!
Takuma Kogawa
コメントありがとうございます。
メジャーな映像作品は演者、演出家、監督など多くの人がかかわるため、お金を稼ぐこと(稼げるような作品を作ること)は重要ですね。私は映像作品と個人でもできる芸術(絵画、陶芸など)を区別せずにコメントしておりましたが、映像作品に携わる人が自己表現を軽視しているとは思っておりません。念のため。
映像作品の議論から少し離れてしまいますが、審美眼や選球眼が養われないことは、自己を確立できないことにつながってしまうことを危惧しています。最初から選球眼があるわけではないため、ドラえもんや特撮ものなどいろいろなものに触れる期間は必要と思います。そこから自分は何が好きなのかを明確にすることは、どんな場面でも重要と考えています。例えば異性とお付き合いしたいとして、文字通り「誰でもいい」と考える人はおそらく少数派で、「こういう人がいいな」というイメージはぼんやりとであれ持っているのではないでしょうか。恋愛の側面での選球眼を例示しましたが、映像作品に対する選球眼がパートナー選びにまで影響すると主張しているのではありません。周囲についていくために映像作品に触れることそのものは問題ないですし、楽しめればOKというのもその通りなのですが、自分がそのように自我のないお金儲けのエサになるのが気持ち悪いという感覚があります。私個人としては今から多くのものをつまみ食いするほど人生は長くないと感じているため、自分の選球眼でいいもの、好きなものに触れて、そこにきちんとお金や時間を使っていきたいと思っています。このコミュニティに入ったのもそのような考えが根底にあります。
VNは海外進出も背景にありますが最初から全年齢のもの、R18を全年齢に移植したものなども多く大衆化を進めようとしているともいえます(R18ゲームプレイヤーの高齢化が進んでいるという話を聞いたことがあります)。一方でブランドや代表の方針が気に食わないならお断りという炎上前提の姿勢を表明しているところもありますので、古典的オタクと現代オタクがうまく共存できればいいなと思います。
にしむらもとい
面白い議論をされていますね。
倍速視聴が登場した背景はただ一点だと思います。
経済成長を持続させること。
正直、ここまで作品群を大量生産されても、その全てを「かつて」のように楽しむことなどできるはずありません。つまり、生産(≠製作)している側は初めから「楽しませる気がない」のだと思います。とにかく「量を消費させる」という経済的観点が全ての根源にあると思います。かつては、一つ一つの作品をヒットさせることで「量」を稼ごうとしていたはずなので、製作者の「作家性」はまだ息をしていたように思います。しかし、段々それでは経済成長として足りなくなり、テクノロジーを利用して、作品の「規模」より作品「数」でトータル量を稼ぐ方向に流れ始めたのだと思います。そして、そういう前提で作られた作品は、そういう視聴方法で十分なのだとも思います。問題は、それをネイティブに育つ世代は、クラシックな作品との向き合い方を明確に見失うということかと思います。これは、僕はノスタルジーとしてとても悲しくは感じますが、でも、止めるのは無理だと思います。せめて、作品の視聴を「自分の意志」で行なって欲しいとは思いますが、それすら、もはや余計なお節介なのかもしれません。
ちなみに、ビジュアルノベルというジャンルについては、全く知識がありません。すいません。 

ほうむたろう
部分関数「オタク」として宇宙・世界を入力するとどんな言葉、イメージが出力されるのでしょうか。そのなかにまだカッコイイは無いような気がしています。
仮にオタクとカッコイイが同系統の属性となったならば、個人的にはそれを「オタク」とは言わずにほかのワードで表したいところです。その限りにおいて「オタク」はカッコイイの要素になりえないと思います。

にしむらもとい
僕も「オタク」そのものをカッコイイとは感じませんが、実際のところ、複合的な演出要素としてはカッコイイ成分を既に社会から背負わされている気はします。ただ、「オタク」とは何かを考えた時に、そこに言葉のズレも感じます。本来オタクとは、限定的なジャンルの趣味に非常識なほど傾倒しているという進行形の「運動」のことを指していたはずですが、いつの間にか知識が豊富というただの「状態」を指すようになった気がします。それがここでスペックとしての「オタク」と言われているものですね。「オタク」は単なる成分に成り果て運動性を失っていますので、その意味ではその人固有の「関数」として入出力を担うような機能も失っている気もします。

バックれ
オタクがかっこいい要素になるか否か、さらにはキモいかキモくないかの数直線上で語られることには、前時代的な「オタク」が著しい対人コミュニケーション不足に陥っていたからかと思われます。その意味では拡張された「現代のオタク」では様々な人が包括的に含まれるため、かっこいいか否かの数直線だけで判断するには次元が足りない気がします。
ただ、何事かに打ち込んでいたりする人はかっこいい、これだけはいえますぜ。 

にしむらもとい
おっしゃる通り、拡張された「現代のオタク」というのがどういうものなのかきちんと整理しないと、カッコイイとの関連は判断できないですね。一万字レポートの提出をお願いします。ただ、もうオタクという言葉に限らず、ありとあらゆる言葉が、ソーシャルメディアで分断されたいくつもの小宇宙で個別の定義を持ち始めていますので、言葉の定義の定義すら変わってきているみたいな状況なので、非常に面倒臭いですね。ただ、いまの文脈からすると、たぶん「現代のオタク」という言葉自体が既に「オタク+○○」という複合なんじゃないかと思います。
何事かに打ち込んでいたりする人はかっこいい。全くもって、そう思います。問題は、「現代のオタク」が何事かに打ち込むという「運動性」を本当に持っているのか。ただオタクであるという「状態」を身にまとっているだけではないのか。一万字レポートをお願いします笑 

にしむらもとい
昨日のアンケートについてですが、僕は一応「なり得る」を選択しました。ただこれも多少補足が必要かと思います。
僕は「オタク=カッコイイ」とは考えていません。その辺を考慮して聞き方を「要素足り得るか」というようにしました。元々「オタク」という概念が登場した時代には「オタク=キモい」であり、それは決してカッコイイの要素にはなり得ないものでした。「オタク」であることがリアルな対人コミュニケーションと明確に相反していました。それが、いまはカッコイイの要素の一つには認識されるようにはなったと思います。カッコイイの感覚も変わったと思います。いまとなっては、自分を見せるソーシャルなチャンネルが増えすぎて、「その人」を生身で(整合された一体のものとして)とらえるということをどの程度の人がやっているのか、わりと疑問に感じます。僕も含めてほとんどの人が他人を「部分」でしか見ていない(正確にはそういう側面が浮き彫りになった)と思います。実際に会っている間も、常に背景にソーシャルメディア空間が意識されている気がします。そういう意味で、「その人」というのは属性に切り刻まれて、その属性の組み合わせ(の見方、見せ方)がその人の(再構成されたバーチャルな)魅力になっていると思います。いま「オタク」をカッコイイと感じる人も、まず間違いなく、「オタク」であることそのものを純粋に評価はしていないと思います。見た目がおしゃれ、話が面白いなど他の要素と複合的に魅力を形成できなければ、「オタク」要素は活きない。ただ、かつてと比べて「コミュニケーション」の質が変わりましたんで、かつてならキモオタと断じられて終わっていた人もソーシャルメディア空間ならキモくないコミュニケーションがしやすくなったというのはあると思います。
というわけで、「オタク」はそれ自体で完結してカッコイイにはなりませんが、あくまでカッコイイの演出要素の一つとして認識されているというのが現状かと、僕は考えております。ちなみに、僕の個人的な感覚としては、「オタク」はそれほどカッコイイとは思いません。「オタク」は深い抽象思考の産物ではなく具体的知識の羅列の産物だからです。僕は知識の羅列にはあまり魅力を感じません。

