見出し画像

ストロベリーフィールド:第二十幕 偽物(フェイク)

目覚めた時、ハンナはあの身体の重さ、けだるさがすっかり消えていることに安堵した。

屋根裏部屋を改装して作られた部屋は寒かった。
窓から刺す光は、弱く、部屋全体が薄暗い。

一瞬、身震いしてから、ハンナはベッドにかけてあったショールを引っ張りあげて肩にかけた。

恐る恐るつま先を上下に動かしてみたが、痛みもなく、普通に足の指まで、しっかり動いている。

少し前まで、夢なのかどうかもわからない世界でハンナの身体は鉛のように重かった。一歩踏み出すことさえ辛かった脚は、それが嘘だったかのように今は軽い。

腕を動かし、手のひらを何度か握ったり開いたりして、身体がしっかり動くことを確認してから、ベッドから降りる。

ハンナの足の裏に、ひんやりした感覚が伝わった。

夢……じゃない。

ハンナは、その場で何度か足踏みをした。その脚はやはり軽やかに動く。

とても重い体を引きずって家まで戻ってきた記憶を手繰り、ハンナはあの、レオの誕生会の夜のことを思い出した。

レオ……。パトラ婆さま……。

レオの誕生会の日の記憶が、ハンナの頭の中で交錯する。
ついさっきまで夢か現実か分からない世界で漂っていた記憶は、ハンナの頭から消え去ろうとしていた。

現実世界の《今》と《過去》が、記憶を上書きしていく。

身支度もそこそこに、ハンナは階下へと降りて行った。

階下には誰もいなかった。
テーブルの上には朝食の丸いパンと共に、便箋が置いてあるのがハンナの目に入った。

西の国の文字だ。

ハンナのママは、都合が悪いときにはこうやって暗号のような西の国の文字でメモを書く癖があった。おかげでハンナはその文字がすっかり読めるようになっている。

《パトラばあ様のところに行きます。日暮れまでには戻ります。無理しないで学校はまだ休むように》

ハンナは、あれからどうなったのか、パトラ婆さまは何をしたのかを懸命に思い出そうとしたのだが、思い出そうとすると記憶が混乱し始め、軽い頭痛に襲われた。

こめかみを押さえながら、ハンナは目を閉じた。

『沢山のことが一度に頭に押し寄せたら、まず目を閉じなさい』 

小さな頃から頻繁に軽い頭痛があったハンナは、それが起こるたび、そう母から聞かされていた。

目を閉じ、ハンナは長い深呼吸をした。
教わった通り、いつものように、出来るだけ長く、息を吐き続ける。

『息を吐く方が大切よ』

この村に来るまでの途中、何度も何度も、繰り返しその呼吸を練習していたことをハンナは記憶している。

身体の中の何かが、どっと外に出ていくような感じがした後、ハンナの頭痛の波は引いていった。

あれから、どうなったんだろう……。ああ、そう言えば……。

どんなに記憶を手繰り寄せても、誕生会から逃げるように家へと戻った後の記憶がハンナにはなかった。

あの日、レオの誕生会で気分が悪くなり、ハンナは途中で誕生会を抜け出した。
屋敷の外でパトラに会った後、パトラに何かを言われ、その言いつけ通りに急いで家に戻った記憶がある。

家に戻った後、誕生会の様子を母に告げ、次の日の朝に一度目を覚ました事は覚えているが、その後から今までの記憶が、ハンナには全く無かった。

レオの誕生会の翌朝、ベッドで目覚めた時には、まだ全身が痺れたように、ハンナの身体は動かなかった。
呼吸することも苦しく、浅い呼吸を繰り返していたハンナの側には心配そうにハンナを見つめているハンナの母、ミチコがいた。

その時にも、ハンナのママはハンナに言った。

『息を吐きなさい。できるだけ長く』

そうして深い呼吸を何度か繰り返した後、なんとかベッドから重い身体を起こしたハンナに、ハンナのママはカップに薬草入りの温かいお湯を入れて、手渡した。

ハンナのママ手作りの薬草湯は、ハンナが大好きな飲み物だ。
ほんのり甘い、けれど爽やかな柑橘の香りがする。

残念ながら、身体の具合の悪い時にしか飲ませてもらえないので、ハンナは幼い頃、よく嘘をついて飲ませてもらおうとしていたのだが、いつも、その嘘はバレてしまい、結局、飲ませてもらうことはできなかった。

