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【短編小説】Finder (Full version 2.0)

仕事は順調で、可愛い恋人もいる、幸せな日々。それは記憶を失った私の見る、甘い幻想だった。カメラを通じて切り取られたのは、荒廃した現実の世界。断片的な記憶。私は思い出す。憎き仇の、その姿を。
これは、逆噴射小説大賞2021に応募した「Finder」の完全版です。
【Ver.2.0 UPDATE】全体的に描写が濃くなってわかりやすくなりました!
逆噴射版とは主人公の設定が少し違っているので、一旦リセットして読んで頂けると嬉しいです。

Finder (GYAKUFUNSYA-Edition)はこちら ↓

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 ふと思い立って、押し入れからカメラを引っ張り出した。きっかけは単純で、昨日、ビルの谷間から覗く夕陽が、とても綺麗に見えたからだ。

 昔、憧れのままに奮発した、フルサイズ・デジタル一眼レフ。結局、上手く扱えずにしまい込んでしまったのだけど。挫折した、苦い思い出が蘇る。

 「目で見たまま」を捉えることは難しい。記録色と記憶色、そういった言葉が存在するぐらいには、それは普遍的な悩みらしい。デジタルカメラはどこまでも0と1の機械で、設定した数値の通りに、物理世界をそのまま切り取る。対してヒトの主観は、視細胞の電気信号を基に、脳が勝手に映像を補正する。感情や思い込みは容易に現実を捻じ曲げ、ただカメラで撮ったままの写真は、どうしても味気無い。


 大げさに角ばったカメラの、しっかりとした質量が心地良い。私はカメラを窓の外に向け、ファインダーを覗いた。35 mm、f/1.4の大口径レンズが、朝の空気の冷たさすらも伝わるような、透き通った光束を私に送り届けてくれる。

 なんでもない道ばたが、風景になる。そう、この感じだ。今見えている、この通りに撮れるのなら、どれだけ素敵なことだろう。段々と思い出す。私はカメラ越しに、窓の外を見渡した。

 鮮やかな黄色に染まったイチョウ並木。落ち葉の積もった道を、仲良さげに手を繋いで歩く女子高生に、昔の私たちの想い出を重ねる。視線を上に移せば、澄み渡る秋の青空。私はカメラを動かし、楽しく悩みながら構図を探る。


「あっ!カメラ!買ったの?」

 背後から、春香の明るい声が聞こえてくる。私は振り返った。

「いや、前に買ったんだけどさ。もう一度やってみようかな、なんて」

「そうなんだ。じゃあ試し撮り!どうぞ!」

 春香は可愛らしく微笑み、両手でピースを作った。ピントを合わせ、シャッターを切る。カシャ、と軽快な音が鳴った。


 背面液晶に写真を表示する。異様な光景が写っていた。部屋の壁は煤けてひび割れ、床は所どころ腐っている。春香はいなかった。代わりに、すっかりと干からびた、焦げ茶色の何かが、転がっていた。

 一瞬、意識が飛んだような気がした。私は、自分の額に滲む、嫌な汗に気づく。わずかな悪寒を感じながら、ゆっくりと顔を上げた。

 春香は、両手のポーズは保ったまま、不思議そうに首をかしげていた。もう一度、カメラの液晶を覗き込む。変わらず、荒廃した部屋が写っていた。


 そうだ、こうなるのは当然だ。理由のわからない、奇妙な確信を覚える。頭の奥を掻き混ぜられるような、強烈な不快感に顔をしかめた。痛みを伴う拍動が押し寄せる。目の前が暗くなる。甲高い耳鳴りが響く。暗がりに揺蕩う私の前を、長いテープ状のものが、擦れるような音を立てて流れてゆく。わかる。これは、私の記憶だ。

 勢いよく巻き戻される、オープンリールのモノクロフィルム。それが不規則にフラッシュで照らされるかのように、断片的な記憶のスライドが、私の脳髄に強く焼き付けられる。枯れた街。激しく炎を上げるクルマ。激しい光を放つ球体。割れた空。