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六日目

にしむらもとい
六日目となります。よろしくお願いします。週末(まあ連休でしたが)は、選択回答ではなく、もう少しオープンな質問をしてみたいと思います。土日分としてクエスチョンをまとめて投下しておきますので、何か思うところがあればご意見いただければ幸いです。ちょっとひとことだけのコメントでも大丈夫です。
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各クエスチョンにスレッド返信する形で回答いただけると見やすいかもしれません。
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にしむらもとい
クエスチョン#01
「作品の批評が読まれない時代」と記事では取り上げられていました。皆さんは作品の「批評」を読んだり場合によっては書いたりしますか? また時代に受け入れられなくなった「批評」の価値についてどう思いますか? 
マッキー
映画批評を読むのは割と好きです。前田有一の超映画批評とか、町山智浩の映画塾とか。今やネットで付帯情報なんていくらでも調べられるので、批評の持つ”付帯情報の提供機能”はほぼ価値を失ったと思います。付帯情報や映画の内容に関する情報の組み合わせ方そのものが批評の創造性であり、価値なんだと思います。
それは、単なる情報のキュレーションを超えるものであるとは思うんですが・・・なんなんでしょうね。
さかぼう ver.狂蝉
クエスチョン#1に関して批評とはなにかざっくり整理してみました。
一般に批評とは↓のツリーの中の言葉で, (潜在的な)受け手に作品の系譜学を基礎にした論理的理解を, 作者に対し意図の分析をもとにメッセージの伝達技法を提供するものと理解されていると思います。
僕個人は, 批評を読んで表現物をみるかどうかの判断材料にするということはありません。 批評家的なスタンスが嫌いで読みたくないのではなく, ノンフィクションのコンテンツ自体をあまり見ていないです。 今回のワークショップで消費形態が議題になっている最近のアニメ・漫画はほとんど見ていません。
批評家としての活動がある作家でまともに読んだことがあるのは蓮實重彦と東浩紀ぐらいですが, 個別の映画や漫画・アニメの分析というより, 批評文学や社会評論として読んでいました。
(追記) 小飼弾と山形浩生の書評ブログはあらかた全部読んでいました。 これらは大喜利書評と罵倒書評というべき文体で, ある意味批評文学的かもしれません。
論理的理解
作品内世界解釈
整合性=ホラ話としてよくできているかどうか
世界:作品世界においてある設定・仮定が導入されて以降の世界(観)に説得力があるか
人物:人物の行動に説得力があるか
作品文脈解釈
作者のメッセージ
作者のメッセージはなにか
何が言いたくて作品を作ったのか、書いたのか
メッセージの伝達率
作品を「正しく」解釈すると何が引き出せるか?
もっと良い表現があったのではないか
作品の系譜学
どのような作品に影響を受けてできているか
どのような作品に影響を与えたか
事後的な評価
作成技法
刺激的理解(非意味)
にしむらもとい
僕は、批評に関しては、「あれば読む」という感じでしょうか。一応参考にはします。無視はしません。文学かぶれしてた頃は片っ端から文芸雑誌を購読して批評を読みまくってましたが、いまから思い返すにそれがどれほど自分の血肉となったかは、疑わしい部分があります笑
体系的に「批評」について批評するスペースはいまはありませんのでそこまではしませんが、一切の批評を無視するのではなく、少なくとも他人がどう感じるのかを知るという程度のカジュアルさでは、大衆も批評には触れても良いのかなと思います。
もっとも、批評というのはオリジナルの作品とは異なる地平に足場を置いているので、直接作品を愛でることとは関連は薄い体験になるのは事実と思います。
にしむらもとい
クエスチョン#02
ソーシャルメディアの特性により「幼稚化した視聴者」という問題が記事では取り上げられていました。皆さんは一般的な視聴者は「幼稚化」したと思いますか?
さかぼう ver.狂蝉
視聴者が幼稚化したのではなく幼稚な楽しみ方しかしない人も視聴するぐらいオタクコンテンツが普及したのだと思います。
もっとも、ハイカルチャーの人間からすると、子供向け作品を大人になってもあーだこーだ言っていた古代のオタクの時点から、アニメ・漫画のオタクコンテンツの消費・鑑賞者は幼稚だと思われている気がします。
さかぼう ver.狂蝉
理論的背景のもとに作品を小難しく解釈して頭の体操をしたりそれを社会評論に接続する営為の対象は、オタクコンテンツではないハイカルチャーのほうがアカデミックにその手立てが整備されており、「幼稚」ではないことをしたいならそっちを見ればいいじゃないという気になります。
ので、作品世界内での整合性をまともにとることができずに、イメージ的な刺激の総合へのぼんやりとした好悪をもとにのみ感情によるふんわりとした連帯を求めるポルノ的な視聴形態を「幼稚化」という言葉で批判する気持ちはわからなくもないですが、オタクコンテンツ以外も知的に楽しいコンテンツが山ほどある現状では、批評が存在しない業界を批評してみること自体が、「幼稚化」という言葉で批判されているような、現実世界のポジション取りためにフィクションの視聴を利用するふるまいになっていると思います。
視聴するものがすさまじすぎて言葉にできない、という鑑賞体験は、受け手に繰り返し見たいという気持ちがあるかかどうかで上記の「幼稚」な体験とは区別されると思います。 
にしむらもとい
アンケートの回答としては僕は「幼稚化した」を選びましたが、多少補足が要るかと思います。
ソーシャルメディアが行き渡って視聴者の捕捉率が高まった結果、「平均」としての視聴者層が幼稚化に寄ったのは間違いないと思います。ソーシャルメディアが視聴者を幼稚化したのではなく、単に幼稚な視聴者がより多く捕捉されるようになっただけという話ですが、平均値が下がっているのは疑いようないと思うんですが、どうでしょうか。
幼稚という言葉の定義も多少絡むでしょうか。オタクコンテンツではなくハイカルチャー(そんなものはもはや消えつつあると思いますが)を扱っている人が幼稚ではないかというと、それはそれで疑わしく思います。幼稚というのは、この文脈では、テキスト的な解釈がきちんとできるという「知性」よりは、どちらかというと対話において建設的な立場を保つという「感性」の意味合いの方が大きい気がします。アカデミックな人間であればその「感性」が担保されてるとは、とても感じられません笑
