冥道(ハザマ)の世界:第十三話 ハザマの世界 三日目
目覚めると百香の腰と肩には刺すような痛みが走った。
昨日緊張しすぎたのかもしれない……。
そう思いながら着物を着替えようと姿見を見て百香はぎょっとした。そこにはまぎれもなく、五十歳オーバーの顔が映っていたからだ。この肩と腰の痛みは歳を取ったせいなのだろうか。顔はママにそっくりだ。いやそれよりもずっと老けている。頬がこけ、たるんでいて、顔のかたちがより長くなったようだ。額にも横に三本のシワが刻まれていて、髪にはずいぶんと白髪が目立っている。
襖をあけて入って来たお局様は今日も新しい着物を持ってきていた。百香が昨日の着物に袖を通そうとしていたのを見て、百香のママそっくりのお局様は慌てたように言った。
「いや、もうその柄は若すぎて着られないでしょ。こっち着てくださいね」
渡された着物はくすんだ灰色の無地だ。今の自分が着ると本当に中年おばさんに見える。
ああ、こんな色、朝から気分が沈む。なんだか、これと似たような思いを一度経験した気がする。
何かを買ってもらった時だ。何だったか……。確か、黄色の……。
心字を読まれないようにと、お局様から離れ、百香は着物を着替えるため衝立の後ろに回ってから声をかけた。
「あの、みっつほどお願いがあるんですけど」
「はい?なんでしょうかね」
お局様の声はご機嫌な様子だ。百香が自分より老け込んだことがよほど嬉しいのか。
「あの、元のおばあさんに戻ってもらえますか。ママに見えるお局様よりも私の見た目が年上って、きついんで」
言い終わらないうちに、ママお局様は、腰がみるみる曲がり、初めて会った時のおはあさんに戻った。
「いじわるだねぇ」
「いや、あのごめんなさい。腰は痛くないようにまっすぐにして、百香と同じくらいの歳でお願いしたいなと……」
話している途中でまたもやおばあさんは変身し、百香と同じくらいの背格好になった。
「気が済んだ?」
「はい。すいませんでした」
この世界に慣れてきていて、もう百香は大抵のことには驚かなくなっている。お局様は、百香の肩と腰が痛いと言う言葉を聞いて、すぐにクチナシの軟膏を布に広げ、それを百香に張り付けた。
「これで動きやすくなりますよ。さて、消化の良いおかゆをいかが。歳をとるとすぐに胃もたれしちゃうし、太りやすくなるから一日一食でちょうどいいのだけれども」
お局様は、美味しそうな梅粥とゴマ豆腐のお膳を百香の目の前に置いた。
若くないから、お粥? 胃もたれって何?
お局様がくすくすと笑っている。やはりそう言うことかと思いながら、記憶から消えかけていたものについて百香は質問をした。
「毎日ありがとうございます。ところで、一昨日私がここに来た日に、何か持っていなかったでしょうか? 多分、黄色い何か……」
「さぁ、見なかったですね。ああ、もしかしたら主様が知っているかもしれませんねぇ」
それならば、ぜひ主様に一度会いたいと言ってみたいのだけれど、と百香が伝えても、さぁどうでしょうねぇ、と、お局様にまた答えをはぐらかされた。
「今日も見学はボッコにお願いしましたからね」
百香は小さくため息をついた。
一体どうやったら、この屋敷から出ることができるのだろう。昨日も何のヒントも掴めなかったし、でも、全部の部屋を観ればきっと何か……。
今日は暑くなりそうですねなどと、お局様が気もそぞろな百香に天気の話をし始めた時、ボッコ姉さんがやって来た。
ボッコ姉さんは部屋に入るなり暫く辺りをきょろきょろ見回していた。実際、百香とボッコ姉さんは目が何度か合っていたのだが、ボッコ姉さんは、何度も辺りを見渡し続けていた。中年になったお局様と、すっかり老け込んだ百香のふたりが背中を丸めて会話している様子見て、ボッコ姉さんが怪訝な表情になっているのが百香には分かった。
百香が手を振ると、ボッコ姉さんはようやく理解したのか、暫くその場に立ちつくしたまま口を開けて立ちつくしていた。が、我に返ると、何事もなかったかのように、すっかり年老いた姿に変わっていたお局ににこやかに近寄ってきて、標準語で話しかけながら会釈をした。