 それらは大量に、次々と流れ込む。私には、それぞれの光景の意味するところはわからない。かつて何が起こり、今が、どうなっているのかも。

 憶えのない思い出と共に湧き上がる、あてのない焦燥と後悔、そして、憎悪。奇妙な確信。この記憶は紛れもなく、真実で、現実だ。それだけは、間違いないと感じた。


「どうしたの?」

 春香が心配そうな声色で、私を覗き込む。

「少し、思い出したんだ」

 私は呟く。

 やっぱりきれいに撮れるもんだね、と嬉しそうな春香の声が聞こえる。私は黙って立ち上がった。

 記憶は断片的だ。でも、心を苛む憎悪の向かう先、その顔。それは、わかった。


 誰なのかはわからない。何故なのかもわからない。それでも、理由無き怨嗟の矛先は、確かにその女を捉えている。

 焦燥感が私の背中を押す。行かなければならない場所がある。何処なのかはわからない。だけど、私は頻繁に、そこへと通っていたように思う。知らない風景。おそらくこの近辺ではない。遠いのならば、たぶん私は、電車を使うだろう。だから、まずは駅に。

 カメラを手に玄関を出た。通りに面したアパートの二階。心地良い日差しと、鳥の鳴き声。行き交う車。ファインダーを覗き、シャッターを切る。写真を確認する。朽ちた手摺。鉛色の空。乾いた死の空気だけが写り込む。

 また、記憶が少し戻る。見覚えのない、薄暗い部屋。床を這いまわる太いコード。少し埃っぽく、僅かなカビ臭さ。感じているのは、おそらく悔恨。そうだ、私は、間に合わなかったのだ。


 階段を降りて、通りを左へ。点々と植わるイチョウ並木の道をしばらく歩き、三つ先の交差点を左に曲がったところ。ここが、いつも利用している最寄り駅だ。日曜日ということもあり、駅前はそこそこ混みあっている。私には、そう見える。

 改札を入ってすぐの、人であふれた、賑わいのあるホーム。あちこちから聞こえる楽し気な会話が、私に言いようのない不安をもたらす。

 確かめるように、シャッターを切った。写真には、その誰もが写らない。すぐに頭痛と、記憶のかけら。わからないなりに、少しずつ、記憶の断片が繋がり始めた。

 私は毎日、この一番線の電車に乗って、会社へと向かっている。そのはずだった。古い記憶の中で、私が毎朝並んでいるのは、四番線。ホームを一つ渡った先の、逆方向へと向かう列車だ。


 記憶の齟齬、違和感を辿り、四番線へと移動する。私は、ちょうど到着した電車に乗り込んだ。

 少し古い型の車両。人はまばらだ。ロングシートに腰を下ろす。私は、帰ってきた記憶を反芻し、その意味を探した。


 脳裏に、朧気に浮かんだ顔。滲み出る無意識が、澱んだ殺意の切先を突きつける。記憶が戻るたびに、憎しみが募る。口角を異常に吊り上げ、醜悪に歪ませた笑みを浮かべながら、『機械』の操作盤を弄る、あの姿。

 そう、『機械』だ。『願いを叶える機械』。あの女こそが、この事態を引き起こした、全ての元凶だ。


 復讐を遂げれば、果たして世界は戻るのだろうか。疑念は、意識して底へと沈める。私の見ている世界は、あまりにも優しい。このまま閉じ籠ってしまいたいほどに。でも、おそらく、それは許されないことだ。心に滲む憎悪と後悔が、今の私を動かしている。

 あの女は、いったい、何を願ったのだったか。あの女は誰で、私にとっての何なのだろう。この道行きの先に、あの女がいるのだろうか。私は、繋がらない思考を、延々と巡らせた。


 そういえば、私はどこまでこれに乗ればいいのだろうか。スマートフォンを取り出し、時刻表を検索した。見覚えのない駅名が並び、まるで見当がつかない。

 確かに、この電車なのはわかるのだけれど。私はシートに背中を預け、電車の揺れを感じながら考える。状況を思い返す。記憶らしきものが戻るのは、いつでも、写真を確認した後だ。