ちなみに、オタクコンテンツというのをハイカルチャーの下に置くというのも、先ほども触れかけましたが、割と時代的にはナンセンスになりつつある気はしてます。僕も、いまさら文芸批評に熱中することはもうないと思います。 
さかぼう ver.狂蝉
1.ハイカルチャーは消えつつあるか?
コンテンツが生産消される経済圏の大きさとしてはハイカルチャーにくらべサブカルチャーが大きそうなのはなんとなくそう感じます。 そして, デジタルデバイスが文化階層をまたいだ文化環境として普及しているため, かつてほど, ハイ-サブカルチャーの鑑賞が隔絶していないという点で, ハイカルチャーとサブカルチャーの区別があまり意味を持たないようになっているとも思います。 だからといって, ハイカルチャーが消えつつあるかと言えばそんなこともない気がします。 個別のコンテンツに対する評価ではなく, 文化自体を社会において位置づける言説を持っているかどうかという点で歴史を持つハイカルチャーのほうがまだまだ優位だと思います。
さかぼう ver.狂蝉
2.
オタクコンテンツの消費に付随する対話はテキスト的な解釈能力が基礎にあってのものだと思います。 テキスト的な解釈に頭を使いたくない消費者にコンテンツが最適化した結果として, 消費者の幼稚化&コンテンツの流動食化が進んでいるという分析は, そんな気がしないでもないですが, アニメ・漫画の古代時代から, 生産されるコンテンツのうちのまともなコンテンツがはっきりと減っているかどうかはわかりません。
オタクコンテンツとハイカルチャーの消費者の比較では, 具体的なキャラクターの造形に対する感覚的なフェティシズムが発生しうる以上, オタクコンテンツの方がフィクション内のキャラクターに自分を仮託したポルノ的な鑑賞が成立しやすい気がします。 個人的には理解できないのですが, 「推し」という言葉も関連している気がします。
ハイカルチャーの文化が対話に拒絶的な面があるのは, 個々のコンテンツに対する解釈が大きな背景知識を必要とした状態で煮詰まっているため, ぽっと出の解釈が成立しづらいからではないでしょうか。
コンテンツ批評に限らず, 自然言語による分析は 自分がすべて実感できないような概念を構成要素とした体系を受け入れるしかない面があると思います。 その意味で, 対話の感性が欠けているということは, どれほどの不確かさを受け入れてその上に言葉を重ねて理論体系を構築するかに対する許容量の違いだと思います。
ハイカルチャーはその定義上主なコンテンツ消費者は, 社交的知識としての教養を身に着けた階層であり, コンテンツ分析というコンテンツの生産者でありしばしばアカデミックにも籍をもつ職業批評家とは別なので, アカデミック化石のようになっている人に感性が欠けているからと言って, 消費者圏の対話に対する感性が低いわけでもないと思います。 強引な解釈が芸風になったり, 背景知識が欠けている読者を煙に巻くようなレトリックでも文体・文学的に面白かったりする場合があるような気もします。
にしむらもとい
ハイカルチャーが消えつつあるという表現は少し不正確でしたね。ハイカルチャーに割り当てられている系統の文化はもちろん構造的に残っていくと思います。ただ、政治的な機能としてのハイカルチャーの概念はまだまだ「優位」と言えども、確実に薄まってきていると思います。
僕はハイカルチャー(この言葉には実際かなり違和感があります)という表現も概念も全く好きではありませんが、今回のテーマ(メインカルチャー)とずれるのでこれくらいにしておきます。また機会があれば扱ってみたいと思います。
さかぼう ver.狂蝉
ハイカルチャー擁護論ぽくなってしまいましたが, ある種の偽史として飲み込むしかないものを教養と称して押し付ける態度は基本的には苦手です。 (「科学的に裏付けられた」知識の称揚と通じる気持ち悪さを感じます。)
以下, 「政治的な機能」 という言葉の意味を, 特定の文化がもつ社会階層を固定する力という意味ではなく, 文化に権威があるか = 文化の正当性を社会的に位置づける有効な言説があるか, という前提で書きます。
この意味で, メインカルチャーは, ハイカルチャーの言説が有効なことと矛盾せずに政治的な機能を持つことが可能だと思います。 しかし, 感覚的に消費できてしまうものが多いため, エログロやかわいい女の子がキャピキャピしていて面白いというのはたしかにそうなのですが, 上記の意味での政治的機能をもたせるには, 批評的言説によって表現の感覚性に隠れたコンテンツの普遍性を補強する必要があると思います。
にしむらもとい
クエスチョン#03
「作品」を鑑賞することと消費することの違いは何だと思いますか? あるいは自分は「作品」を鑑賞していると思いますか? それとも消費していると思いますか?
マッキー
利用を念頭に置いているか、作品との内的な向き合い方を前提に下記のように分けてみましたが、鑑賞した上で利用することもありますし、MECEではないですね。
消費・・・手段として行われる体験すべて
cf.見たというスタンプを押すため、知人との会話に活かすため、教養のある人間になるためetc
鑑賞・・・作品に自身の感情や感性を委ね、そこに生起される様々な感覚を楽しむこと、あるいはそこに生起される感覚を俯瞰的に眺め、その理由についてあれこれ考えること
消費も鑑賞には必要なプロセスだと思います。私がここで気になったのは”消費しながら鑑賞は可能か”という点です。(あくまでここでの定義を前提に)
俯瞰的に情報収集・整理を進めながら、同時に感覚器としての自分を作品に差し出す、という姿勢は可能なのかどうか。これは鑑賞に没入がどれだけ必要なのか?はたまた同意語として捉えるべきなのか、に関連してくるような気がします。
にしむらもとい
僕は一応作品には鑑賞するつもりで触れていますし、正確には鑑賞という行ないに意識を制限して(感性のチャンネルをただ漏れに全開放せず)触れている気がします。たぶん、「観て楽しむ」の意味合いが少しねじれています笑 アンケートで「鑑賞している」と答えた方がほぼいないという結果になったのは、おそらく言葉の定義に迷いがあったのだろうと思います。
鑑賞か消費かという聞き方が、良くありませんね。これは故意で意図がありました。マッキーさんがおっしゃる通り、MECEではないと思います。基本的に作品に触れる行ないは全て消費と言って差し支えないと思います。僕は鑑賞する気で観てはいますが、同時に消費でもあると感じています。だから、皆さんもアンケートに答えにくかったんではないでしょうか。この手のアンケートってMECEではないことが多く、印象の強さだけを頼りに表面的な気持ち悪い分類がなされていることが多いので、敢えてそういう聞き方をしてみました。
