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冥道(ハザマ)の世界:第十四話 還暦の夜

「なんか、《黒と白の間》の方が騒がしい」

 ボッコ姉さんが百香の耳元でささやく。さきほどの《生と死の間》の隣、奥の部屋に最も近い側にある部屋だ。部屋の前の廊下は、さらに一段上がっているのだが、部屋の中は他の部屋と同じ高さのため、襖を開けると、さっきの《生と死の間》よりもさらに下りの階段が増えていた。

《黒と白の間》は、主に事故や事件で亡くなった人がやって来ている部屋とのことだった。亡くなられた時の姿のままでいるようで、これまで見たどの部屋よりも恐ろしかった。そこに《神々の間》から、神様のあとに続いて精霊か妖怪と思われるものたちが薬と着替えを持ってあわただしく走り回っていた。

「すっかり綺麗にしてあげますからね。大丈夫ですよ」

 何故か精霊たちは数人にだけ声をかけている。声をかけられた人たちは、あっという間に綺麗な姿になって、痛みも無さそうだ。

 何故全員を手当てしないんだろう……。

「白い着物の精霊さんは被害者を、黒い着物の悪霊さんが加害者を手当てしてる」

「加害者を?」

「あんたらの世界でもそうやろ? ここでも命の重さは平等や。霊格は全く違うけどな。霊格ってわかる? すごく簡単に言うと、この世界でその人の持ってる残りポイントを示すインジケーターみたいなもんで、点数表示板やな。
 ほら、対戦型格闘ゲームする時に、細長いバーが端っこにでてるやろ。戦って負けたらゼロになってゲームオーバーみたいなやつ。あんな感じの霊格を示すものが人間の頭の後ろに出てるんよ。携帯電話の電池残量みたいな感じ。

 加害者の方が大抵は霊格が元々低いから、霊格を上げてこの世界に戻って来るのが本来のミッションやねんけどね。ほとんどの人間がクリアできずに戻ってくるんよね。残量ゼロ以下のマイナス表示でこっちの世界に帰って来たら、有無を言わさず人間界から追放。

 要は、生きてる間にどれだけインジケーターのメモリをあげとくかや。亡くなった人間はこっちでなんぼでもコントロールできんねんけどさ、生きてる人間の怨霊っていうか、生霊の方はこっちの世界からントロールできんから、死んだ人間の霊より、生きてる人間の生霊の方が、私らにしたらずっと怖いねんで。

 生きてる間にいろんな人から恨み買ってたら、インジケーターメモリなんかすぐにゼロになるからな。
 主様もきまぐれやから、その人をいつ追放するのかの基準はよう分からん。殆どの加害者は、被害者よりは後でやってくるんやけどね。たとえ被害者であっても、生霊の恨みを買いすぎてて、最初っから霊格インジケーターのマイナスの人間もいれば、たっぷりあった霊格を使い切らずにここへやって来る人もおる。

 どっちにしても被害者は、加害者がここにやって来るまで、ちゃんと元の姿にしてもらって、綺麗な姿で時を過ごせてる。もちろん無念さはあるやろうけれど、怨念にとらわれないよう精霊さんたちがああやって絶えず見守ってはる。

 被害者は、ここで加害者をひたすら待ってるんよ。《ふたりの間》の時と同じように、この部屋に加害者が入ったとたん事件や事故があった時の姿に、戻んのよね。

 だから未解決事件ってのは、この世界にはない。被害者は、自分の姿が事件や事故の時の状態になったのを確認して、加害者が部屋にやって来たのを肌で確認できるからな。綺麗にしてもらっても、すぐまた戻るんなら、加害者も同時期に亡くなっててこの部屋にいるはずや。

 自ら命を絶ってたとしても、他の人を傷つけている場合だけは、ハザマの間には入れてもらえん。即、奥からお迎えが来るからな、あんたらの世界で未解決でもな、ここでは被害者と加害者が丸わかりや。ほら、そこ見てみ。何人もが、あの男を取り囲んでる」

 ボッコ姉さんが指さす方を見ると、ひとりの若者の周りを、五人の男女と子供を抱えた女性が取り囲んで凝視していた。言葉は一切発していなかった。中心に立っていた男は、徐々にその姿を変え、若返っていく。すっかり若返った男が中心でニヤついているのが見えた。どうやら詫びる心はないようだった。死刑になったのか、逃げきって命尽きたのかは分からなかった。