 正直なところ、あまり撮影はしたくない。カメラが切り取る光景は、私の心に強く圧し掛かる。カメラの故障であれば良いと願う一方で、あれこそが現実の光景であるという確信は、より強固に染み込んでくる。私は短い葛藤の末に、カメラの電源を入れた。


 結果は、やはり同じ類のものだった。枯れ果てた世界。ほつれて土埃を被った座席。車体の屋根は無くなっていて、残った壁面の上部は、不自然に青黒く腐食している。外に見える街並みは、曇って霞んだ窓の向こうに、まるでブレずに写っていた。

 世界がそうであるなら、考えれば当たり前のことだ。電車なんて、動いているはずがない。また、頭痛がした。


 カメラの液晶画面から目を離すと、私の眼に映るのは当たり前の電車の風景。ふと思いついて、スマートフォンのカメラアプリを起動した。画面の映像は、私が見ているものと変わらない。

 シャッターボタンを押して、画像を確認する。写っているのは、目の前に広がるものと、同じ景色だ。

 カメラアプリには、現実は写らなかった。一瞬の安堵と、薄気味悪い予感。私は、その画像を表示したままのスマートフォン端末を、カメラで撮影した。確認する。端末の表面はひどくひび割れ、真っ暗な液晶パネルは、何も映していなかった。いつから、こうだったのだろうか。


 鈍痛と共に流れ過ぎる記憶。降りる駅は思い出せた。緑色の、大きな駅名標。ここから、六駅先だ。

 動いていないはずの車両の窓から見えるのは、流れる街の景色。このまま乗っていれば、果たして着くのだろうか。この、止まった電車で。

 考えているうちに、電車が止まり、扉が開く。その向こうに見える駅名表示は、確かに一駅ぶん進んでいた。


 六駅先、駅の名前を確認し、私は電車を降りた。大きな駅だ。駅前にはスクランブル交差点があり、その奥に見える総合公園は、多くの人で賑わっている。その活気が、薄ら寒い。現実の光景との乖離を想像し、気分が悪くなった。

 それでも、手掛かりは必要だ。そう割り切って、シャッターを切った。ぽつりぽつりと落ちている、干からびたモノ。公園の木々も、全て茶色く萎びていた。

 溶け残った、と表現したくなるような、青黒く腐食して散らばる信号機のパーツ。沸騰したかのように泡立った跡の残る、交差点のアスファルト。続けて視線を動かし、息を呑む。異質なものが写っていた。女の子だ。

 スクランブル交差点の中央付近に写りこむ、白い服の少女。踊っているのだろうか、手をすらっと伸ばした、不思議な姿勢をとっている。長い黒髪が、風に美しく流れていた。

 弾かれたように顔を上げる。スクランブル交差点は多くの人が行き来していて、中央の様子はわからない。急いで、もう一度シャッターを切る。少女は消えていた。今までよりも強く、頭痛がした。


 この駅は、私の職場の最寄り駅のようだ。交差点を、公園を抜けて、繁華街にたどり着く。そうだ、ここも、来たことがある。春香と一緒に、何度も。アーケード入口に見えるあのカフェに、二人でよく寄っていた。シフォンケーキのおいしいお店だ。

 大切な春香との、想い出のはずなのに。私は、忘れてしまっていたんだ。心臓が強く、速く拍動し、締め付けられるように痛む。

 こみ上げる不快感を抑えつけて、シャッターを切った。激しい後悔に襲われる。アーケードの広い通路は、数え切れないほどたくさんの茶色の干物で、埋め尽くされていた。

 手前の道路には、溶けるように朽ちた、大量の車。ああ、これは、消化の跡だ。脈動する頭痛が、その度に、記憶の欠片を戻してくれる。

 私は歩みを進める。足元には無数のあれが広がっているはずなのに、靴の裏から伝わるのは、レンガ舗装の固い感触だ。気持ちが悪い。私は足早にアーケードを抜け、その奥へと向かった。