消費という言葉に広義、狭義の意味合いがあるということですね。要するに、大きな意味での消費行為の中に「鑑賞」という行為も含まれていて、鑑賞ではない残りの中に狭義の「消費」が見出されているんではないでしょうか。
じゃあ鑑賞の定義とは何かというとこれも辞書引っ張ってきて照らし合わせるところまでやるのかという話になり、それはやりません笑 シンプルにその作品を能動的な手法に基づいて「評価」することが鑑賞と言って差し支えないんじゃないかと思います。
僕は、作品に触れるのに「評価する」という楽しみを見出してますので、その一点において「鑑賞している」と言って良いのかなと感じてます。ただ、何の評価軸も持たず真っ白な心で作品と向き合うということとは、おそらくトレードオフであろうと感じてます。マッキーさんが、俯瞰的な視点と没入の両立について触れてますが、たぶんそういうことだと思います。
僕がやっているのは、いわば「鑑賞的消費」なのかなと思います。自分なりの評価軸に基づいて没入すべき価値を感じなければガンガン早送りで観ます。だからと言って受動的にただ眺めているだけではない。奇妙に感じるかもしれませんが、故意に、明確な意図をもって雑な視聴方法を選択することもあるということです。そうではなく、評価軸を持たないまま目の前の作品を丸呑みするのは「消費的消費」と言えるのかもしれません。
ちょっと筆が乗り始めて危険なので、いったんこの辺で切ります笑 
さかぼう ver.狂蝉
鑑賞・消費の分類にあたって, 作品視聴に頭を使うかどうかと, 頭を使った(使わなかった)解釈の結果として抽出された意味がいかほどか, の2点があると思います。 個人的には頭を使うという行為の有無ではなく,解釈能力が低いということで消費をしている, と判断しました。
寿命の長いフィクションはホラ話としてあるいは感覚的な刺激として面白いうえで, 知的に高度な思考に引き込み, 普遍的な話題について考える機会になるものだと思います。
にしむらもとい
クエスチョン#04
「おもしろいと言う方がリスク」と記事では取り上げられていました。他人から好きなものを否定されたくないというメンタリティが背後にあるとも書かれていました。否定されたくないという気持ちについてどう思いますか? 皆さんもそう感じますか?
マッキー
「否定されたくない」という気持ちには集合知(最近気になるワード)への信頼が背景にある気がします。アマプラで映像作品を選ぶとき、ついついそのレーティングを見て、「やっぱり辞めようかな」などと悩んだりしてしまう人は私以外にもいるのではないでしょうか。 “みんなが言っていることの平均値が大体正しい”を表現物の評価にまで延長をした結果、作品に対する自分の感覚、感情までもが採点の対象に入ってしまうような恐怖感、それが「否定されたくない」の本質である気がします。
私自身、作品を面白いと思う感覚を否定されたくないです。
面白いと思う映画について、私よりも背景知識を持つ人から論理的に“面白くなさ”を解説されたら気が滅入りますし、自分がなんだか浅はかな気がして人格まで否定されたような気分になってしまいそうです。個人の感情(っぽい言葉でいえばクオリア?)が記述、共有可能であると信じる集団の中で生きている、もしくは自分自身そうした信仰を多少なりとも持っている証左かも知れません。
Hiroto
例えば、私の好きなものを批評家が「~~だからこれは駄作である」と言ったとして、真に情報として取り入れるべきは「~~」の部分であり、駄作という評価は批評家の感想でしかないのでどうでもよい、と理屈では思っています。
ただやはり最初は「うるせぇ〜〜!!」と反射的に思ってしまいます笑。少し経つと「あなたの感想ですよね」に落ち着くので、好きなものを否定されるとムカつくというよりも、「一般論っぽく個人の感想語んなよ!」という怒りに近いと思います。
GZ
否定されるのが嫌なのではなく、「偉そうな肩書きがついた他人」が言うことが気に入らないのだと思いました。
面と向かって言われたならその気持ちは分かるのですが、自分が一方的に出会ってその気持ちになるのはよく分かりません。
記事にあるのように否定される行為そのものが嫌なのであれば、中々難しいなと感じます。
私自身は面と向かって否定されるのは嫌ですが、批評家が否定コメントを出している程度であればあまり気になりません。
(あまりよくない傾向かもしれませんが、検索して批評を見るという習慣がなかったです。)
好きなものに関しては、否定されるよりも深く肯定されて語り合おうと言われる方が苦手です。
にしむらもとい
アンケートにおいては、僕は「否定されたくない」を選びました。皆さん、否定されることに抵抗がないようで、わりと驚いています笑 匿名にしていれば結果は変わったでしょうか。
僕は自分とは異なる意見こそ聞く価値があると考えてますので、自分を否定する意見は自分を見つめ直すチャンスと考えてます。だから、否定的な意見はむしろ積極的に拾います。ただ、それは同時に、否定的な意見を聞くことに対して相応のネガティブな感情があったからこその、その克服の意味が込もっています。いまとなっては、自分の人格を全否定されてすらたぶん平気でいられます(たぶん……)が、それは訓練の結果であり、根っこには否定されたくない気持ちはいまも持っていると思います(それでよくこんな活動していると思います笑)。基本的には自分の考えや感性を否定されるのは誰にとってもそれなりにしんどいことのはずです。(自分と相手のどちらが正しいかによらず)自分の思い込みを点検して見直し、場合によっては訂正までするというのは、それだけでかなり骨の折れる作業ですから。
Hiroto
感性を否定されることへのリアクションについて、個人的かつメタな話をすれば、「このWSの場が自らをさらけ出す場(私的な場)たりうるか」というのが二者択一で選ぶ際の決定打のような気がします。
私の場合、否定されると感情的に一瞬ムキっとなりますが、理で封じ込めています。なぜ理で封じ込めるのかといえば、「否定されても動じない人だと、公的な場で自信を持って主張するため」という要素があると思います。
このWSは公的な場なのか、私的な場なのか。はっきりとは言えませんが、潜在的に「理想の自分」を投影してアンケートに答えたような気がします。
「交友関係のためのコンテンツの消費」という話題がありましたが、果たしてその交友関係は「私的」なのか「公的」なのか。
少なくとも、オンラインでの私的な場が"原理的に"公的な場にすぐ直結しうるという事実は、もっと議論の的になってしかるべきと感じました。
にしむらもとい
僕については、実際のところ「さらけ出す」ことがこの場での存在意義になってますので、確かに皆さんとは立場が違ったのかもしれません。それぞれの立場において自分なりの感じ方を見つめるきっかけにしてもらえれば幸いです。