 こんなに人を死に追いやって、長生きしていたとしたらなら、神様は理不尽だ。

「いや、長生きした分だけ、小さな罪でも増えていくで。心で業を犯したり、小さな虫を殺したり、妬んだりな。

 さっきも言うたけど、人間ってのは、長生きするだけでインジケーターが目減りするようにできてるからな。もし加害者が長生きしてたら、その分だけ、罪は積み重なってるから、こっちに戻ってきたら、大抵次は人間界からは追放のケースの方が多い。それでもまた人間界に戻って来られる人ってのは、もともと相当なポイントの持ち主やろなぁ。両親や、そのまた両親からポイントを譲り受けてる人もおるっちゃおるけどな。

 人間ってのは、業の塊みたいなもんやから、そんなん二十代までには使い切って消え去ってるのが殆どやね。そっからのポイント獲得は本人次第」

 少し離れた隣には、小さな女の子がぐったりとした姿で女性の足にしがみついているのが見えた。女性は呆然とした顔だった。掴みあって睨んでいる人たちもいた。後ろから白と黒の精霊が止めに入っている。それぞれにどのようないきさつがあったかは分からない。

 災いを受けたときの姿に戻る被害者で、徐々に部屋がいっぱいになりそうだと百香が思っていると、奥の部屋の黒く重い扉が開いた。

「ここの部屋の前では、しょっちゅうこの術使わなあかんから、消えたままの方がええかもな」

 なんか今日は被害者の数が多いなぁ。騒がしいわけや。そうボッコ姉さんは呟きながら、百香ともども姿を見えなくした。

 すぐに目が幾つもある鬼がやってきて、ひっひっひっと妙な声をあげながら驚いて動けなくなっているもと人間たちの中から、加害者だけを見つけ、次々と先の尖った細い棒のようなもので、加害者の服の襟のあたりを引っ掛け、高く吊るしあげてから、空に数回転振り回した。振り回されて服の首元が限界まで閉まり、かかった圧力で気を失った加害者たちを、今度は逆回転で振り回して元に戻すと、後ろについていた同じような長い棒を持った別の鬼に放り投げるように渡した。

 別の鬼は、棒の尖った先端で加害者をキャッチボールするように受け取る。そうやって数名の鬼たちが同じ棒の先に何人もの加害者をぶら下げていった。あっという間に加害者たちは、棒の先端に吊るし上げられ、重なるようにぶら下げられていく。鬼が歩く度に揺れる棒の先で、加害者たちは互いにぶつかり合い、一部の意識を取り戻した加害者たちが、痛い、どけ、お前が後から来てぶつかって来た、顔から足をどけろ、うるさい、などと、互いに罵り合うような声を上げていた。

 鬼たちは、棒の先に吊るす場所が足りなくなるまで加害者たちを次々と引っ掛けられると、その上から黒い大きな布を被せた。きっと見るのも嫌なのだろう。すると、あれほどうるさかった声はおさまり、一瞬だけ何も聞こえなくなったが、すぐにまた布の下から罵り合う声が聞こえ始めた。

 先頭にいた目が複数ある鬼は、がらんとなった部屋をもう一度ぐるりと見渡し、何もついていない棒の先を二度振ってから肩に担いで《奥の間》へと戻って行った。
 その後ろに連なって、黒い布を先端にかけた棒を持った鬼が数名続く。その後から白い着物を着た精霊が付き添い、痛々しい姿の被害者たちがぞろぞろと連れ立って歩いて進んでいく。かなりの団体だ。

 ここへ来た初日に、ハロウィンの仮装のように見えた人たちのいくつかの集団は、ここの部屋の人々と、手当てする精霊だったのだと百香は気が付いた。あの時、鬼が来たタイミングでなくて助かったが、もしも鬼が部屋から出てくるタイミングだったなら……と、百香は記憶をたどりながら身震いした。

 その百香の横を、幾つもの呻き声や悲鳴、怒号が通り過ぎて行く。数名の鬼が掲げる黒い布の下からは怒号が響いている。後ろに繋がる人々の顔は、恨みと憎しみで膨れ上がっている。お化け屋敷の不気味さどころではない。

「虫さんホイホイならぬ、人間ホイホイや。あの棒、一度引っかかったら服をはぎ取りでもせん限り、取れんからな。それでもこれから奥の間でされてることに比べたら、可愛いもんや。

 ここにおる一部の怪我したままに見える人らは、手当てしてないんじゃなくて、一度手当てしてもらった被害者が、加害者を見つけて元の姿に戻ってるんよ。加害者が何をしたかを主様に見せるまでね。加害者は悪霊さんに手当てしてもらえるから元の姿のまま、その方が痛めつけたときのダメージがでかいからな。綺麗な姿で、他の哀れな姿の被害者に睨まれて一緒に立ってるから、加害者は見つけやすい。