ここ、フラワーバレーに来てからは、パトラと精霊たちとの約束で、ハンナはそんな嘘は付かなくなった。

どうしても、指輪に光る宝石が欲しかったせいもあるが、いつも精霊や虫が見ていて、すぐに告げ口されることが分かっていたからだ。

嬉しそうに薬草湯を飲むハンナの姿を確認してから、ハンナのママ、ミチコは、誕生会の夜に何があったかをハンナに話してくれた。
今朝の新聞に載っていた内容だから、事実かどうかはわからないけれど、と言いながら。

レオの誕生会で特大ケーキが披露され、電気を消し皆で歌を歌う中、レオが蝋燭を吹き消してケーキカットの予定だった。
が、何故かいつまでも電気が付かず、ざわつきだした来客の周りで、突然、パンと乾いた音が何度もして、銃声だと大騒ぎになったらしい。

人が重なるように玄関から飛び出し、押しつぶされ怪我をした人たちが大勢いて、かなりの数の人が入院したらしかった。

「ボバリー伯爵が、恨まれたり命を狙われたりするようなことをしている、ってことを多くの人が思っていたってことね。ああハンナ、とにかくあなたが無事でよかった」

ハンナが薬草湯を飲み終え、再び眠りに落ちる直前、ハンナの母親はもう少し休みなさいねと言い残して、部屋を出ていった。

ハンナの記憶は、そこで途絶えている。

それよりも、ついさっきまで目にしていた映像の方がまだ記憶にうっすらと残っているくらいだ。

あれ、夢だったのかな。
ずっと寝てたのかな。
とても沢山の夢を見たような気がする……。

ハンナは丸いパンを頬張りながら、テーブルの上を見た。

ハンナの母は、どうやらかなり慌てて出かけたらしい。
新聞は、広げられたままで、綺麗に重ねられてさえいなかった。

新聞の文字はまだハンナには難しいものもあったが、ハンナはそこにある写真に目が釘づけになった。
おそらく、会場でレオの記念写真を撮ろうとしていた人が、混乱の中で撮影したものだ。

ハンナが驚きのあまり思わず握り締めたパンからは、大量のジャムが流れ出た。喉を詰めそうになりながら、それに構わず新聞を手繰り寄せ、その記事をハンナは見た。

そこには《誕生会の大惨事》、《折り重なる人々》、《銃声と聞き違え》、《消えた指輪》といった言葉が躍っている。

『地下室のブレーカーを意図的に落とした可能性があり、ゴム風船だけのはずだった風船の中にあったアルミ風船が、屋敷外の電線に触れショートしたのが原因と思われる』というような内容が記されている。

ハンナは、言葉が出てこなかった。
同じような話をママから聞いてはいたが、話に聞くのと、実際に目にするのとでは衝撃の度合いが違いすぎた。

暗闇の中で、あれだけの人数があの玄関ホールに殺到したら、いくら大きな玄関とは言え、とんでもないことになったことだろう。

ハンナの目に最初に飛び込んできた写真は、一面を飾っていた写真だった。

それは、せっかくのハンナ母から贈られたプレゼントの花々が、踏みつけられ、粉々になった花瓶と共に玄関ホールに飛び散っている写真だった。
その花々の痛々しさ加減が、その時間の悲惨さをより一層強く印象付けている。

ハンナは、怪我をした人たちのことを思い、自分だけがうまく事故の前にお屋敷を離れた幸運に感謝した、と同時に、胸が痛んだ。

食事を済ませて自分の部屋へ戻ると、ハンナは誕生会で見たあのレオの薄ら笑いを思い出した。思い出すだけで寒気のする笑顔だった。

窓の外にいつも何かしらハンナを気遣ってやって来ていた虫たちの姿は、今日は一匹も見えない。

村全体が灰色で、まるで全く違う村になってしまったみたい……。

手早く着替えを済ませると、ハンナは、《ママの言う通り、今日はゆっくり休もうか》と、一瞬迷ってから、やはり学校へ行こうといつもの道を歩き始めた。皆が無事なのかが気になったのだ。

村は、いつもの雰囲気とは違ってどことなく慌ただしい様子を見せている。立ち止まって会話をしている人たちからは、皆一様に、ボバリー家の事件について語っている声が聞こえていた。