にしむらもとい
以上、四つクエスチョンを準備しました。二日間新しいトピックは投下しませんので、よろしくどーぞ。

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八日目

にしむらもとい
八日目となります。よろしくお願いします。オープンなクエスチョンにはあまりリアクションが得られませんでしたので、選択式のアンケートにして改めて投下しておこうと思います。その上で引き続きクエスチョンの回答も待ってみたいと思います。

アンケート##
皆さんは作品の「批評」に価値を感じますか?(積極的に読みますか?)
はい    10
@Hiroto, @蜆一朗, @Shun, @光, @ほうむたろう, @せきと, @西住, @にしむらもとい, @バックれ, @いいだ
いいえ    7
@さかぼう ver.狂蝉, @Takuma Kogawa, @ていりふびに, @GZ, @野澤, @コバ, @Yujin Yonehara

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ていりふびに
今のところ「批評」を積極的に読もうとは思わないです。記事にもありますが体系的に作品を観たことがないからなような気がします。映画でいうと監督、俳優等の名前はほとんど知りませんし、音楽でも歌手やジャンルを知りません。
そして作品周りの体系的な知識があったほうが、作品を鑑賞する際にプラスになるという感覚がまだありません。
知識がないと楽しむことができない場合もあるというのも分かりますし、全体を俯瞰することによって一つの作品としてだけでなく監督、ジャンルなどを通して楽しめるというのも理屈は分かります。
知識としてではなく、体系的に作品を観る過程で起こされた感覚によってより楽しめるという事もありそうです。ただ「実感」はありません。
実際に行動を起こしたことはありませんでしたが、学生の時より時間があるのでそういう楽しみ方にも触れようかなと思っています。
アンケート##
ソーシャルメディアの特性により「幼稚化した視聴者」という問題が記事では取り上げられていました。皆さんは一般的な視聴者は「幼稚化」したと思いますか?
はい    7
@GZ, @光, @せきと, @にしむらもとい, @いいだ, @コバ, @Yujin Yonehara
いいえ    9
@Hiroto, @さかぼう ver.狂蝉, @蜆一朗, @Takuma Kogawa, @Shun, @ていりふびに, @ほうむたろう, @西住, @野澤

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アンケート##
皆さんは「作品」を鑑賞していると思いますか? それとも消費していると思いますか?
鑑賞している    1
@にしむらもとい
消費している    5
@さかぼう ver.狂蝉, @シト, @せきと, @西住, @いいだ
どちらとも言えない    12
@Hiroto, @蜆一朗, @Takuma Kogawa, @ていりふびに, @GZ, @Shun, @光, @ほうむたろう, @イヤープラグさざなみ, @野澤, @コバ, @Yujin Yonehara

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アンケート##
「おもしろいと言う方がリスク」と記事では取り上げられていました。他人から好きなものを否定されたくないというメンタリティについて、皆さんもそう感じますか?
はい    4
@にしむらもとい, @いいだ, @コバ, @Yujin Yonehara
いいえ    11
@さかぼう ver.狂蝉, @蜆一朗, @Takuma Kogawa, @シト, @ていりふびに, @GZ, @Shun, @光, @Hiroto, @せきと, @西住

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にしむらもとい
本日は以上です。引き続き、よろしくどーぞ。

にしむらもとい
週末に向けて投下したオープンなクエスチョンにはあまりリアクションは得られませんでしたが、アンケートにして投下し直しますと、一応一定数反応がいただけました。ありがとうございました。
返事をスタンプで返す。
用意された回答をワンクリックで返す。
ゼロから書き起こすのはしんどい。
そうしたコミュニケーションスタイルは確実に我々の思考そのものに影響を与えているんだなと感じました。かなり自覚的に生きているつもりの僕ですらそれはよく感じます。日常的に「多忙」をいいわけにワンクリックコミュニケーションばかりしていると、ゼロから書き起こす能力が失われるまでは言いませんが、錆び付きはするのかなと感じます。僕も昔よりは確実に(語彙は増えていたとしても)言語感覚は錆び付いていると思います。日常的に目にする様々な現象を自分の言葉で言語化する「労力」を惜しむようになっているのだと思います。しかし、かと言ってワンクリックで済むものはそうしないと多すぎる情報量に対応できないのも事実であり、突き詰めていくと、もう情報の洪水の中で既に我々は分断されて溺れている気もしてきます。
そんな中、ここも文字の洪水で溺れそうですが、引き続きお付き合いください。

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九日目

にしむらもとい
九日目となります。よろしくお願いします。本日は振り返り期間として、僕からの問いかけの投下はお休みにしたいと思います。これまでの流れを振り返って何か思いついたことなどあれば、ご意見いただければ幸いです。 

皆さんがお気に入りの作品(漫画、アニメ、映画、ゲーム等)に出会った際に、起こしたことのあるアクションについて教えてください。
その作者の別作品を探す    10
@マッキー, @さかぼう ver.狂蝉, @Takuma Kogawa, @ほうむたろう, @にしむらもとい, @いいだ, @コバ, @イヤープラグさざなみ, @野澤, @光
その作品のメタ情報を収集する(製作裏話、作者の意図等)    13
@さかぼう ver.狂蝉, @バックれ, @Hiroto, @Yujin Yonehara, @Takuma Kogawa, @ほうむたろう, @にしむらもとい, @コバ, @西住, @イヤープラグさざなみ, @GZ, @光, @せきと
作者の師匠、弟子筋にあたる人物の作品を探す    3
@さかぼう ver.狂蝉, @ほうむたろう, @コバ
二次創作物を探す    4
@さかぼう ver.狂蝉, @Yujin Yonehara, @Takuma Kogawa, @いいだ
テーマや作風が類似した作品を探す    10
@yuuma, @さかぼう ver.狂蝉, @バックれ, @Yujin Yonehara, @Takuma Kogawa, @ほうむたろう, @にしむらもとい, @いいだ, @コバ, @光

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Takuma Kogawa
気に入った作品の中でも、こういった行動をとるものととらないものがあります。例えば、ドラえもんやクレヨンしんちゃんについてこれらを行ったことはありません。一度の鑑賞では味わいきれず、もっと知りたいと思った作品では、誰かの評価や解釈を読んで自分の中の作品像をはっきりさせています(選択肢2番)。
GZ
別の表現媒体で表現されたその作品を観るということをしていたと思います。
選択肢の2番は最近始めてみました。
マッキー
皆さんコメントありがとうございます。
2日目の問
「文化的な表現物(作品)の楽しみ方は素養(体系的な知識の習得や背景の理解その他の訓練)次第で変わるのか」
を考える中で、皆さんの”素養”にまつわるアクションについてお伺いしたかったので、投げかけてみました。
上記で起こしたアクションは、結果として表現物の”楽しみ方”自体を変えていくものでしょうか?
もっと言えば、そうしたアクションを取るほどより良い体験ができる、と考えてもよいものでしょうか?
例えば、作品の評価に楽しみを見出しているのであれば、背景知識への理解はより複雑で高度な評価を可能にするので”素養”はあればあるほど良い、と考えることもできます。
一方で、ホラーで死ぬほどびっくりしたい人はホラー演出論の知識はむしろ、あるほど興ざめしてしまうかもしれません。
これまでの議論で楽しみ方にまつわるものとしては”評価””没入”が登場したかと思いますが、他に何か思いつくものがあれば書いてもらえたら嬉しいです。
”評価””没入”の細分化でも構いません。
何か感じたことがあればお願いします。
マッキー
@Takuma Kogawa
一般にミステリーや難解なSFなどのプロットが複雑なものは、いわゆる解説需要が強そうですがTakumaさんの仰る”もっと知りたいと思う”というのは、もっと広い意味を指しているような気がします。(・・よね?笑)
後を引く作品とそうでない作品の違いってなんなんでしょうね。
@GZ
いわゆるメディアミックスですかね。昔は作風が変わることへの批判が強かったですが、最近は漫画作者がアニメも監修していたり、複数媒体での製作が一連の表現として整合してきている感があります。(ザ・商業化なわけですが)
転スラとか素人系小説のアニメ化も多いですよね。
僕はとらドラ!のコミカライズが完結するのを10年以上待っています笑
Takuma Kogawa
僕は作品に一通り触れるときは表面的なものしか感じ取れません。何らかの理由で琴線に触れた作品については、作者の言いたいことを知りたくなり、正解でなくてもいいのでブログや掲示板(エロゲー批評空間のようなサイトも含む)を読みますね。僕にとっては、作品を深掘りしたいというより、現実世界の行動や思想に反映させたいと思える内容かどうかが、アンケートの行為をする(琴線に触れる)作品かもしれません。
例えば作品が提示した愛の形について、自分ならどう考えるか、他の人はどう思っているのか、調べたのちに自分の考えがどう変わるか、どのように愛を示すか……と派生できると、いい作品に出会えたなと思います。これ以外にも、単純に気に入った作品や作者を応援するためにお金を使うこともあります。給料をもらうようになってからこのアクションの沼にもはまってしまいました。
GZ
@マッキー
ごめんなさい、転スラやとらドラ!という作品は名前しか聞いたことがないです。
ただ、10年は長いですね。僕なら絶対に待てません笑
作画の話はちらほら聞いたことはありますが、最近はそうなってきているんですね。
ここ数年はほとんど観ないか古い作品をたまに観るだけだったので、最近の動向はあまり把握できてなかったです。