 綺麗な姿で独りぼっちの子は、加害者が来るのを待ってる子らや。主様が見るのは、被害者とか加害者とかいうことじゃないよ。被害者にだって、加害者にだって、いろいろあるからな。主様は最期の瞬間に。インジケーターのメモリだけで判断しはるだけ」

 ボッコ姉さんがニッと笑う。鬼が奥に消えるのを待って、ボッコ姉さんが消える術を外した。

「あ、《一の間》で待ってる間、加害者だけは部屋の選択権はないんよね。有無を言わさずこの部屋に連れてこられる。『ここであったが百年目!』っていう言葉知ってるかなぁ。そっちの世界では時代劇で使う言葉らしいけど。あの敵討ちは実話やねんなぁ……スカッとするわぁ」

 姉さんの話がよくわからないまま、百香はもう一度部屋を覗いた。どこかから微かな泣き声が聞こえたからだ。左隣の部屋は先に観た《生と死の間》で、襖で隔てられているだけだ。ひときわ泣き声が大きくなった方を見ると、隣に間違えて入ってしまっていたのか、白い着物を着た人に連れられて、若い女性が《黒と白の間》へとやってくるところだった。

 よく見ると、さっき隣の部屋で見た、《生と死の間》にいたウェディングドレスのようなワンピースを着た若い女性だった。

「どうしてですか? 何故なんですか?」

 その人は、そう言いながら何度も泣き叫んでいる。

「なるほどな」

 しばしの沈黙の後、ボッコ姉さんが呟いた。

「何があったんでしょう?」

「さあなぁ……詳しいことは何とも。この女性、誰ぞに殺されたんかもな。で、本人は自分は殺された自覚はないし、手には花も持ってないから、急病で死んだかと考えて《生と死の間》に入ってたんとちゃうかな。それで。暫くしたら、彼女は《黒と白の間》に連れられて来た。つまり、誰かがなんかの理由でうまいことわからんように彼女を幸せなまま殺害した……とかかな」

「ひどい……」

「お腹にいた子は、さっき精霊さんが《神々の間》に連れて行かはったけどな」

「え?」

 百香が驚いていると、ボッコ姉さんが、また囁いた。

「彼女、吐きそうやな。そろそろや」

 白いワンピースの女性は、うずくまり突然嘔吐した。白いワンピースが赤茶色に染まっていく。と、百香たちのすぐ傍を派手な服を着た若い女の人が、黒い服の悪霊に連れられ、部屋の中へと階段を降りて入って行った。

「加害者、登場や」

 ボッコ姉さんが見つめる方向を百香も目で追った。

 若い派手な女性に気づいた白いワンピースの女性は、口の周りを赤茶色に染めながら床をはいずるように進み、その派手な若い女性の白くて細いふくらはぎに死に物狂いで抱きついていた。吐血し、呻き声を出しながら、尋ねている声が廊下の外にまで聞こえてくる。

「……カズちゃん、……なんで?」

 抱きつかれた方の女性は、恐怖におののく顔をしている。

「さ、さやちゃんが、男の人と結婚するなんて、ぜ、絶対許せなかった。子供まで作るなんておかしいよ。さやちゃんが悪いんだからね。
 で、でも、これで、ずっと一緒だよ」

 奥の扉が鈍い重い音とともにまた開いた。ボッコ姉さんは、慌てて消える術を使う。鬼が長い棒を持って再びやって来て、その若い女性を含めた何人かの加害者が、ゴミ以下の扱いで、再び奥に連れて行くのを百香たちは再び見送った。

 部屋には、ひっきりなしに人がやって来ていた。いったい、毎日どれくらいの人が事故や事件で亡くなっているんだろうかと百香は思った。ニュースで見る事件や事故などのニュースは、きっと、その何分の一でしかないのだ。暫く様子をうかがってから、ボッコ姉さんは術を解いて言葉を発した。

「勘違いしてる人が多いのよ。一緒に死ねば同じところに行けるって。人には決められた寿命ってのがあるから、それを奪うことも自ら終えることも、主様との約束を破るっていうことやねんな。尊厳死ってやつでさえ、ここで主様に認めてもらえるかどうかは大博打やな。ま、色々なケースがあって、やむを得ないってこともあるんやろうけどさ。算数みたいに答えがはっきりひとつだけじゃないから何とも言えんけども」