 抜けた先はオフィス街だ。ここに、私たちの研究室がある。記憶に従って、大通りから逸れた細い路地を進む。

 ビル群の影に隠れるように在るのは、コンビニエンスストアほどの大きさの、鋼鉄製のプレハブ小屋だ。窓はなく、接合部は頑丈に補強され、唯一の扉には異様に厳重な鍵が付いている。今は、鍵はかかっていない。私は扉を開け、中へと入った。

 扉の先には、また扉だ。私はドアノブを捻り、押し開ける。静寂の中を、錆びた音が響く。そこに広がるのは、地下へと続く大きな階段だ。

 私は足元で擦れるように光る非常灯を頼りに、慎重に降りてゆく。最下部には、頑丈そうな引き戸と、なにかのスイッチパネル。戸を開く。次の部屋は、広い。

 ドーム状の天井の、コンクリートが打たれた無機質な空間。ゴウンゴウンと、重低音が小さく反響している。音の源はすぐにわかった。中央に据え付けられた装置だ。

 上が窄まった平行四辺形の、銀色の台座。その上に浮かび、仄かに燐光を放って回転する、これも同じ銀色の球体。

 現実離れした光景に、思わずカメラを構え、シャッターを切る。写っていたのは、私の目で見ているそれと、まったく同じものだった。


 突然、脳に不快な刺激が走り、モザイク状の記憶が像を為す。頭が割れるように痛む。断片的な記憶の点が、全て線で結ばれる。そうだ。私は、ここで。

 ひどい悔恨が、胃液を押し上げる。嫌だ。でも、確かめないと。

 嘔吐を堪えながら、私はカメラを持った腕を、震わせながら伸ばす。レンズを自分に向けて。

 シャッターを切る。カシャ、と音が鳴る。ボタンを押して、写真を確認した。そこに写っていたのは、初めに思い出した、あの顔。


 そうか、あれは、恐怖と後悔で、歪んだ顔だったんだ。私を突き動かしていた憎悪、その殺意が向かう先を理解する。それは形容しがたい、強烈な罪悪感となって、私を襲う。堪えきれず、吐き出した。

 びちゃびちゃという水っぽい音が、ドーム状の部屋に反響する。私は記憶を取り戻す。―――


 ―――私が『機械』の研究室に異動となったのは、世界が経験した初めての「侵食」から、半年ほど経った頃だったように思う。

 案内された地下ドーム内に安置されていたのは、銀色の台座と、その上に載せられた二メートルほどの銀色の球体。私に与えられたのは二人の部下と、この機械の起動及び操作手順の調査という仕事だ。

 全体的につるりと磨かれていて、およそどういった装置かわからないこれについて、伝えられた情報はあまり多くなかった。材質や来歴は秘匿情報。ひとつ教えてもらった重要事項は、これが『願いを叶える機械』だということだ。ロマンチストな私の上司は、『カミサマの揺りかご』とも言っていた。

 異世界の祭具かと思うような奇妙な外見に反して、台座のポートを開けた先に臨んだものは、真っ当な電子基板だった。見たことのない部品や謎めいたブラックボックスこそあったが、順番に精査すれば、それらの役割も朧気にはわかってきた。


 やがて起動方法については、おおよその検討がついた。小さな願いだけど、試験も成功だった。動作原理も、機構も、エネルギーの源すらも、わからないままに。

 切羽詰まっていた、と言えば、果たして赦してくれるのだろうか。ともあれ、機械を動かす力を、私たちは不完全ながら習得したのだ。


 解明を目指し、研究は継続された。しかし当然ながら、侵食は、私たちの都合に配慮してはくれない。ついにそれは、日本列島上空にも発生したのだ。


 その日は祝日だった。朝の穏やかな空気を裂いて、防災スピーカーが大音量で鳴り響く。慌ててテレビをつけると、今まさに、黒い半透明のゲル体が空の裂け目から降り注ぐ様子が、中継されていた。

 緊迫する画面の中、それは街を呑み込み、吸収してゆく。日本の大きさであれば、侵食が終わるまでは三日間ほどだろうか。まして、発生源に近い、この場所では。

 もう、猶予は残されていなかった。これまで、侵食に抵抗できた地域は無い。どこも例外なく、食べ尽くされてしまった。私は窓の外を見遣る。自棄になった人々で、既に外の治安は荒れ始めていた。