マッキー
↑私からも、気になる点、アンケート投下してみましたので、お手すきの際にでもご意見いただければ幸いです。

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十日目

にしむらもとい
十日目となります。よろしくお願いします。

シェアしやすい作品(周りと共感を産みやすい)にはどんな特徴があると思いますか?
ポジティブである    10
@Hiroto, @シト, @コバ, @にしむらもとい, @GZ, @Yujin Yonehara, @光, @ていりふびに, @Shun, @野澤
多様性(マイノリティフォーカス)がある    0
プロットが単純である    2
@せきと, @シト
プロットが複雑である    0
これまでにないジャンルである    2
@せきと, @シト
以前ヒットした作品と類似点が多い    4
@Hiroto, @yuuma, @Yujin Yonehara, @Shun
解釈がしやすい    10
@Hiroto, @せきと, @シト, @コバ, @にしむらもとい, @Takuma Kogawa, @Yujin Yonehara, @光, @Shun, @野澤
解釈がしづらい    0

Created by @マッキー with /poll
GZ
学生の頃を思い出してみると、年齢的に観ても恥ずかしくない作品であるか、同年代の価値観にあった作品であるかという点が大きいように感じました。
Takuma Kogawa
共感を生むことと、話題にしやすいことはイコールではないと思います。まどマギ第3話やスクイズ最終回は強烈なので話題になりましたが、共感ではなさそうです。
マッキー
@GZ
確かに世代や性別的な作品の区分けって僕の周りでもありました。そこに抗い続けるのがオタクなんでしょうけども、ある種のプライドや矜持が必要な気がします。負け馬に乗るオタクの美学にも通じるものがありそうです。
@Takuma Kogawa
作品に対するどんな感情であれ、仲間内で共通する感情(共感)があれば、それはシェアしやすい作品なんだと僕は考えていますがいかがでしょうか。
“共感”を作品に対する共感として考えると、確かに話題にしやすさと“共感”はイコールで無いというのは同意見です。
Takumaさんと僕の感覚の違いが共感の想定する対象先の違いから来るのかはたまた全く別の論点から来るのか、ちょっと気になります
Takuma Kogawa
シェアや共感という言葉には、自分と同意見であることを相手に求めるというニュアンスがあると感じています。その作品が自分と仲間(あるいは友達)とで同程度の価値(共感されるということは、仲間と重なる部分が大きい)であること、作品の内容や描写そのものにフォーカスしていることがシェアや共感の必要条件かもしれません。また、SNSで「シェア」したとしてもそれを見てもらいたい「仲間」が内に閉じている(同好の士であっても見ず知らずの人を対象にしていない)イメージがあります。いわゆるブームになった作品は、シェアや共感をした仲間の数が多かった一方で、異なる「仲間」どうしはほとんど交わらなかったとでも言いましょうか。
対して話題にしやすいことは、シェアや共感も内包してはいますが、僕は様々な側面からの個人的意見をぶつけ合えるものと考えています。シェアや共感が集団なら、話題にしやすいことは個人的な営みでしょうか。また、作品全体ではなく一部に絞って話題にすると思います。逃げ恥スペシャルで「将来的に子供の性別が変わるかもしれないから、男女問わずしっくりくる名前をつけよう」というシーンがあったのですが、こういったドラマの内容、また現実世界での周辺領域の意見や議論をできるものを「話題にしやすい」ものと個人的に捉えています。
わかりにくければすみません。明確に分けようとすることがナンセンスかもしれません。 
マッキー
ありがとうございます。
こういうのってもしかしたら言葉遊びなのかも知れませんが、そういう線引きの背景に「なぜオタク化したいのか」だとか「否定されたくない」だとかを考えるきっかけがあるような気がします。
僕も「シェアや共感しやすい作品」⊂「話題にしやすい作品」は同感です。単純に話題にしやすい作品群の中にはTakumaさんの仰るように共感、反感が混在する作品もあると思いますので。
”共感”と”話題”で、そもそも場が明確に分かれていて、それぞれの場で適切なレスポンスをしなければ異物として排除されてしまう、ということはありますよね。SNSの普及で場自体がバーチャル化してその見分けの難易度が上がったことで、社会的合理化によって、”共感”の場自体の割合が増えていった(迷ったときは共感しとけ)ということはありそうな気がします。

マッキー
その他ご意見があればお寄せいただければ幸いです。
よろしくお願いします。

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十一日目

にしむらもとい
十一日目となります。よろしくお願いします。

コバ
長い旅路の末何とかWSに追いつけました笑が、最近のアニメ、漫画を私はあまり知らないので、各アンケートについてあまり記述できることはないです。。。
なので、今回最初に貼られてた記事の内容や、これまでのWSのやり取りを読んで私の感じたことを書いてみたいと思います。
今回のWSの前提の記事の内容は、昨今映画やアニメをスキップしたり倍速で観たりする人が増えているということですね。
短時間で、なるべくたくさんの作品を観たい!という気持ちは私も分からなくはないですが、映画やアニメをスキップ、倍速で観る人が増えること、あるいはそれを各媒体の提供者側が必要以上に誘導することによる、社会的な悪影響は存在すると思います。
倍速でたくさんの作品を視聴し(あるいは視聴したという事実を作り)、かつその作品をなるべく自分の「分かる」形でインプットすれば、自分という存在からアプローチできる地点が広がる(多数の人たちとその情報を基に繋がれる、あるいはたくさんの作品が短時間で、自分の「快」な感情と共に積み上げられる、つまり幸福度が上がる(ような気がする))ことに、作品を倍速で観て、分かりやすい作品を求めている方々は価値を見出しているんだと思います。
しかし、自分にインプットできる情報を最大化すれば、自分が楽しくなったり、自分の身の回りの生活が上手くいく(みんな大好き「幸福度」、が上がる!)というのは幻想だと思います。
それを繰り返してしまうと、自分に何をインプットするか、そしてそれを用いて何をアウトプットするか、そればかりに目がいってしまい、自分のことしか見えなくなってしまうと思います。(本来作品を鑑賞すると得られるはずであった、自分という存在を相対化する機会を失ってしまうと思います)
そして、自分という存在を絶対視するようになってしまう。
でも自分だけを見てても、自分という存在を過剰に信仰してしまうだけで、ほとんどの人は自分のやりたい事なんて分からないんですよね。
だから、自分探しの旅とかが流行っていたのではないでしょうか。(今はコロナの影響で鳴りを潜めていますが、潜めているだけでしょう)
自分探しの旅くらいならまだ可愛いものですが、自分だ!本当の自分を見つければ全部うまくいくんだ!あなたが今人生上手くいってないのは、本当の自分を見つけられてないからだ!という、自己啓発の教祖様や一昔前で言う意識高い系の人達を生み出す温床になっていると思います。
手前味噌で申し訳ないのですが、哲学部では先週部活動でソクラテスの弁明、クリトンを扱ったのですが(隙あらば部活動勧誘していくスタイル笑)、ソクラテスの弁明だけ読んでもなぜソクラテスが裁判で死刑に問われるまでの事態になっているのかなかなか分からないですし、それを分かろうとするためにその時代や社会情勢、ソクラテスのその他情報を参照してみる必要があるのですが、そういったメタ視点は、流行のアニメを倍速で見ていては育まれないと思います。
時代も、国も、言語も、バックグラウンドとなる宗教も全然違う人間の考えていることを分かろうとする経験、そしてどこまで行っても究極的には分からないというある種の諦観、そういった視点が育まれ、自分自身もこの長い人類の歴史の中の1つの点の上の1人の人間にすぎないんだ、と自分自身を相対化できるようになれば、自分自身を過度に絶対視して、自分探しの旅に出たり、意識高い系になったりすることはないと思います。
以上、私のバイアスが多分に含まれていることは自覚していますが、せっかくなので今回のWSの内容に関して私なりに思ったことを書かせていただきました。