 ボッコ姉さんは、深いため息をつくと、俯き、辛そうに言葉を濁した。

「今の子も、本当のところは本人しかわからんねんけどね。他に方法なかったんかなぁ。一緒に死ねばずっと一緒にいられると思ったんやろけどね。
 これからは未来永劫あのふたりは合うことはない。霊格が、かけ離れすぎてしもた」

 《黒と白の間》に入れられた白いワンピースの女の人には、まだ白い着物を着た精霊が寄り添って、「さぁ歩きましょう」と促し続けていた。なんとかして奥に連れていこうとしているのだ。

 女性は赤茶色に染まった白いワンピースの裾を握りしめ、泣き止むことはなかった。足元にちいさな妖怪たち、枕返しが、まとわりつこうとしているのを精霊が必死で振り払っている。

 ハザマの間に行った青年の時と同じように、枕返したちは繋がって楽しそうに笑いながら「ゼツボウテキデジボウジキ、ゼツボウテキデジボウジキ」と唄っている。

 糸になったような目で笑ってる……。あの顔、どこかで見た。

「あの子、怨霊にならんかったらいいけど」

 ボッコ姉さんは小さく呟いた。

「さて、ここが最後やねんけど」

 ボッコ姉さんが、後ろを振り返って部屋を指さした。柱にかけられた少し大きめの板には、《夢と現実の間》と書かれている。《神々の間》の隣。《黒と白の間》の真正面だ。

「ここに入るには、主様の許可がいるんよ。今日は送り火で、準備が忙しいからもう無理やな。あんたも疲れてるみたいやから、ちょっと早いけど、部屋に戻ってお菓子食べて休憩して、お茶でもしよか」

 ボッコ姉さんがデートに向けていそいそと帰ろうとしていることは分かっていたのだが、百香はどうしても気になることがあったので、立ち止まったまま姉さんの腕を掴み、尋ねた。

「あの、奥の部屋は?」

 百香は廊下の突き当りの黒い扉を指さした。ひとり、またひとりと、鬼に連れられて、入っていくのが見える。鬼に連れられていたさっきの一団も、その部屋へと消えていた。何度も何度も鬼たちが出入りしている部屋だ。

「あの奥の部屋には主様がいるんですよね?」

「あの部屋は、入れる時が決まってるから、無理やな。一度入ったら戻ってこられへんねん。今世でひとり一回きりや。あんたの番はまだまだみたいやから」

 そう言われて、百香はしぶしぶ諦めた。ボッコ姉さんについていこうと振り返りざま、どういうわけか、百香はつま先があがらず、廊下のわずかな段差にも気づかず、有ると思っていたはずの床が思っていたよりも下の方にあったせいで、少しふらついた。

「あんたもう六十前やから、無理はきかんで」

 ボッコ姉さんが今度は百香の腕を捕まえながら寂しそうに片側の口角だけをあげてほほ笑んだ。
 ハザマの間に戻ると、お局様が赤いお膳に赤飯を乗せ、何故か赤いちゃんちゃんこを持って立っていた。

「ちょっと早いけど、還暦おめでとうございます」

 お局様がニッコリ微笑む。とボッコ姉さんが赤いふかふかの座布団へと案内し、無理やり妙な形の帽子を被せられた。

「本来お祝い事はできないんですけどね。特別ね」

 お局様が再び優しい笑顔で笑うのを見て、ふと、百香は全身を直観めいたものが走るのを感じた。昨日、おじいちゃんがここに来ていたときの状況とよく似ている。百香の気をそらさせる作戦だ。百香の脳裏に最も考えたくないことが浮かんできた。

 自分が六十歳近いなら、元いた世界で、あの人は……。

 ボッコ姉さんが、僅かに百香から視線を外す。

「あのね……」

 お局様が百香の肩に触れようとする前に、百香はお局様が差し出した手を振り払って、部屋の外に飛び出した。赤い帽子が床に転げ落ちる。
 きっと百香の心字をふたりとも読んでいたに違いない。

「待ちなさい!」

 後ろでお局様の声が聞こえる。百香は、想像以上に体が重く走ることができないという事に驚いていた。

 いつの間にこんなに歳を取ったんだろう。

 廊下を曲がり、家族の間、ふたりの間、と遠慮なく襖を開けて覗き込む。

 いない。ここにもいない。生と死の間、黒と白の間、ここにもいない……。勘違いだろうか?

