モノを書くということ

一軒家を家賃1万円で貸してくれるところがあるという。これは最近のぼくのトピックス。東京に住所も住民票もおいたままなのだが(東京にぼくの家があり、家賃もまだ払いつづけている。とにかく引越すだけの時間がなかったのだ!)、そろそろ沖縄に籍を移してもいいのではないか、とこの話をもらって思い始めた。今回沖縄へ来たのはほとんど「勢い」だったので、引越に伴う手続きは何も行っていない。いまの工房生活にほとんど不満はないが(小説を書く時間さえ取れれば何の問題もない)、沖縄に根を張るためには沖縄にぼくの住所があった方がいいだろうと感じている。このことは屋我に相談しようと思う。


あなたはモノを表現することでより今以上に輝いていくわよ、と占い師(ぼくの従姉)に言われたことが屋我の心に残っているらしい。ぼくと一緒で「占いの類は信じない」と言い張るが、意外と繊細なところがあり、そのことが気になっていたようだ。彼はぼくと同じ時期にトンボ玉を始めたが、ぼくがニラカナちゃんを「産んでいる」間に、随分差をつけている。彼の作るトンボ玉はとても精緻で芸術的。またそれを苦しんで生み出しているというよりは表現することを楽しんでいるという感じがする。「社長」なのだが、社長業以上にこのことに随分ハマっている感じがする。


社長である彼がそんな感じであるように、我が工房は「職人」というよりも「アーティスト」の集まりになっている。他に多く見られる琉球ガラス工房と一番違うところはその部分で、作品に独創性があり、多くのものにストーリーがある。

工房で一番のヒット商品となりそうなものが「マース(塩)玉」。沖縄では、塩(マース)はシーサーと同じように魔除けの意味を持つ。この、「ガラスの中に塩をとじこめる」という誰も考え付かないようなことを誰とはなしに思いつき作り始めたものがある大手会社の目にとまった。既に特許、商標関連のものは出願している。手前味噌だが、ニラカナちゃんもまた特許管理士の目にとまった。

技術は大前提として「アイディアとストーリーで勝負する」のが我が工房のスタイルだな、と感じている。それは注文を受けたものを作るという「職人」ではなく、こちら側から何かを発信していくという「アーティスト」のスタイルなのではないかと思っている。なんにしても、「毎日が創造」の世界だ。そこで飛び交う言葉も刺激的だし、味わい深い。


筆を握る仕事から離れまいと細々とつづけているライターの仕事は上記の立てわけで言うと「職人」の範疇になり、こちらが何かを伝えたいと思い書いてく小説は「アーティスト」の部類に入ると思う。ぼくの意識の中で、小説を書こうという人間はかくあるべき、ということをこの工房生活で学んできているように思うし、また自身、ニラカナちゃんを生み出していくことで共通するものを感じている。

「すでにそこそこの賞をとっているのだから、まあ、それで充分だと俺は思うんだけれども、お前がそれにむけて書きたいというのなら書いた方がいいだろう。沖縄に根を張るためにも沖縄の文学賞はとっていて損はないと思う。だけどね、受賞するくらいのレベルになったら、あとで支持されるかどうかは、結局のところ、作品そのものの魅力もさることながら、書き手のバックボーン--生き様が大きく左右すると思うんだよな」
と屋我は言う。

ガラスも、小説もいきつくところは生き様--人間に帰結する。そんなことを思っている今日この頃である。

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