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十二日目

にしむらもとい
十二日目となります。よろしくお願いします。

西住
現状の本筋とズレますが、批評に関してアンケートを取りたいと思います。
完全に個人的な興味からのアンケートです。

文芸批評家の小林秀雄を
知っている    12
@蜆一朗, @コバ, @Hiroto, @マッキー, @yuuma, @せきと, @にしむらもとい, @さかぼう ver.狂蝉, @ほうむたろう, @いんげん侍, @Takuma Kogawa, @野澤
知らない    4
@ていりふびに, @Shun, @光, @GZ

Created by @西住 with /poll
小林秀雄の文章は
理解できる    4
@蜆一朗, @コバ, @マッキー, @せきと
理解できない    1
@yuuma
どちらでもない    3
@Hiroto, @にしむらもとい, @ほうむたろう

Created by @西住 with /poll

蜆一朗
いつだったか, 小林秀雄の評論がセンター試験に出た年がありましたね, あれを読んだときはスッと入ってくる感覚がしました. 岡清先生との対談をまとめた「人間の建設」という本は何度も読み返しています.

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十三日目

にしむらもとい
十三日目となります。よろしくお願いします。最終日前日ですね。本日は今回の議論の簡単な総括を各部員の立場から投下してもらおうと思います。皆さんも何か思うところがあれば自由にご意見いただければ幸いです。

にしむらもとい
西住さんは確か吉本隆明が好きとおっしゃってた記憶があるので小林秀雄はウマが合わないのかなと想像します笑 小林秀雄をここで持ち出した意図を推測しながら話を進めますが、個人的には小林秀雄の文章はわかりにくいというより動機が個人的に閉じていることの印象の方が強いです。だから対談集などはむしろすんなり読めたりします。「批評はわかりやすい必要があるか」という論点から言えば、僕は批評にわかりやすさは全く求めません。解説と批評は違いますからね。批評はまぁそれ自体も表現物なので、解釈の幅もあって然るべきかなと感じます。それを批評が読まれなくなりつつあるこれからの時代とどうマッチさせるのか、マッチさせるべきなのかは難しい問題です。

マッキー
それでは部員からの総括ということで私の意見も軽くまとめておきます。
この二週間、皆さんの意見を読んだり、ぼうっと考えてみた結果、記事の中で触れられていた映画鑑賞の在り方の変容というものは基本的にはすべてテクノロジーを起点とした細分化・効率化で説明がつくものである、という認識で落ち着いています。
WS内の議論では特に、『ジョンケージの「4分33秒」』の下りと『セリフの多い漫画』の下りは興味深かったです。
4分33秒間無音であることを知った上での鑑賞と、そうでないものはどう違うのかというのは考えさせられました。“知識が無い”ということが逆に価値を持つ可能性があるという点は革新的であると思います。エンドレスエイトは僕は7話目以降しか見ていないニワカなのですが、エンドレスエイトの是非についてももっと語ってみたかったです。
『セリフの多い漫画』の下りでは、媒体の情報量と受け手に要求される処理量は反比例的であり、文字量の多い漫画は文字と絵で要求される処理量のズレが受け手に不快を感じさせている可能性がある、という議論があったかと思います。この視点には、テクノロジーが各媒体を細分化・効率化させていく方向性を占う上で重要な示唆が含まれていると感じます。情報量が最もリッチで受け手の処理負担が小さい映画メディアから細分化・効率化(もとい、解体)が進み、そこで得られた知見が漫画やその他メディアの解体に転用されていく、という図式で今後のメディア変容を考えることもできると思います。以下、キーボードを叩きながら今後の方向性を素人なりに妄想してみました。笑 皆さんも何か妄想が浮かんだら書いていただけたら嬉しいです。
※下記が好ましいと思っているわけではなく、あくまで映画の現状の延長線として考えてみた、ということです。
・漫画のみらい
①「好きな場面をワンクリックでカタログ化できるアプリ」の普及
各作品の名場面やお気に入りの場面をスマホ上でタップするだけで、自分だけの名場面集が作成可能(井上雄彦や浦沢直樹はおそらくほぼ無理でしょう。)
②キュレーション精度の高度化
感想FB&アンケート型の嗜好把握とセリフや絵柄などからの細分類を組み合わせたキュレーション機能の高度化
③漫画⇔ラノベ⇔小説のシームレス媒体
場面毎に、好みによりワンタップで漫画版、ラノベ版、小説版を行き来できる
・小説のみらい
↑に大分吸収される・・・・直木賞とマンガ大賞とラノベ大賞が融合・・・
ここまで考えてて、なんだか効率化や細分化の文脈でのみ考えると面白味というか夢が無いような気がしています。テクノロジーが導く各媒体のみらいについてもっと夢のあるご意見をお持ちの方がいらっしゃれば、追記していただけると嬉しいです。
まとめきれず、また、脱線してしまいましたが私としては本記事とそれにまつわるみなさんのご意見を拝見できたこの2週間は有意義でした。
私はこの部の実写部門に所属しましたが、やはり各媒体毎にメンバーがいると、様々な意見を聞けてより面白みが増すような気がしますので、このWSをきっかけに興味を持っていただけた方は入部頂けると嬉しいです。(私も何をやるのかいまいち良く分かっていませんが笑)
ありがとうございました。

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十四日目(最終日)

にしむらもとい
本日で最終日となります。よろしくお願いします。予定としては23時で締めようかと思います。最後に今回のテーマの総括を、一応僕の立場から投下します。皆さんもこの二週間を振り返って何か感じたことなどあれば自由にご意見いただければ幸いです。

にしむらもとい
なお、WS冒頭で提示したアンケートについても集計してみたいと思います。この二週間で、何か感じ方は変わったでしょうか?