 そう思った時、奥の黒い扉へとせわしなく歩いてゆく小さな背中が見えた。間違いない、何度も何度も追いかけた背中だった。見慣れた後姿だった。ここで最も会いたくなかった人の後姿だ。

「ママ!」

 脚がもつれ、百香はその場に倒れ込んだ。後ろから追いかけて来たボッコ姉さんが百香をしっかり捕まえて離さない。

「ママ! ママ! ママァ!!」

 黒い大きな扉の前の太鼓橋をせかせかと渡るその人が、庭のクチナシを見てほほ笑んでいる横顔が見えた。幸せそうな笑顔だ。ずいぶん歳は取っていて顔はすっかりたるんでしまっているが、いつもせわしなく動く姿、纏っているいつも疲れたような雰囲気と後姿は間違いなくいつも百香が自転車で追いかけていたママの背中そのものだった。

 手には何も持っていない。寄り添う人もいない。長い棒に引っ掛けられてもいない。白い着物の精霊もいない。ママは独りだった。少し前にいる無表情の鬼に、後ろから話かけながらママは奥へと向かっていた。病気で亡くなったということなのかもしれなかった。

 ママ、辛くなかった? ごめんね。ママ、幸せだった?

 自分の意思でどうにもできない涙が勝手にあふれ出てくる。百香の記憶の底から突然、鮮明にいくつもの記憶が浮かび上がり始めた。

 パパを殺してはいなかったという事か……。

 そうだ、私はいつもいつも、ママに愛されていないと感じて悲しかった。勉強ができたり、人に自慢できることがあったり、家のお手伝いをしたり、何か条件付きでないと愛してくれないのだと恨んでいた。

 物心ついた時には勉強できないことを馬鹿にされていた気がした。悲しみと恨みは日々募っていき、ママがパパを追い出した。いや、一時は本当に殺したとまで考えていた。そんなママに媚びへつらって生きる毎日が、辛くて嫌で仕方なかった。

 やりたいことや好きなことは我慢し、自分の意見を求められることはほぼなかった。無言の圧力で、何でもママの言うとおりにさせられた。

 本当にあんたのせいで毎日が地獄のように辛かったと言ってやりたかった。

 たくさんの記憶が消えているのに、どうして、何故こんな辛い記憶だけが、しっかり記憶され、蘇ってくるんだろう。それほど心の奥底に根をはっていた苦しみだったのかもしれない。

 苦しかった記憶が次々と押し寄せて来る。憎んでいた人間が消えるだけだ。苦しみから解放されるんだ。なのに、この悲しみはどこから来るのか。心と頭で考えていることが食い違う。

 違う……。恨んでいたのは、悲しかったのは、無条件でただ愛されなかったからだ。百香がどんな子供でも、何をしていても、ただ愛して認めて欲しかった。百香が何をしたいと言っても、ただ応援して欲しかった。笑顔で褒めて欲しかっただけだ。
 愛して欲しい、分かって欲しいという気持ちは、いつしか恨みと嫌悪感へと変わっていた。

 《ハザマの間》から《ふたりの間》に入って行った女性は、やはり自分と同じなのだ。無条件で自分が愛されていないことを百香の心は知っていた。 
 では、百香はママを無条件に愛せていたのか?

 ママは百香を産んで幸せだったんだろうか。ママの人生は楽しかったんだろうか。最期に《家族の間》には行かなかったという事は、自分は家族に愛されていなかったとママは思っていたのか。それとも、そんなに大変な病気を一人で抱えていたのか。

 百香は、本当はママが大好きだった。そんなママに大好きと言われたかった。ただそれだけだった。好きなことをさせて欲しかった。自分の思い通りに生きさせてほしかった。他人に誇れるようなことが何もない子供であったとしても、自慢できる才能が何もなかったとしても、どんな姿の自分でも、あなたは私の自慢の娘よと言われたかった。

 本当の気持ちをママに伝えたかった。わかって欲しいと思うだけで、一度もそれを言葉にしなかった愚かな自分を百香は悔やんだ。ずっと言えなかった言葉を、それでも百香はやはり、心の中だけで叫んだ。

《ママとパパの子として生まれてこなければ良かった。百香じゃなかったら、他の子だったら、ママはもっと幸せだったの? そうしたら家族の部屋に行けていたの?》

 その心の声は、百香を抱きしめているボッコ姉さんにはきっと聞こえていたはずだ。

「ママぁぁぁ!」

 百香が何度叫んでも、百香のママは一度も振り返らなかった。そうして、そのまま奥の黒い扉の中へと静かに消えて行った。

(第十五話へつづく)↓


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