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痴 漢 「 環 境 」 論 【5/6】

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 電車から降りる人の波が途絶えるまで、わたしは自分の左手首を握って電車から引きずり下ろした人間の持ち主の顔を、見ることができなかった。

 人はどんどん、わたしたちを残してホームから改札へ続く階段へと流れ込んでいく。

 常にホームにはやかましいほどアナウンスが流れ、街の喧騒がわんわんと頭の中に響く。

 わたしはさっきまで自分の身に起こっていたこと、そしていま自分の身に起こっていることに対して、現実感を掴めないままでいた。
 
 満員電車の中で痴漢に弄り回されて、感じちゃって、いきそうになって、今はその痴漢に手を掴まれている……?

……なんなんだ、このエロ小説みたいな展開は。


 もうじき痴漢はわたしの耳に唇を寄せ……きっとその顎の無精ひげがわたしの頬をちくちくと刺すはずだ……こんなふうに囁くに違いない。

『……ずいぶんと感じてたじゃねえか……ええ? ……これからどっかで、この続きをしねえかい?』

 とかなんとか。
 そうなると、わたしはどうなるのだろう。

 今は精神と肉体が一致した状態で、思いきりこのエロ小説的な世界に囚われて、抜け出せないでいる。

 わたしはその要求をちゃんと撥ねつけることができるのか……?

……このまま会社を休んで、行きずりの男と朝からラブホテルとか、多目的トイレとか、人気のない駐輪場とか、そ ういうところに痴漢に言われるままに連れ込まれてしまうのか?

……そこで痴漢に改めて責められて、いやらしい言葉を投げかけられて、服を一枚一枚剥がされて……そ して屈辱的な体位で……『わたしは痴漢で喜ぶ変態女です。奥までそのぶっといのぶちこんでください』とか言わされて……。

 と、わたしの手を掴んでいた男が、急に手を放した。

「だ、大丈夫ですか……?」

「……え」

 男の顔を見上げた。
 思っていたよりもずっと若く、背が高く、皺のないグレーのスーツを着た男だった。

 狭い肩幅の上に細くて長い首と、小さな顔……どこか小動物を思わせる、人畜無害な顔が乗っている。

「……あの……さっき……痴漢に遭われてましたよね?」

「……え……あの……はい」

なんだ。
なんなんだこの展開は。

「すみません……途中で止めに入ろうかと思ったんですけど……あの人ごみですし……あなたにも迷惑が掛かっちゃいけないと思って……それで、この駅であなたを連れ出したんです」

 その青年は……ひょっとしてわたしより年下かも知れない……心配そうに背をかがめてわたしの顔を覗き込んだ。

「会社……この駅ですよね」

「へっ?」

「……いや、ずっと……すみません、なんかへんな形になっちゃって……ずっとあなたのことを見てたんです……通勤時間に、いつも目を閉じて、音楽を聴きながら瞑想でもしてるみたいに……満員電車の中で立っているあなたを……」

「……あの……」

「……あの……もしよかったら……」青年は言った。「今からはお互い、会社ですので無理ですけれど……今晩かそれ以外の日でも結構です……一緒にどこかで……お食事でもしませんか?」

「ええと……」

「かわいそうに……こんなにキレイな人は、大変ですね。よく痴漢に狙われるんでしょ?」

「えっ……」

 と、青年の手がわたしの顔に伸びてきて……わたしの頬に触れようとした。

 わたしは一瞬のまどろみから一瞬で現実に帰って、その青年の手を両手でがしっと掴み、人差し指の匂いを嗅いだ。

 確信した。

「……え、ちょっと!」青年は慌てた声を出す。「何するんですか?」

「『何するんですか』じゃねえよ!」

 わたしは身体を反転させて反動をつけ、通勤用の布製トートバック(お弁当とお茶が入ったステンレスの水筒入り)を、一気に青年の顔に叩きつけた。

「ぎゃっ!!」

 青年は……いやその痴漢は……バタッとホームに倒れ込む。

「何が『痴漢されてませんでしたか』だよ! ……痴漢してたの、テメエじゃねえかよ!」
 

 倒れた青年……じゃなくて痴漢を、わたしはバッグで叩きのめし、サンダルのヒールで踏みつけ続けた。

「わっ……痛っ……やめっ……ひっ……ちょっと……マジ痛い……やめっ……」

 痴漢がなんだかんだと情けない声を上げたが、わたしは耳を貸さなかった。

 鼻血を流し、頭を抱えてうずくまっている痴漢にさらにバッグでの打撃と蹴りで絶え間ない攻撃を加えながら、わたしは思いのたけをぶちまけた。

「なにが、『良かったら食事でもどう』だよ! ……てめえら痴漢なんか、わたしにしてみりゃ『環境』の一部なんだよ! てめえらには意思も心もねえんだよ!  わたしを取り囲む肉の壁でしかねえんだよ! ……それが、なんだあ?……『良かったら食事でもどう』だああ? ……ふざけんじゃねえ! てめえらなんか、『環境』の一部なんだよ! 地球温暖化、生ゴミの腐った匂い、風に乗って飛んでくる花粉、公害、放射線、水道を捻ったら出てくるマズイ水、そんなのとお前ら痴漢は 一緒なんだよ! ……単なる不快な『環境』の一部なんだよ! ……いっちょまえに意思もってるフリなんかすんじゃねえ! ……てめえらは、一個の人間ですらねえんだよ!」

 ……どこまでが本当に口にしたことなのか、頭の中で言ったことなのかわからない。

 気が付くとグレーのスーツを着た若い痴漢は、半泣きでホームにうずくまっていた。

「……ごめんなさい……ごめんなさい……もうしません……ごめんなさい……」

 何か捨て台詞を残してやろうかと思ったが、気の利いた言葉が思い浮かばないので、わたしは踵を返して改札へ続く階段まで歩き出した。

 サンダルの踵を盛大に鳴らしながら。

 やっぱり、痴漢は『環境』にすぎない。
 
 わたしは会社に着くとまず、スマホをパソコンに繋いで充電しよう、と心に決めた。

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