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2020年8月双葉町取材②/中間貯蔵施設エリア

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 中間貯蔵施設エリアにも、まだかつての家はいくつも建っている。次々と解体されてはいるが、五輪に人手を取られてることもあり、思うように進んではいない。そしてそこかしこに仮置き場が並ぶ。福島県中から汚染廃棄物を詰め込んだフレコンバッグが「除去土壌等運搬車」によって運ばれているが、中間貯蔵施設の建設は明らかに遅れており、やむなく仮置き場を作ってそこに置いている。

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 中間貯蔵施設用地の買収は順調に進んでいるわけではなく、中には絶対売らないという人もいる。放射性物質に汚染され、二束三文になってしまった土地を安く買い叩かれるのは気に食わないし、思い出ももちろんある。中には、津波でさらわれた家族の遺骨を探すために売らない人もいる。税金やら何やらで国は締め付けを厳しくしており、将来自分の子供に負の遺産を残したくないという避難者の思いもあって、少しずつ家は解体されているが、全てを買収することは、とりあえずしばらくは無理だろう。

 住めなくなってしまった土地を「除染」によって再び住めるようにする、という方便で賠償金をケチってみたものの、その「除染」はいつの間にか利権の温床となった。中抜きに中抜きを重ねてゼネコンや派遣業者ばかりが肥え太り、元々そこに住んでいた住民の思いなどは全く省みられない。この除染事業で出来上がった搾取のシステムは、東京五輪やコロナ禍においても生かされている。弱ったものをさらに叩いて苦しめ、一部の人だけが儲かるシステムはこの除染事業によって完成したのではないか。

 そんな嘘や欺瞞から生まれた除染というシステムで発生した大量の汚染土は、実は、予定されている数の中間貯蔵施設を作っても入りきらないといわれている。中間貯蔵施設に収まりきらない汚染土をどうするか、そんな発想から生まれたのが「汚染土の再利用」だ。「8000bq/kg以下」という、震災前「100bq/kg」の基準を80倍に上げて、全国で再利用可能にしようというものだ。震災前の基準を「ゼロリスク信仰」と切り捨てて、都合に合わせてルール変更するやり方は、福島県内だけ避難指示解除の基準を「1mSv/y→20mSv/y」に引き上げたのと同じ理屈で、「命よりカネ」「場当たり的対応」の最たるものだ。

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 中間貯蔵施設や双葉町内で発生した廃棄物の焼却施設などを見たのち、福島第一原発との敷地境界線へ。そこからは、無数の汚染水タンクを見ることが出来た。

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 その近くには、警備員が2人体制で立っている。ここはテロ対策は当然ながら、さまざまなメディアに対しても「見張り」をつけているということだろう。

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 そのまま海沿いへ向かい、念願だった三角屋根の「マリンハウスふたば」へ。ここは2018年に請戸から見ていた建物。ずっと中を見てみたいと思っていた。

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 3月に中を見てきた「マリンパークなみえ」と比べて、「マリンハウスふたば」は割れたガラスもそのままで、まさに震災後9年半放置されてきた印象だった。

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 双葉のマリンハウスは、噂では「外から見るだけの震災遺構」として保存すると聞いている。原発事故がなければ再開していたであろう学校や病院、店舗といった「原発事故遺構」は次々となかったことにされていくが、こういった「巨大津波遺構」は残される。なんて卑怯なのだろう。

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(2Fは畳がせり上がりガラスの破片も多く危険を感じたため、ここまでで足を止めた。)

 浪江では、津波被害を受けた請戸小学校は「震災遺構」として保存されることが決まった。尤も、これは「巨大津波遺構」なのか「原発事故遺構」なのかで意見は割れているという。それ以外の小中学校は、「創成小・中学校」として改築された浪江北小以外は全て閉校、解体が決まった。

 マリンハウスふたばと違い、同様に津波の被害を受けたマリンパークなみえは今年(2021年)になって解体されてしまった。これには、原発立地自治体とそうでない自治体との違いがあるように思う。事故が起きた後も、いろんな意味でここで起きていることは歪だと思う。

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 僕がマリンハウスふたばの内部を見ている間、暑いなか、鵜沼さんは外でじっと海を見つめながら待っていた。震災後9年半経ったとはいえ、長期間帰還困難区域とされていたため、ろくに防潮堤も作られず、ただの土嚢(フレコンバッグ)だけが海沿いに並ぶ。その上に立ち、鵜沼さんはじっと海を見つめていた。何度も打ちつける波を見て、当時のことを思い出していたのだろうか。廃墟から戻ってきて、何か気の利いた言葉をかけることも出来ず、ただ「お待たせしました」と声を掛ける。

「ほら、見てごらんよ」

笑いながら鵜沼さんがマリンハウスふたばの窓の屋根を指さした。その先には、建物から伸びる松の木があった。

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コンクリから伸びる松の木。植物は人間よりも強い。

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<続く>

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