あの老人を惨めと見るか、頑張れと応援するか。
10時ごろ家を出て、ムスメの喘息の薬を医者のオフィスまで取りに行った。歩道を、老人がヨタヨタと歩いていた。
ヨタヨタ。脳梗塞を患った父が病院で歩行練習をしていた時の姿に似ている。比較的大通りといえるその道は、最低速度40mph(=時速65キロ)だが、それ以上のスピードで車がビュンビュン走る。その老人の一歩は10cmくらいだったと思う。右肩を少し落として、ちょこちょこと歩いていた。
20分ほど運転して行く途中に、私のいつもの散歩コースがある。このところ天気が悪く歩いていないし、家でも気乗りがしなくて運動していない。今日はいい天気だけれど、明日は雨の予報。運よくスニーカー履いてるし、ジーンズじゃなくてスェットだし、ウクライナのニュースも溜まっているから、帰りにちょっと歩こうか、と考えながら、医者のオフィスまで向かった。
戻る頃には、せっかくだから歩いてから帰ろうと決断できた。車を停めてPodcastを聴きながら、同じように歩いている人に笑顔で手を振って、5キロ。40分足らず。
途中に、大きな石があり、その上に小さな石が積み上げられていた。小さな子供を連れたお母さんが子供と一緒に積んだのだろうか。それとも誰かが始めたソレを見た誰かが次々に、それぞれ石を乗せたのだろうか。じゃあ、私も。一つ追加。まるでアートだったから、写真を撮った。
そこから15分ほど運転して、家に向かった。あの老人が、反対方向に歩いていた。ヨタヨタ。手には買い物袋をぶら下げている。私が彼の姿を見てから1時間半ほどたっていた。
私の家から、彼が向かったであろうスーパーまで1.5キロほど。私が歩けば15分。私が彼を見たところからスーパーまでは1キロ弱。スーパーまで歩いて、買い物して、戻ってきたらしい。
運転する私なら40分足らずで往復できる買い物。彼はおそらく2時間かけてスーパーに買い物に行ったのだ。
彼を、惨めとみるか。あんなふうになりたくないと思うか。
私はそうは思わない。
お天気の良い日に彼は運動になるから歩いて買い物に行こうと思いついた。以前にも彼を見たことがあるような気がする。2時間かけて歩いて買い物に行く。体は不自由でも、それに甘んじない強さを感じる。どうせ時間はたっぷりある。カウチに座ってTVを見るよりも、動こう、歩こう、彼はそう思ったのだ。
そんなふうに前向きに生きる彼が、どうして惨めなのか。
他人の不幸を見て、自分の不幸はそれほどでもない、言い聞かせる人が多い。自分よりも不幸な人がいないと、幸せを感じられないのだろうか。幸せは他人と比較するものではない。幸せとは、自分の価値観の中で絶対値としてあるもので、相対的に幸せだとか不幸だとか判断するものじゃない。その上で、不幸な環境にある人たちをできる限り助けるのが、人の心の暖かさというものだ。
子供が巣立ち、私たちは老いる。手に余るほどの時間をどう過ごすか。他人との比較ではなく、自分が求める幸せの形を死ぬまで追い求める、少しでも幸せを感じる瞬間を多く抱えて、最期の瞬間を迎える。
そういう人生を送りたい。
ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。