「おはようございます。お局様」
美加ちゃんとあやちゃんとの三人で津曲先生の出待ちをした夜のことが、百香の脳裏で弾けた。
あの時もあやちゃん口開けてた気がするなぁ。
色々なことを忘れていくのに忘れないこともあるんだな……。
「ボッコ、あなた、私がずいぶん老けたなと思ったんでしょう」
お局様が、ボッコ姉さんを軽く睨みつける。
「いえ、そんな」
「大人になった妖怪は、本心が頭の上に出なくなるから厄介よねぇ。じゃ、この子を宜しくね。この子って言ってももうちょっとしたら私より年上になるんだけれども」
ほーっほっほっ! そう高らかに笑い声をあげると、お局様は襖を開けて隣の部屋へと消えて行った。ボッコ姉さんはその後姿を見送ると、ようやく百香の傍までやって来た。
「いや、まじ、ビビったやん。急に老けるにもほどがあるで、あんたらふたりとも。ほんで、お局様、整形したレベルで違う人になってしもてるやん。しかも悪い方に変化してるし、ああびっくりした」
そう言って、ボッコ姉さんはお膳の上にあったクチナシ茶をグイッと飲み干した。
「すっかりあなたより歳も上になったし、もう敬語はいいよね」
百香の問いに、ボッコ姉さんは答えなかった。その代わり、片方の口角だけをあげて、にたりと笑った。
「まぁそもそもあんた、ろくに敬語できてへんかったけど。ほな、朝ごはんも終わったみたいやし行こか。あんたもだいぶ人間の匂い消えて来たなぁ」
昨日と同じ廊下を歩き、《ふたりの間》の隣の部屋の前でボッコ姉さんはふと立ち止まった。
おばあちゃんどうしてるだろう……。
百香がそう思った瞬間、ボッコ姉さんが、申し訳なさそうに言葉を発した。
「あんたのおばあちゃんなぁ。昨日見学終わった少し後に《奥の間》におじいちゃんと一緒に入りはったよ」
え? どういうこと?
部屋を覗くが、おばあちゃんが座っていたところにはもう違う男の人が座っている。
「おじいちゃんが? 来たの? 昨日? ここに?」
「ああ、もう九十歳は軽く超えてはったなぁ。しっかりと水仙握りしめて、ふたりが再会したときの感動っていったら、もう。あ……ごめん」
おじいちゃん、こっちの世界に来たんだ。てことは、向こうの世界には、もういないんだ……。
「おじいちゃん、幸せそうでした?」
「ああ、ふたりともな。いい感じの美男美女やったで。来世も人間界に戻るなら、夫婦決定やね。天上人になれるかどうかは、主様次第や」
美男美女?
百香はくすっと笑った。おばあちゃんは確かにそこそこの美人だったが、おじいちゃんは、その顔が記憶に残っていないくらいだから、きっと美男ではなさそうだと百香は思った。
どんな人だったんだろう。
ふたりが若かった時って、どんな風だったんだろう。
昨日の夜、お局様は一日一食の決まりを破っていい香りのする夜食を持ってきてくれていた。あれは隣の部屋への注意を向けさせないようにしたのではないか。
眠りについた時、そういえば水仙の香りを嗅いだ気がする。おじいちゃんとおばあちゃんが再び会えたところを見られなかったのがとても残念だけれど、最後の一時間はどんなにか楽しい時間だったろうなと百香が想像していると、ふと、おじいちゃんが毎日おばあちゃんに話しかけていた日のことが百香の記憶の底で再び弾けた。
そうだ、おじいちゃんは、百香の知っているおじいちゃんは、ずっと最初からおじいちゃんで、優しくて、一度も百香を叱ったことが無くて、おばあちゃんが大好きで……。
九十歳を過ぎても変わらずおばあちゃんに話しかけていたんだろうか。
ほとんど記憶もないけれど、知っている人がいなくなるのがこんなに悲しくて寂しいものだとは百香は思ってもいなかった。勝手に次々溢れてくる涙を着物の袖で拭っていると、ボッコ姉さんが百香の顔色をうかがいながら、聞いてきた。
「呼びに行かへんかったん、怒ってない?」
「うん。心字読んでわかってるくせに。教えてくれてありがとう」