 『機械』を起動するしかない。私は急いで作業着に着替えながら、プランを考える。外を歩くのは危険だ。そもそもこの状況では、電車が動いているとも思えない。得意ではないけれど、車なら、多少は安全に移動できるだろうか。

 私はキーケースをポケットに突っ込む。振り向くと、部屋の入口に春香が立っていた。常日頃の元気な表情は鳴りを潜め、肌を青白くして、震えていた。


「どこか、いくの......?最期は、いっしょに居ようよ......」

 春香は涙声で、私に縋りつく。私は春香を強く抱きしめて、言った。

「大丈夫。必ず、助けるから。信じて」

 私は抱擁を緩めると、右手で春香の顔を上向かせ、すこし屈んでキスをした。髪を撫でる。少しだけ、気持ちが落ち着いた。


「わからないけど、わかった」

 春香はそう言って、唇を固く結ぶ。私は靴を履き、春香に言った。

「外は危なそうだから。私が出たら、すぐ鍵を閉めて」

 春香が頷く。私は階段を駆け下りると、慣れない車のエンジンをかけ、アクセルを強く踏み込んだ。


 街は混沌としていた。縫うように車を走らせるが、時々、壁や他の車に擦ってしまう。

 でも、申し訳ないけれど構っている余裕はない。響き渡るクラクションを背に、心の中で謝りながら、私は地下ドームへと向かった。


 私は急ぎ、地下へと降りた。既に数人の同僚が、処分覚悟で作業を始めていた。私も、自らの持ち場に入る。私は配線のプラグを繋ぎながら、周囲を確かめた。

 それぞれの担当は、最低限揃っている。上司は来ていなかった。そして、現在、いちばん権限を持っているのは、私のようだ。


 指示を出しながら、作業を進める。一時間ほどで準備が整った。今ごろ地上はどうなっているのだろうか。ここに至って、待つつもりは無かった。

「起動するよ!離れて!」

 私は叫び、銀の台座のパネルを操作する。一瞬だけ甲高い音が響き、銀の球体が仄かに発光を始めた。

 球体から、声が聞こえる。小さな女の子のような、儚い声。

「あなたは、何を望むの?」


 私は答えた。

「侵食を、止めてほしい。あれを、全部!この世から消し去って!」

 球体は、私の祈りに応えるように強く光り、そして浮かびあがった。

 球体が横回転を始める。何かが、始まった。私は息を吞んで見守る。時間の経過と共に、その速度はだんだんと上昇し、光も、同様に強度を増してゆく。


「あ゙あ゙アあ゙アァッ!」

 突如、背後から大音量の悲鳴が聞こえた。反射的に振り返る。その声の主は、同僚の一人だった。床に倒れて激しく痙攣している。駆け寄ろうとして、躊躇した。

 その皮膚は瞬く間に萎びて体積を減らし、茶色に変色していった。体中から、奇怪な半透明の煙が立ち上っている。

 私は、硬直したままに経過を見つめる。彼は数十秒で動かなくなった。

 そして、悲鳴が連鎖する。


 銀の球体は更に速度を増し、回り続ける。閃光がドーム中を強烈に照らし、濃いシルエットを投影する。

 悲鳴が響き続ける。私は半狂乱で台座のパネルを弄った。何も、反応はなかった。台座の鏡面に映る醜い顔が、私の罪悪感を増幅する。私は耳を塞ぎ、床にうずくまった。


 どれだけの時間が経ったのだろうか。気が付けば、悲鳴は止まっていた。いつの間にか銀の球体の活動は落ち着いて、仄かな燐光を放ちながらゆっくりと回転するだけになっていた。

