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テッド・チャン 不安は自由のめまいを読んで。

読んだ後に改めて題名を見ると、何か味わいがある。

題名から考えられる事⬇️

2つある。

1個目⬇️(堀元見のバイアスがある)

(予期された未来と同じ結論だという邪推)

分岐した自分が、自分と違うような行動に対して、羨望や不安を持つ事は結局は意味がない。

不安なんて、自由である事が前提の妄想である。

結局自由なんてものはない。

どんな行動の分岐を取っても、自分の根本的なものと同じ行動をするので、気にする必要はない。

これは自由意思がないという悲観的な捉え方。

結果的には同じになるので、自由意思は存在しない。

2個目⬇️(不安は自由のめまいで調べて納得)

自由(意思or分岐が沢山)あると考えると、もっと酷い選択をした自分がいる事や、もっといい選択をした自分がいる可能性を追うと、不安になる。

自由があると確信していると不安になる。

これは自由意思が存在しているという捉え方。

▷▶素敵な考えとしては、不安を抱くと言う事は裏腹に自由である事、沢山の可能性があると言うこと。(自己欺瞞の可能性)

自由(自由意思あり前提)に対しての認知的負荷⬇️

早期引退したサラリーマンが、自由に対して不安になり、また仕事に縛られたいという欲求にもこの感情が派生している。(自由が怖い、不満)

自由は一見、楽しそうであるが自分で問題提起したり、自発的に行動してデザインしたりしないといけないので逆に負荷がかかる。

春休みとかも、自由すぎて逆につまらない。

これは大学の方が、脳死で強制的に勉強するので気持ちよくなっているから。

<思考実験>

➡️前提を整理

- 平行世界がある事そのものが自由意思があるという証拠という考え方(結果が違う)
- 平行世界の選択は違えど、結局は同じ行動をするという自由意思はないという考え方(結果が同じ)
☝️つまり平行世界がある時点で、個々の選択には自由意思がある。結果がどうあれ。

もしも本当に平行世界と通信できるとしたら⬇️

<自分:結果も違う場合orそれに気づいてない>

私的には気になるが、絶対覗きたくない。

なぜならそっちの世界にはいけないのであって、羨望の眼差しを向けたくないからである。

仮に見たとしても、パラセルフが不遇な場合は同情してしまうし、良い選択だった場合は自分の世界線そのものを否定してしまうからである。

<世間:結果も違う場合orそれに気づいてない>

結果的にはいい方向に進む未来も必ずあるので、羨ましがる。また、本当にこの判断で良かったのかという不安が普段意識していない人にも広がる事で、意思決定するのに自信が無くなる人が増える。結果依存してしまう。

➡️平行世界に通信できるという認識

●結果も違う場合

<自分編:結果も違う場合>

一つ一つの決断に必ず違う選択をする自分がいると思うと、かなり心にくる。

なぜなら自分の決断に常に自信を持つ節があるからだ。(先延ばしなどを無視している)

実際にこれを読んだ、未来の自分は想像してみて

勉強する、本を読むなど常に完璧な自分がいると想像すると非常に嫌だ。 ある種の昏睡状態になる。この著の予期される未来と違うのは、自分の判断は既に決まっているという絶望からではなく、過去から常に完璧な判断をしている自分がいるという事実に絶望している。

私が向上心を持っている事を示唆している。

☝️これは自分が本質的には変わらないが、習慣で自分が変化していくという捉え方と、本質的にも変わっていっているという2つの捉え方がある。

まぁ結局は結果が異なる事を言いたい。

<世間の人編:結果が違う場合>

では世間の人の反応はどうなるだろうか。

ほとんどの人(特に女性)が違う選択をしたパラセルフが気になり、確認する事で絶望したり安心したりする。 その都度の確認で、常にパラセルフの方がいい結果だった場合は自分に絶望する。

この著で提示されているものは、平行線のパラセルフに嫉妬して、利用するのに依存してしまったり、詐欺に使う人もて出来たりする。

●結果が変わらない場合orそれを知っている場合

<私:結果が変わらない>

始めは嫌だったが、やっぱりいいかも。

どんな平行世界のパラセルフがいても結局は結果が変わらないのなら、今から自分が変わることで第一人者になれるから。

<世間>

気にしなくなるかもしれない。

判断の結果が変わらないため。

☝️この平行世界での分岐で、結果が変わらないという点での自由意思がない場合は、救われる人が多そう。(選択する自由意思がある)

サミングアップ⬇️

というか1つ1つの選択が違う世界線があるならば、三体問題や2重振り子のように結果が違って来るのではないか。

まぁいいけど。

私は、選択そのものに自由意思がない事や、選択した結果に自由意思がない場合が、例え真実だったとしても、どっちでも良いと思っている。

科学的に証明されていてもだ。

なぜならそれすらもどれを信用するか選択できるからだ。(自由意思があるという信仰)

加えて、自由意思が無いからって昏睡状態になる自分すらも決定しているのって、何だか癪だ。

私の逆張り精神に反している。

合理的に考えるならば、やる気が無くなってしまうより、いい方向に繋げる事ができるものを信仰した方がいい。

大事な事は、一つ一つの選択によって私は形成されて、成長していくという自覚を持つこと。それは自由意思があってもなくても。

選択をする際には、自分が成長する方向を選択したい。過去の自分に自慢できるまで。



他にも頑張って書いてるので良かったら👇🏻

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