百香はボッコ姉さんを心配させまいとしてニッコリ笑った。
このお屋敷ではどの部屋にも百香が入ることは許されない。ふたりが幸せそうだったというボッコ姉さんの言葉だけで充分だ。
それにしても、瞼がうまく上がらない、もしかして目は糸のようになっているのだろうか。なんとなく頬の肉も動きにくいのだけれど……。
百香の心を読んだのか、ボッコ姉さんは少し笑顔になった。この世界では、悲しいことも嬉しいこともあっという間に過ぎ去るのだが、いくら時間が早く過ぎ去っても、淋しい気持ちはずっと百香の胸の中から出て行かなかった。
ボッコ姉さんは百香の顔をじっと見つめた後、何も言わずに手を取り、「ほないこか」と、優しく微笑んだ。《ふたりの間》の前の廊下を少し進み、その右隣りの部屋の前でボッコ姉さんは立ち止まった。
「ここは、《生と死の間》」
部屋の名前がおどろおどろしいので、百香はあまり中を見たい気分になれなかった。廊下の高さは、向かいにある《神々の間》と同じように少し高くなっているのだが、廊下に立って部屋の中を除くと、その部屋の床の高さは廊下よりも一段下がっていて、《ふたりの間》と襖を隔てて繋がっているようだ。一段上がった廊下の分だけ、部屋に入るためには、部屋の中の階段を一段降りなければいけないようになっていた。
「廊下隔てて向かいが、昨日見た②番の《神々の間》。《生と死の間》の向こう隣が、⑥番の《黒と白の間》」
ボッコ姉さんは見取りを指さして教えてくれた。見ると左右の部屋からたくさんの人が忙しそうに《生と死の間》、《黒と白の間》から《神々の間》へと出たり入ったりしている。最初の日からずっと奥側の部屋は慌ただしそうだった。
お局様もこの三日間はとても忙しいと言っていたけれど、それにしても今日はずいぶん忙しそうな人が多いな。
「いや、あれ全部が人ではないよ」
百香の心の声を聴いてボッコ姉さんが言う。
「ここにおる半分ほどが、もと人間。二割は神様、一割精霊、一割妖怪か、もののけ、ってとこかな。後はハザマの間に送られる人と、どこに行けばいいか、行先が分からない人や」
「どういうこと?」
「《生と死の間》は、基本は長いこと病気と戦って頑張って生き抜いた人が多い部屋やからね。ここの部屋に来たときには健康体に戻ってるねんけど、あんたの世界で意識がないと言われている人も、うっかり間違えてここに来てたりするからややこしい。
どうしてもまた同じ世界に戻りたいって希望する子と、人間界クラスに置いておくのがもったいないような、神様クラスになれるよ。って子、主様に行き先を決めてもらわなあかんくらいの問題児もたまにおんねんな。《家族の間》にも行きたい子は、この部屋と往復もできるし、その場合は結構長いことここにおるよ。っていうても、この世界の二日くらいやけど。でも大抵は、神様に途中で連れて行かれてまうからなぁ。
《ふたりの間》とは障子で区切られてるだけなんで、心に決めた人がおるんなら、花さえ手にできるんなら、そっちとも行ったり来たりできるんやろうけど、手に花が無いやろ。だから、どっちか言うと愛の為よりというは自分が生きることで周りを明るくしてきた、一生懸命がんばってきた子らやな。 それか、ひとりじゃなく全ての人に愛を注いできたような子かどっちか。
廊下隔てた向かいの《神々の間》では、願いを聞き届けるか、自分らの仲間に入れるか、どうにも決められんから《大奥》へ送るか決めるのに大忙し、って感じかな」
部屋の中には、病気から解放されてはしゃぎまわる子供や、緑色の髪をした鬼と楽しそうに談笑する大人たちが見えた。腕を回したり、転がったりして、幸せそうに笑っている。そういえば昨日も子供たちのはしゃぐ声が聞こえていた。ここに入ると全ての肉体の病や障害が消えるのか。おどろおどろしい部屋の名前の割には、明るい雰囲気が漂う部屋だった。
それで、と言いかけて、ボッコ姉さんは、ひとりの青年を指さした。