 地下ドームに残っていたのは私だけだった。十人ほどいたはずの同僚達は皆、焦げ茶色の何かへと変わっていた。私は覚束ない意識のまま、地上へと這い上がる。

 あちこちから火の手が上がっていた。無数の車が衝突し、炎上している。私の車も巻き込まれていた。

 その惨状とは裏腹に、世界は不気味なほどに静かで、私の耳に入ってくるのは、炎と風の音だけだった。私はアパートに向けて、歩き出した。


 一切の生き物の気配がしない、無機質に乾ききった街。干からびた何かは、大小さまざまに、たくさん転がっていた。私は努めて、焦点を合わせずに歩いた。

 アパートの扉にたどり着く。ドアノブを回すと、鍵がかかっていた。自宅の鍵を、ポケットから取り出す。差し込もうとして手が震え、何度も取り落とした。

 ガチャリと音を立てて、扉が開く。ただいま、と言おうとしたが、声が出なかった。ダイニング、誰もいない。春香の部屋、誰もいない。寝室も、誰もいない。あとは、私の部屋。


 部屋に入ると、中央に、毛布がこんもりと置かれていた。中に誰かが包まっているかのように。心拍数が上がり、息が詰まる。

 震える手で、毛布の端を掴む。ゆっくりと引き剥がした。中から出てきたのは、もう見慣れた、焦げ茶色の干からびたモノ。それは、春香の服を着ていた。


 ふらつく足でアパートを出る。口元の吐瀉物を袖で拭う。階段を、中ほどから転げ落ちた。全身が痛む。空っぽになった胃が、それでも何かを吐き出そうとし、何度もえずく。

 ふと、正面に立つ存在に気が付く。汚れた口元もそのままに、顔を上げた。綺麗な顔立ちの少女だ。その子が、口を開く。

「大丈夫?」

 透き通るような音。聞き覚えがあった。『機械』を起動した時に聞こえた、あの声。思わず口を衝く。

「あなたが、『カミサマ』......?」


 少女は悩むように、少し黙ってから、答えた。

「そう呼ばれたこともあるけれど、そんなにステキなものじゃないよ」

 少女は続ける。

「でも、あなたのお願いを叶えることはできる。もうあまり残っていないから、些細なことだけ」

 少女は私の前にしゃがみ込み、悲しげに微笑んだ。


 私の願いなんて決まっている。私は声を絞り出した。

「私たちの暮らしを、返してほしい。こんなの、ひどいよ......」

 八つ当たりじみて少女に縋る。分かってはいる。機械を稼働させたのも、お願いをしたのも、私だ。私の無知のせいだ。けれどもそれは、ひとりが背負い込むには、あまりにも重すぎる。


 少女は困った顔を浮かべながらも、優しい声で話す。

「叶えてあげたいけど、私の中にあるのは、さっきの余りだけ。ヒトでいうなら半分くらい。もともとのじゃ、足りなくて、もう、あなた以外のは、全部貰っちゃったから......」

 話しながら、少女は膝をつき、その細腕で私を抱きしめた。彼女は耳元で囁く。

「ごめんね。だから、私のできる範囲で、どうか、あなたに幸せを......」

 少女が、暖かく発光する。私の意識は薄れていった。―――


 ―――記憶に塗りつぶされていた視界が、現実に戻る。コンクリート造りの半球ドーム。そう、すべて、もう終わっていたんだ。失意で膝が崩れ落ちる。私はしばらくの間、呆然とへたり込んだ。


 右手の、カメラの重みを感じる。ぼんやりとした意識のまま、再生ボタンを押した。壊してしまった現実の風景が、映し出される。

 恐怖に歪んだ私の顔。浮遊し、回転する銀の球体。たくさんの亡骸で溢れる繁華街。駅前のスクランブル交差点、少女が踊っている。ひび割れたスマートフォン。動いていない電車。誰もいないホーム。乾ききった、アパート前の通り。そして、私たちの部屋。