ハンナが図書館の前を通り過ぎた辺りで、マルグリットの後ろ姿が目に入ったので、ハンナは思わず駆け寄り、小さく声をかけた。

「おはよう、マルグリット。大変だったね。怪我とかしなかった?」

「あなた無事だったのね。良かった。あの日、声かけられなくてごめんね。それにしても酷い一日だった」

マルグリットの顔に、いつものような笑顔はなく、その表情は深んでいる。

「ニーナ、大丈夫かな……。マルグリット、何か様子聞いてる?」

「……あの子、変なんだよね」

「変って?」

「怪我はなかったんだけどさ、様子が変わっちゃってて」

「事故のせい?」

「事故が原因の一部ではあるとは思うんだけど……」

マルグリットが、あまり話したくない、という雰囲気で口をつぐんだので、ハンナもそれ以上は聞かなかった。
マルグリットとの友人としての正しい距離感を壊したくなかったからだ。

しばらく無言で並んで学校に向かって歩いていると、遠くに大きなバルーンスカートの後姿が見えた。いつもマルグリットに急かされて一緒に学校へ向かっていたニーナが、誰よりも早く学校に向かっている。
そのことにハンナは驚いた。

「ねえ、マルグリッド……また、ニーナと喧嘩でもしたの?」

ハンナが横を向いてマルグリットに話しかけた時には、マルグリットが駆け出した後だったので、その質問の答えはハンナは聞けなかった。

前方には、もうニーナに追いつこうとしているマルグリットの姿が見える。

マルグリットがニーナに声をかけた途端、ふたりがいつものように、いや、いつもとは比べ物にならない大声で喧嘩を始めたせいで、ハンナは、驚きのあまり、ふたりから少し離れたところで足を止めた。

ふたりの様子がいつもと違っていたことがふたつあった。ひとつはニーナが大きな叫び声だったことで、もうひとつは、マルグリットが本気で怒っていて、いつものような皮肉めいた笑顔も見せていないことだ。

ハンナがふたりに駆け寄ろうとするよりも先に、ニーナのほうがハンナに気づき、ハンナに向かって走ってきた。
そしてハンナの目の前まで来ると、真っ赤な目をしてハンナを睨み付けた。

ハンナの知っているニーナではない。まるで別人のようだ。

「……あ、ニーナ……怪我は? 大丈夫だっ……」

しばらく唇を噛んでハンナを睨みつけていたニーナは、突然発狂するような声を上げた。

「大丈夫? ですって? はぁ?」

「あ、あの、大変だったね。怪我とかしてない……」

「大変だった? 他人事みたいな言い草じゃない? 演技上手ねぇ!」

「ニーナ……」

「ハンナ、あの日、先に帰ったよね。風船飛ばしたの、あんたじゃないの?」

ハンナは何を言われているのか、分からなかった。ニーナは見たこともないような怖い表情で、ハンナのことを睨み続けている。

「いい加減にしな、ニーナ」

マルグリットがニーナの後ろからゆっくり近づいてくる。
ニーナは同じ眼差しのまま、ハンナに向かって凝視していた眼をゆっくりと今度はマルグリットへ向けた。

「弟のことを悪くいう奴とは、口を利きたくないって言ったでしょ」

「悪くって……。だから、私は、事実を……」

「あんたたち、ふたりとも大っ嫌い! どうせ、裕福なうちが羨ましかったんでしょう? ひがみ根性もいい加減にしてほしいわ。
ほんっと、身元の知れないよその国から来た貧乏人はたちが悪いって、お父様の言うことは、やっぱり正しかったわ。
こんなことになるなら、よそ者なんかに優しくするんじゃあなかったわ」

「ニーナ! やめなっ! それ以上、ハンナのことをそんな風に言うなら……」

「言うなら? 何よ? 最初に会った時、よそ者なんか信用できるかどうかわかんないって言ってたじゃない! こちらから話しかけて、どんなやつか様子探ろうって言いだしたの、マルグリットの方じゃない!」

「何年前の話してんのよ。ずっと見てたんだから判るでしょ? ハンナが、そんなことするわけないって!」

「分かるもんですか! あの日、花束を持ってこられたなんて、怪しすぎるわよ。おまけに騒ぎの直前に姿をくらますなんて!
せっかくの弟の晴れの日を台無しにして、可哀そうな弟は新聞にひどいことまで書かれて恥さらしになって。指輪は弟に贈呈されなかったって疑うような記事まで出るし……」