「あの子は生と死のハザマの子や。見ててみ、今から《ハザマの間》に行くから」
そう言われて、百香がずっとその青年を目で追っていると、そのとおりに細身の男の子が《生と死の間》から、黒い着物を着た細面の綺麗な女性に連れられて廊下に出て、ゆらゆらと部屋を出て廊下を右側に折れ、《ふたりの間》も通り過ぎ、《ハザマの間》へと歩いて行った。ふたりとも言葉を交わしている様子はなかった。
足元には小さな妖怪らしきものが二列になってふたりの後ろに繋がり、
「ゼツボウテキデジボウジキ、ゼツボウテキデジボウジキ」と唱えながら進んでいる。
「なんか、あの人、歩くのも辛そうだね」
ボッコ姉さんは頷いた。
「そやからな、見つけやすいねん」
「あの小さな妖怪さんは?」
「ああ、枕返しさんな。あんだけ懐かれたら眠れなくなるやろうし。普通の意識を保つのも、なかなか大変や。ま、そういうのを引き寄せるのも本人の心やけどね」
突然、《生と死の間》の中から大きな泣き声が聞こえた。見ると右奥の襖の前には立ったまま泣きじゃくる若い女の人がいて、白い着物を着た人がその人を抱きしめている。女の人の方は白いワンピースを着ている。ウェディングドレスのようにも見える服だった。
綺麗な人だな。あの若さで亡くなったんだろうか。何の病気だったんだろう……。
「行くで。亡くなった人の気持ちに入り込んだらあかん」
ボッコ姉さんの声で、百香が部屋の襖を閉じようとした時、
「ちょっと待って!」と、ボッコ姉さんが突然叫んだ。
何事かと思い、百香は姉さんが視線を送る先を見たが、そこには笑顔で走り回る子供たちの姿があるだけだった。
《生と死の間》では、小さな子供がたくさんいたが、ほとんどの子供たちがあっという間に精霊と妖怪に懐いてしまい、楽しそうに神々の間へと連れて行かれていた。
付き添う妖怪に悪戯をして、「やだ、いかない。ママが来るもん!」と、部屋を走り回っている子もいたが、その他にも逃げ回っている子供たちの集団がいた。
よく見ると、走り回っているその子供たちの後ろをひとつ目小僧のようなミラーがぴょんぴょんと、一本脚で飛び跳ねながら追いかけていた。子供たちはきゃつきゃつと大はしゃぎで鬼ごっこを楽しんでいるようだ。ミラーは棒の真ん中より下が少しへこみ、ぶつかったような黒い筋がついている。ところどころにオレンジペンキの上塗りが見える。
鏡が動いてる……あれ、あのオレンジのミラー……どこかで見たような?
子供を守るいい妖怪なんだろうなと、百香は楽しそうな子供たちを見て呟いた。鬼ごっこをして子供たちを追いかけているものたちの中には、子供たち以上に大はしゃぎしている若い銀髪の鬼もいた。昨日見た鬼たちのような恐怖のオーラもなければ、棒も持っておらず、肌の色も赤くない。風変わりな赤いベストのようなものを身に着けている。頭の真ん中に生えている角がなければ鬼とは気づかなかっただろう。昨日のように怒りを示すときにだけ、皮膚の色が変わるほど血管が浮かび上がるのかも知れなかった。
大はしゃぎをするイワシの群れのような子供たちの最後尾にその銀髪の鬼はいた。畳の縁につまずいて転んでしまった銀髪鬼の上に、すかさず腰を曲げたミラーがどしんと乗っかった。
逆『くの字』にのけぞる銀髪鬼は、「ぎょえええええ」と言いながら笑っている。子供たちもそれを見て一緒に笑って大はしゃぎだ。
鬼がバトンタッチされて、本物の鬼が、子供たちを怖がらせながら追いかけ始めると、きゃぁきゃぁいう声が、部屋中に響きだした。周りにいる人たちもそれを見て、皆笑っている。
「鬼も遊ぶんですね。リアル鬼ごっこだな」
ボッコ姉さんに話しかけようと百香が横を向くと、ボッコ姉さんの頬が、ほんのりとピンク色になっているのが百香には分かった。
「どうかしましたか? 暑いですかね? 廊下は外と繋がってて暑いし、熱中症とか怖いし、一度部屋に戻りますか?」
心配になって百香は聞いてみたが、姉さんは中を見つめたままだ。
「あの……」と、百香が再び問いかけた。