 混ぜこぜになった感情が込み上がり、嗚咽と共に、口からあふれ出る。何度も、何度も。

 私は胃液に塗れた口元を拭い、ふと、気が付く。続きがある。


 表示されたのは、メモリーカードに遺された、かつての記録。それは、カメラを買ってからしまい込むまでの、短い期間のものだ。

 それらの写真は、明るすぎるものも、暗すぎるものも。ピントがズレているものもあるし、構図もイマイチ。でもそれ以上に、かけがえのない、大切な日々の思い出だった。

 そこには、春香が写っていた。今日の朝に見たよりも、ずっと素敵な笑顔で、私に微笑みかけていた。

 涙がにじみ、画像がぼやける。私が守りたかった、私が奪った、大事な春香。私は繰り返し、在りし日の想い出を見返した。愛しい姿を、焼き付ける。やがて、カメラのバッテリーが、切れた。


 真っ暗になった背面液晶から目を離し、顔を上げる。いつの間にか、回転する銀の球体の脇に、あの少女が立っていた。

 少女が口を開く。

「また、お願いにきたの?」

 静謐の空間に、綺麗な声が反響する。責めにも赦しにも聞こえる、不思議な音色。

 罪悪感がこみ上げ、自罰感情が膨らむ。だけど、この気持ちも、今だけは味方だ。少女は続けた。

「叶えてあげられるけど、もうあまり残っていないから、些細なことだけ」


 気を抜けば押し潰されそうな、ぐちゃぐちゃの思考の中で、答えを探した。私の願い、譲れない身勝手な想いが、ただひとつ。私は覚悟を決める。

「叶えてほしい願いがある」


 怖い。こんな結末は、私は嫌だ。でも、数式は単純で、残酷だ。だからこそ、これが唯一の可能性だと、思う。

 ごめんね、春香。これは、私のわがままだから。

 私は歩み寄り、跪いて、少女に願った。



 電子レンジがピーッと、機嫌の良い音を響かせる。フライパンのオムレツも、丁度よく出来上がった。パンの焼けるにおいが香ばしい。準備万端。でも、紗花はまだ起きてこない。私は忍び足で、ベッドへと向かった。

 顔を覗き込むように見下ろし、やさしく肩を揺する。紗花が薄目を開けた。声をかける。

「おはよっ!ごはん、できてるよ!」

紗花は眼をこすりながら、むくりと起き上がった。

「おはよう」


 紗花の顔を見て、声を聴いて、不意に、不可解な感傷がよぎる。思わず、抱き寄せた。

 紗花が、照れと困惑が混じり合った声色で言う。

「どうしたの、春香。何か、あった......?」


 腕に少しだけ力を込め、感触を確かめる。紗花の胸に頭を埋めて呟いた。

「もうちょっとだけ......」

 何故そうしたくなったのか、私自身わからなかった。いつも通り、何も変わらない朝のはずなのに。


 紗花は何も言わず、ただ抱きしめ返してくれた。伝わる体温が心地良い。

 しばらくして、顔を上げた。紗花が微笑む。

「元気、出た?」

 私は頷いて、立ち上がった。

「だいじょうぶ!それじゃ、今日は洋食ですので!」

 私はそれだけ告げて、部屋を出る。すぐ行くね、と紗花の返事が聞こえた。


 紗花と向かい合わせに座り、朝ごはんを食べる。暖かい食事、何気ない会話。特筆すべきこともない幸せな日常。

 二人で片づけを済ませて、出勤。紗花のほうが少し早いので、お見送りだ。靴を履きながら、紗花が思い出したように言う。

「今日は早めに、四時前にはあがれそうだから、帰りにお店に寄るね」

 それを聞いて、気分に張りが出る。

「おおっ!じゃあ、待ってるから!」

 私はそう言って、手を振る。紗花はいつものように、少しかがんでキスをしてくれた。毎朝のことだけど、まだちょっと、頬が熱くなる。


 玄関を出て、歩いてゆく紗花の背中を眺める。通りに面したアパートの二階。心地良い日差しと、鳥の鳴き声。行き交う車。少し肌寒いけれど、気持ちの良い朝。

 道路を挟んだ向かい側、ふと、こちらを見上げる少女に気が付く。少しの間、視線が合った。

 ぼんやりと見つめる私をよそに、少女はふいと顔を背け、歩き出す。その後ろ姿は、やがて人混みに紛れ、見えなくなった。


【終】

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