そこまで言うと、ニーナは、唇を噛んで、ハンナの前に仁王立ちになった。
そうして右手の人差し指をハンナの顔の前で向かって降り、再び叫び始めた。

「ちゃんと贈呈されているわよ! すっごい立派なやつがね!
あんたみたいな貧乏人が持ってる指輪とは大違いのやつをね!
邪魔しに来たのに残念でした! 
まったくムカつくなんてもんじゃないわ! 絶対、コ・イ・ツが犯人よ!」

ニーナがハンナの顔の前に右手の人差し指をつき立てて止めた瞬間、バシッと冷たい音が鳴って、場が一瞬静まり返った。

ハンナは、何が起こっているのかを懸命に理解しようとしていたのだが、目の前にいる人物が、これまで自分が知っていた人間とあまりにも違いすぎて、情報量に頭がついていけなかった。

突然、大きな泣き声が聞こえて、ニーナが学校とは反対の方向へ走り去って行った。地面に散らばった教科書を涙目になったマルグリットが拾い上げているのを見て、ハンナはようやく状況を理解した。

さっきの音は、ニーナが脇に抱えていた本やノートの束を、マルグリットが手ではたき落とした音だったのだ。

この村では、何があっても、人に危害を加えたものは、《経験者》や《守り人》にはなれない。

短気なことで知られているマルグリットは、そのコントロールが自分の一番の課題だと自覚していた。いつも感情を押し殺してはいたが、今回は怒りに任せてあやうく出そうになった手をニーナの頬ではなく物にぶつけたのだ。

落ちたものを一緒に拾いあげながら、ハンナは自分の目から温かい液体があふれてくることに気が付いた。
たった今聞いた言葉の数々が、心の奥に突き刺さり、血を流す代わりに目から涙になって溢れ出ている。

《自分はよそ者で、信用できないと思われていた。いや、今もそう思われている……》

その事実を目の前に突き付けられたことは、これまで一度も無かった。
無かったのではない。分からないように、ニーナとマルグリットが見えなくしてくれていたのだろう。

ところが、現実はもっと残酷なものだった。この村に来て初めて話しかけてくれたと思っていたふたり、優しい友人だと思っていたふたりは、よそ者を《偵察》するために、意図的に近寄り、ハンナが信頼に値する人物かを毎日チェックしていただけだった。
ハンナが漠然と感じていたふたりとの距離感は、そのせいだったのかもしれない。

自分は、その距離感を友だちとしての礼儀だと勘違いしていたんだ。
毎朝、この道で二人に合えることが楽しみだった。
学校までの道を笑いながら、時にはパトラに叱られながら、三人で歩くのが大好きだった。

ハンナは胸が苦しくなり、ますます涙が止まらなくなった。

そんなのは、きっと、友達とは言わない……。

絶望的な気持ちで拾い上げたノートをハンナはマルグリットに手渡した。
その様子を見たマルグリットは、ハンナに声をかけようと一度口を開きかけたのだが、その口から言葉は出て来なかった。

ハンナからノートを受け取ると、ハンナの顔を見られないという様に横を向けて、マルグリットは呟いた。

「パトラばあ様、レオに指輪授与せずに帰ったと思うんだ……」

実際のところ、今のハンナにはレオの指輪が偽物かどうかなんて、もうどうでもよかった。ニーナの言葉が頭から離れなかったのだ。

今まで誰にも感じたことのなかった《怒り》という感情が、自分の中に芽生えるのをハンナは感じていた。

「ハンナ、さっきの話、ほんとごめん……」

絶対に先に謝らないマルグリットが、頭を深く下げている。

果たしてこれは本物の言葉だろうか。

ハンナは俯いたまま、肩を落とし、あふれる涙を拭うこともせず、来た道を戻り始めた。

「ハンナ……学校……行かないの?」

「この村は、偽物……」

やっとの思いで小さな声でそう言うと、ハンナは泣きじゃくりながら、身体にまとわりつく嫌な感情を全部振り払うかのように走り出した。

花のない村には灰色の空がどこまでも広がっている。

泣きながらハンナが図書館の前まで戻って来ると、図書館の前の掲示板に大きく貼ってあったストロベリーフィールドでの従業員募集ポスターの上に、《中止》と、赤い大きな文字が殴り書きされているのが見えた。

……あのストロベリーフィールドが消えたっていうのも、偽だ。

ハンナは、パトラが語っていた大切なことを、その瞬間、思い出した。

(第二十一幕へつづく)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?