「はぁああああ。やっぱり大将は何しててもかっこええなぁ。目の保養とはこのことやな。ここ三日で一番嬉しかったこととして日記に書かな」
百香は、妖怪も日記書くのかよと思いながら、
「あの中のどなたかがお知り合いですか?」と聞いてみた。
実は……。と姉さんが口を開こうとした時、大きな笑い声が響いて、中学生くらいの男の子が、銀髪の若い鬼に羽交い絞めにされているのが見えた。どうやら次は、その男の子が鬼の番だ。鬼が交代すると、またイワシの群れのように、固まった一団が部屋の中を駆け巡り始めた。
片膝をついて、汗をぬぐっていた銀髪鬼が、百香たちの方に向かって手を振っている。ボッコ姉さんの顔色はますます赤くなった。銀髪鬼は子供たちから離れて、百香たちがいる場所に向かって弾むように笑顔で走って来た。一段低くなった室内から、鬢髪鬼が見上げるようにボッコ姉さんに声をかけた。
「おひさしぶりです! ボッコさん。なんか雰囲気変わってはるから、だれかようわからんくて、挨拶もせんとすいません!」
若い鬼は、頭の後ろを手で書きながらぺこりと頭を下げ、爽やかスマイルでボッコ姉さんに話しかけている。
関西弁の、鬼……。
百香は驚きつつ、まじまじとその姿を見つめた。鼻筋の通ったカッコいい系の顔立ちだ。銀髪鬼がボッコ姉さんに尋ねた。
「こちらの方は……ボッコさんのお母さんですか?」
そう言われた百香は、ここは《なんでやねん!》って突っ込むとこだな、とボッコ姉さんを見つめていたのだが、
「いやん、そんなことあるわけないじゃないですか。全然似てないでしょ? ほんとひどいわ、大将君ったら! こちらの方は、《ハザマの間》に来た特別なお客様で、お局様に言われてハザマの世界をご説明しがてら屋敷内をご案内しているところなんですぅ」
ボッコ姉さんは、標準語で普通に返答した。恥じらいながら。
いや、ここはふたりで夫婦漫才みたいにボケとツッコミを見せるところではないのか。てか、《標準語の基礎》、完璧マスターしてるし。
百香はボッコ姉さんの豹変ぶりに驚いたままでふたりの会話を聞くことになった。
「いやー。このマックス忙しいときに、あのお局様に仕事依頼されて、それを余裕で受けるって、さすがボッコさんですわ。俺なんか、どんだけ頑張ってもそこまでいかれへんもん。今日の暑さで鬼ごっこって、「マジで命にかかわるわ!」って、心の中ではぶーたれながらやってますもん。それにしても、暫く会わんかった間にめっちゃ綺麗になってはるから、俺びっくりしましたよ。俺、この子らを見送るのが今日の、ていうか、今回最後の仕事なんですけど、良かったら送り火のあと、お茶でもしません? もしかしたら、今回認められたら下界に降りることになりそうで、暫く会われへんかもしれんのです」
どうやら銀髪鬼は、さらっと爽やかに、ボッコ姉さんをデートに誘っているようだ。
「もちろん喜んで。久しぶりですっごく楽しみ。お仕事頑張って片付けちゃうねっ!」
ボッコ姉さんは、首を可愛らしく傾け、手を後ろに組んでもじもじしている風を装っていたように見えた。あやちゃんが死ぬほど嫌いな、あざといぶりっ子スタイルだ。百香の頭は、情報過多で大渋滞の混乱状態だ。
……ということは、この可愛い動きは、百香の頭の中のあやちゃんを示したのではなく、ボッコ本来の人格、いや、妖怪格なのか。
「うわ! ほんまに? 俺めっちゃくちゃ嬉しい! ほんなら、俺も仕事をがんばろっと! じゃ、また後で。無理したらあかんよ」
若い鬼は、思いきりつま先立ちになって手を伸ばし、一段高いところにいるボッコ姉さんの頭をポンポンと優しく二回叩いてから、
「じゃ、ハザマのお客さんもゆっくりしてってくださいね!」
と、爽やかに立ち去って行った。
とてもぶーたれながら鬼ごっこしているようには見えない本気(マジ)のはしゃぎっぷりだったけどな。ていうか、お母さんと間違われるくらい年取ってるのに、これ以上ここにゆっくりしたくないんだけど、ちょっと。ボッコ姉さんこの百香の心の声を読んでよね!
