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私が思う「見た目問題」とインターネット

今ではすっかり私の名前やアルビノを検索すると、まあまあ上の方に私の過去のWeb記事が表示されるようになった。そうなることは覚悟の上でやってるので、別にどうってことないけれど、疾患受容ができていなかった10代の頃の私からすれば、インターネット上に自分の顔や名前が表示されるなんて思ってもみなかっただろう。

なぜ、こんな真夜中に「見た目問題」とインターネットについて思いを巡らせているかと言うと、事の発端はリンパ管腫の美羽さんが下記のようなツイートをしていたからである。

とても共感できる!と言うか、私もやってたわって思い出した。あまりに期待はずれの回答だったので、質問したことさえ忘れていた。

「期待はずれなら、誰かに対面で相談すればいいじゃん?」と思われるかもしれないけれど、私にとってはこれはかなりハードルが高いことだった。一つは、家族や友人などの被事者に自分の悩みを理解してもらえるかどうか不安だったこと。さらに、悩みを打ち明ければ余計な心配をかけてしまうと思い、身近な人には相談ができなかった。以前、知人に私のライフストーリーを語った時に「神原さんの話には登場人物がいませんね」と言われて結構衝撃的だった。二つ目は、セルフヘルプ・グループの存在は知っていたけれど、そこに参加することに抵抗感があったこと。理由は、見た目の症状によって「目立つ」ことが苦痛であったためだ。1人で歩いているだけでも目立つのに、同じアルビノの人がぞろぞろと外を歩くと言うのは「どうぞ見てください!」と言っているようなもので、自分にはそれが自殺行為くらいに考えられたからだ(今はもう全くそんなこと思っていないし、アルビノで集団行動できるよ!)。そのようなこともあって、心のどこかで同じ当事者に会ってみたいなと思いつつ、色々なものが怖くて長い間他のアルビノ当事者とご対面が叶わずだった。

この状況の中で、わずかな希望となってくれたのがインターネットだ。

私が初めて自分がアルビノであると言うことを知ったのはkon-konのページという、アルビノの子どもを持つ母親が運営していたサイトだった。

現在は閉鎖してしまったようだが、当時、小学校6年生の私は初めて「白皮症」と検索して、サイトのトップページに昔の私そっくりな赤ちゃんの写真が掲載されているのを見て、それだけで正解に辿り着いたような気がした。それくらい衝撃的だった。

ネットが比較的身近になり始めた世代でもあるため、アルビノに限らずネット掲示板で顔の知らない誰かと繋がるということに、わりとすんなり馴染めたような気がする。

そうした、ネットとともにある生活を送る一方で、私は思春期を迎え「自分自身は何者なのか?」とアイデンティティが激しく揺れまくる暗黒の中高生時代を迎えることになる。が、上記の通り「誰にも心配をかけたくない」という思いから爆発しそうなモヤモヤを身近な誰かに吐き出すことはできなかった。だけど、互いの顔が見えないネット上なら、少しだけ弱音を吐けるようなそんな気がした。

当時はTwitterはまだ存在せず、私がアルビノに関して見ていたサイトはkon-konのページ、Yahoo!知恵袋、2ちゃんねるだった。今思うと、色々つっこみたくなるようなチョイスだなと思う。

kon-konのページには、確か掲示板機能があったような気がする(記憶が曖昧で申し訳ない)。確かその掲示板を利用するには登録か何かが必要だった気がするのだけれど、当時の私は「登録時に私であることが特定されてしまうのではないか?」と謎の警戒心を持っていたため、そのコミュニティに入りたいのに入れないという地上を夢見る人魚姫みたいなよくわからない状態だった。

当時はまだ「見た目問題」という言葉を知らなかったため「白皮症」か「アルビノ」で検索していた。「アルビノ」という名称よりも、病院でも白皮症と言われていたし、両親も白皮症という名称を使っていたため「白皮症」を多用していた。