アンケート#01
文化的な表現物(作品)の楽しみ方は素養(体系的な知識の習得や背景の理解その他の訓練)次第で変わるのか(素養がなければ楽しめないという意味ではない)
大きく変わる    16
@コバ, @Hiroto, @ていりふびに, @蜆一朗, @Takuma Kogawa, @せきと, @Yujin Yonehara, @GZ, @ほうむたろう, @西住, @Shun, @いいだ, @マッキー, @いんげん侍, @にしむらもとい, @野澤
多少変わる    2
@yuuma, @さかぼう ver.狂蝉
本質は変わらない    0

Created by @にしむらもとい with /poll
ていりふびに
時間ギリギリの投稿ですいません。
二週間のWS運営ありがとうございました。後半はあまりコメントはできませんでしたが考えを深め、自分なりの作品との向き合い方を考えることができました。
この二週間で感じ方が変わったことですが、このアンケートの言葉でいうと素養を付けてみようと思いました(短絡的な気はしますが)。
正直に言うと大学生までは卓球、数学、謎解き以外に頭を使っていなかったので作品の背景も知らなければ作者を調べたこともありませんでした。
薄々感じてはいましたが、今回のWSを通じて体系的な知識が作品の理解だけでなく、楽しみ方や感じ方(感性の部分)に影響すると改めて感じました。
ただ、皆さんは楽しむために調べているというよりは純粋な興味で調べているのだと思います。そうではなく、「より楽しめるかも」という期待で調べて同じように「楽しめる」かは疑問があります。まあ、そこは自分で実践して答えを出してみます笑。

西住
私からのまとめです。
今回のトピックでは「難解なもの」に関して考えていました。何かしらの表現が難解である場合、本当に難しいことを言ってるのか、煙に巻いて高尚さを装っているのか、どちらかが思い浮かびます。
小林秀雄は私の中で難解王なのですが、彼がどちらかはよくわかりません。多分評価も分かれてるでしょう。意味不明、論理飛躍、国語の試験に出すなと言ってる人もいれば、その逆もいます。小林は試験問題としては時代を経るごとに出されなくなっているようで、2014年のセンター試験に登場したときは、驚かれたわけですが、実際意味不明というか、内容が意味不明というより刀の鍔に思い入れを持つことが意味不明でした。その年は小説も謎小説だったので、全てが意味不明でした。なんにせよ、小林が難解なのは文章よりも着目点かもしれません。吉本は詩人と科学者の感性がごちゃ混ぜなので、詩的な方に偏るとよくわからんという感じです。
評論にせよ、物語にせよ、難解なものは好まれなくなっているのでしょう。本当に難しいことが敬遠されているのか、煙に巻く人たちが追放されたのか、単に飽きられたのか。もしくは全部なのか。少なくとも、それっぽく高尚さを装うことに対する世間の目は、昔より厳しくなってると感じますね。

にしむらもとい
小林秀雄の話は完全に逸脱なんですが、せっかくなので少しだけ。
小林秀雄が全ての著作において題材を用いて語っているのは結局「自分」なので、読んでわかることは小林秀雄についてだけだと思います笑 『本居宣長』を読んでわかるのは本居宣長についてではなく小林秀雄についてだと思います。ほとんどの著作においてそうです。対談集だけは例外的にわりと読めます。正直、小林秀雄については若い頃に背伸びして読んで以来僕もあまり積極的に読んでいません。国語の試験(自然言語の論理運用能力を確認する)問題に使うのは場合によってミスマッチになり得るとも思います。ただ、だから無意味と断ずるのも早計で、やはり小林秀雄は「小林秀雄」として認識される明らかな独自性を持っています。などと言ってはおりますが、正直、ここまで徹底的に衒学的な批評というのは他に類するものをあまり見かけませんので、小林秀雄は難解なもののサンプルとして挙げるにはちょっと外れ値な気もします笑 あと、世間の目が厳しくなったというのは、「世間」をどこに置いているかの立場の違いだと思いますが、僕はそうはあまり感じません。厳しくなったのではなく単に許容範囲が狭くなったのだろうと感じています。もっとも、これも表現の違いだけで、もしかしたら同じことを感じている可能性もありますが、立場によっていろいろな感情が付着して表現も変わるものですね。

にしむらもとい
■西村総括(冒頭に移動)

にしむらもとい
本WSは諸事情により0時に締めます(締めの言葉を書き忘れていたのに気づいたのはナイショ)

にしむらもとい
それでは、時間になりましたので、今回の『表現研』によるワークショップはここまでとしたいと思います。表現研では今後も様々な表現物の在り方を考え、楽しみ方を深める活動を継続してゆきたいと思います。
作品を楽しむのに素養が関係あるかというアンケートについては、当然、僕は大きく関わっていると感じています。というより、作品というのは作り手と受け手がいて成立するものなので、受け手の意識が変われば作品そのものの価値が根底から変わり得ます。個人的には、僕は作品を技術論的な立場から批評することはあまり好んでおりません。もちろん、映像のカメラワークなどテクニカルな批評を行なえば、ある程度の客観性を担保して批評を行なうことはできますし、プロの評論家が行なう批評とは、そうあるべきなのでしょう。でも、僕が興味があるのは素人(無名の人間)が行なう批評です。作品の価値は、万人に開かれているべきだと思います。知識の多寡を基準としない批評空間(成立させるのが難しいですが)もあって良いのではないかという想いがあります。
情報化の極まった現代において、あらゆる知識を体系的に身につけることは不可能だと思います。ですので、知識はあるにこしたことはありませんが、僕なりの意見としては、付け焼き刃で闇雲に知識を習得することを目指すよりは、自分なりの楽しみ方の視点を明確にして自覚(自信)を持つという批評態度を目指すことをスタートとしておすすめしたいと考えています。そこに、余力があれば少しずつ知識を足していけば良いのではないでしょうか。動機なく自己目的的に身につけた知識は泡と消えます(経験談) これまでより一歩だけ踏み込んでシンプルに「なぜ面白いのか面白くないのか」を考える(言語化する)ようにすれば、自ずとその理由探しの中で知識は身につくと思います。
……というような活動に何か幅の広がりを少しでも感じていただけた方がおられましたら、よろしければ、部員として一緒に活動しませんか笑 問うのは興味の熱量だけで、知識の多寡は問いません。日常的には自分の好きなものについてなどちょっとした会話をする程度で大した負担は発生しません。WSが大きな活動目標になると思いますので、その時だけ少し労力を割いて協力いただくことになるかと思います。手が空けば、作品の個別のレビューも蓄積したいとは思っております
それでは二週間お付き合いいただきありがとうございました。今後もWSで様々テーマを設定しながら皆さんと一緒に議論してゆくつもりにしております。またWSでお会いしましょう。

私の活動にご賛同いただける方、記事を気に入っていただいた方、よろしければサポートいただけますと幸いです。そのお気持ちで活動が広がります。