同意を求めながら無言で百香が隣を見ると、ボッコ姉さんの頭上にハートマークがくるくるしているのが見えた。
わかりやす過ぎるってば。相手からも丸わかりじゃん。私はあなたのお母さんに間違えられてかなりショックなんですけど!
百香が何度いろいろ頭で念じても、ボッコ姉さんは一向に百香の心を読んでいる気配がなかった。心字は一対一で会話している目の前の人と通じ合おうとする時にしか見えないようだ。今、ボッコ姉さんは百香と会話する気が全くないと言うことだろう。銀髪鬼を見つめて一向に動こうとしない姉さんに向かって、百香は声に出して聞いてみた。
「あの銀髪の鬼さんのこと、よっぽど好きなんですね」
すると、ボッコ姉さんは真っ赤になってようやく、我に返った。
「そ、そんなこと、な、なんていうか、すごくいい感じの友達っていうか昔からの知り合いで……彼、何年も前から下界に降りる訓練を希望しててさ、すっごい真面目に頑張ってるから応援したくって……」
ボッコ姉さんは、しどろもどろになっている。標準語で。
「じゃあ、今日のデート楽しんでくださいね。仕事を早く片付けるめにも、さっさと見学終わらせましょ」
それでも姉さんは、まだ銀髪の鬼を見つめたままだった。百香は、ボッコ姉さんの背中を軽くぱんぱんと叩いてみた。
「大将ほんまにかっこええよなぁ。ストライクゾーンど真ん中に育ってくれてほんまありがとうやわ。神様に感謝。本音を言えば、ずっと、この世界におってほしいわぁ」
姉さんは、ようやく関西弁に戻った。
「で、今回のこの《生と死の間》に対しての《ハザマの間》の役割は何なんですか?」
どうせろくでもない理由であることは、昨日のハザマの間に来る人の説明で分かっていたが、ボッコ姉さんが落ち着くのを待って、念のため百香は聞いてみた。
すると、かなりデリケートな質問だったのか、正気に返ったボッコ姉さんは真面目な面持ちで話し始めた。もちろん関西弁で。
「ああ、なんていうか、もともと《ハザマの間》は、本来は亡くなってから、あんたらの世界の単位で五十日目から百日までの人が使う部屋やねんけどね。あ、こっちの時間では十分もないけど」
「はい。お局様にもそのように教わりました」
「あ、そうか。なら話は早い。で、昨日見たように、家族がおらんから弔ってもらえんとか、人を愛することをしてこんかった人とかは、どこの部屋に入ったらいいか分からないままやってくる。《ハザマの間》は、本来そういう人のための部屋や。
その中で、《生と死の間》から、《ハザマの間》に移動する人っていうんは大抵、正しく死ぬことも、泥水飲んで生きることも諦めた子らや。奥の部屋に行くまでの間に待機するためだけにここに来てるんよ。主様が定めた約束の時間を勝手に破って守らんかったから、行くところが無いねん。ここではずっとひとりぼっちや。
寄ってくるのは悪霊だけで、奥からお迎えがくるまでハザマの世界、つまりここの世界と、辛くて逃げたいと思っていた元の世界の間から離れられずに、ずっと彷徨い続けてる」
さっき黒い着物の女性に連れていかれていた青年は、まだふらふらと廊下を進んだり振り返ったりしている。青年は状況が飲み込めないという風な表情だった。初日の自分のようだと百香は思った。横について歩く黒い着物の女性は、対照的ににこやかな笑顔だ。
「あの人の隣にいる、黒い着物の女の人は?」
女性を指さして百香は尋ねた。
「むやみに悪霊さん指さしたらあかんで」
ボッコ姉さんが眉間にしわを寄せる。
「悪霊……」
背中に悪寒を感じ、百香は慌てて指さしていた手を引っ込めた。
「悪霊さんていうても、別に悪いことしようと近寄ってるわけちゃうねん。淋しいねんな。あの子ら、もう何年もハザマの世界を誰にも相手にされずに彷徨ってるからな。ああやって時々、自分そっくりな子を見つけて、お手伝いして気晴らししてはるわ」
気の毒そうな顔をして、ボッコ姉さんは続けた。