Yahoo!知恵袋や2ちゃんねるで「白皮症」と検索すると、大体アニメのキャラかアルビノの動物についての質問やスレがほとんどだった。けれど、ごくたまに人間のアルビノについての質問やスレが立っていた。

結論から言うと、知恵袋の質問や2ちゃんねるのスレで「役に立った!」と言えるものは一つもなかった。仮にアルビノ当事者の質問があったとしても、それが本物なのかどうか信じきれなかったし、一度だけ自分も質問をしたことがあるが(特定されないように私なりに年齢をサバ読みしていた)、望んでいた回答とは少し違っていたような気がする。

時々、人間のアルビノスレが立つ2ちゃんねるは、言いたい放題という感じでアルビノの日本人に対して結構ひどいこと書かれていたと思う。二次元キャラや白人と比較されたり、当時からメディアに出ていた当事者の誹謗中傷だったり。私は見た目で批判をされたことがなかったために、余計に「これが世間の本音か…」と、書き込みを真に受けて本気で傷ついていた。

書き込みを見て傷つくくらいなら、見るのをやめればいいということはわかっていたけれど、他人の評価が気になる思春期に、それをやめるというのはそれはそれで難しい。

別に私個人に対しての書き込みではないのだけれど、「日本人のアルビノはスゲーブス」と書かれていて、本当に傷ついたし、自分に自信もなくなった。今だったら「自分の顔を鏡で見てから書き込みや!」と思えるけれど(それでも凹みそう)当時の私、というか、最近までできなかった。

こうして振り返ると、ネットはこちらが顔を出さない安心感がある一方で全然安心できる場所ではなかったし、それに気づかずかなり毒された私がいたことに気づく。

「インターネットは、相手の顔が見えないけれど、相手のことを思いやりましょう」なんていうネットリテラシーは私たちが小学生の頃からすでに教わってきたことだけれど、顔を出して外へ出ていくことが困難な当事者にとっては、誤った情報、不適切な発言、心無い誹謗中傷が溢れるネット上で藁をもすがる思いで、安心を求めているのだと思う。だから、安易に「ネットじゃなくてセルフヘルプ・グループに行け」とか「ネットに頼るな」とは私は言えない。

一度はリアルな当事者に繋がることがいいと思うけれど、その前段階としてネット上の当事者の存在に触れることは良いことだと思う。

だから私はTwitterやnoteをネット上にいる本物の当事者として意図的に利用している。

私が一番辛かった頃、TwitterやInstagramはなかった。けれど、今は違う。「今の時代は便利なものがあっていいわね」と嫌味を言うつもりは全くないけれど、少し羨ましいなとは思う。当時、SNSがあったらアルビノの人のアカウントを探して、その人に連絡をすることはなくとも、フォローして投稿を眺めるだけでも少しは違ったのではないかと思う。だから、私のTwitterは誰かの、もっと言えば思春期で悩むであろうアルビノや「見た目問題」当事者のために、そして、当時の私のために立ち上げたアカウントだ。

正直、アカウント開設当初ターゲットとしていた10代のアルビノや「見た目問題」当事者らしきフォロワーというのはあまり実感がない(ハッシュタグつけるの好きじゃないし、細々やっているなどの理由はいくつか思いつくけれど…)。けれど、1人でも、1度でも当事者の目に触れたことがあるなら、それは成功だとも思える。

美羽さんの言う通り、私も「ひとりじゃないよ。大丈夫だよ」と言葉をかけたい。大事なことから、日常の些細なことまで、Twitter芸人としてこれからもツイートをしていくまでだ。

ツイートを見て「とりあえず25歳までは生きられるし、アルビノであってもなんとかやってる」ということが伝わるといいなと思う。そしていつか、私でなくてもいいから、同じ当事者の誰かと出会うことができればきっと自分自身との向き合い方も変わってくるのではないかと思う。

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