「そやからな、あの青年も、かなり長いことこれからハザマの世界と元の世界の間に留まることになる。どっちの世界にも自分はいないんと同じや。誰も話を聞いてくれんし、誰に話しかけても反応してもらえん。そんな世界に何年も閉じ込められ続けるのが、主様との約束を反故にした罰やな。
まあ、長いこと経って、本人が自分のしでかしたことに気が付くか、家族が、彼の心を正しく理解して、納得して弔うことができるか、とにかく主様が、もうどっちの世界にも不要やと判断したら、その時にやっとお迎えが来る。
何年かかるかなぁ。家族をここで遠くから見送って、生前に恨んでた人間の最期を見届けてからとか、誰ひとり知っている人がおらんようになってから奥へ動くことの方が多いけどな。
とにかくそれまでは元いた世界に戻って、うっかりハザマの世界に入りこんでしまうような自分と似たような境遇の子に付きまとってしまうねんな。そういう子らって、何度もハザマの間にやって来ては、また向こうの世界に戻っていく。それでまたこっちにやってくる。
さっきの悪霊さんも来たばっかりの頃は、あの青年みたいやったで。何人も付きまとって、この部屋にようさん知らん人連れて来てた。どんどん悪霊さんが増えてしまうから、精霊さんやら妖怪さんに新しくハザマの間に来てる子に気を付けてってお願いして、見守り頼んでるんよ。
あの子もまだまだ時間かかりそうや。あんたらの世界に降りて、誰に付きまとってたとしても相手には見えてないし、最後はハザマの間に連れてくるってのが主様との契約になってるみたいで、こっちですること無くなったら、またすぐひとりぼっちになって、あんたらの世界に戻るんよね」
「あの…」
百香は気になっていたことを口にした。
「私もハザマの間にいるってことは、危険人物なんですか?」
「うん。そうやな。だからお局様が見張り頼まれてるやん。あたしも見張ってるけどな」
百香は言葉が出てこなかった。
自分はこの屋敷の中で、そういう風に思われているのか?
「いや、ちょっとちゃうな」
百香の心字を読んでボッコ姉さんが答える。
「あんた、この世界で超高速で歳とるやん。だから病気や事故で死んでもなければ、自ら命を絶つこともしてへんってことやろ? 自然死でもないのに、《一の間》に入ることもできんかった。そもそもハザマの世界に入った人は若返ることはあっても歳はとれへん。だから謎やねん。レアケース。
絶対お局様が、なんかごっつ大事なこと隠してはるはずやねんけどな」
《ハザマの間》ってひと部屋しかないのに、どうして誰にも会わないのだろう……。
「ああ、それは《一の間》に二回目に行った時に体験したやろ。あんたには見えんだけや。昨日から《一の間》と《ハザマの間》の一部だけに結界が張られてる。結界ってわかる? 悪い力や魂をシャットアウトする目に見えないバリアみたいなもんよ」
えええ! じゃあ、私は色々な人とあの部屋で一緒に寝てたの?
《一の間》にも結界が?
「ほんま、なんで《一の間》に結界なんかなぁ。絶対なんか隠してるな、お局様。
ハザマの間ではお局様が、あんたの布団位置を固定してて、天井から結界張ってるから見えんだけ。せやから誰も近寄ってこんやろ。ていうか、あんたが他の人のおるところを見事によけて歩くから最初は全部見えてるんかと思った。ってお局様言ってたで。しかも案内されるまで、隣の《ふたりの間》には一度も入ろうともせんかったし。怨霊でも悪霊でもなさそうやねんなぁ。
つーか、あんたさ、お口があるんやから使いなさいよ! 人の好意にいつまで甘えてんのよっ!」
そう言ってボッコ姉さんは百香の口を左右にびよーんと引っ張りってから、次の部屋へと進んだ。
「痛いってば。なにすんのよ、私、姉さんより年上……」
百香は久しぶりに声を出した。が、ボッコ姉さんが、百香の唇に手のひらをかざしてきて、「しっ!」と言って立ち止まったので、百香はまた何も言えなくなった。
(第十四話へつづく)↓
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