見出し画像

①Renaママ生き方の価値観が変わったマリンドゥケ島への旅!

25歳から憧れのアパレル業界で働いていた私は、いつの間にか作り笑いが得意になっていた。

そして生活の中心が仕事になり、身も心も疲れ栄養ドリンクが精神安定剤に。

「もっと頑張って売り上げ取らないと!」ノルマに追われ休日はベッドから起きれない状態だった。

それでも洋服に囲まれ、お客様の笑顔を見るのは嬉しくやりがいをもっていたが、思い描いていた自分ではなくなっていた。

そんな矢先…父親からの電話。

久しぶりに聴く父親の声が懐かしく、天にも昇るほど嬉しくてたまらなかった。

前回のお話は👇から読んでください。

「元気か?お父さん似だからパワフルにやっているんだろう?」

大好きな父親の声は相変わらずパワフルだった。

「お前に頼みがあるんだけど、すぐにフィリピンのマリンドゥケ島に行ってくれないか?」

「えっ!?」

「マリンドゥケ島に建設中のホテルを視察に行ってほしいんだよ。若い女性の目で島を調査して欲しいんだよ。」

「ええっ??」

すぐには行けないけど…でも、父親の頼みなら力になりたい…。

「3日後に返事をするから。」

と言い電話を切った。

その瞬間目の前がパッと明るくなり、忘れかけていたワクワクが込み上げてきたのだ。

そして大好きな父親に必要とされている事に幸福感さえ覚えていた。

頭の中は行った事のないマリンドゥケ島でいっぱいだった。

「一緒に行く仲間を探さないと!」

急な誘いにもかかわらず、一緒に行ってくれる仲間が見つかりトントン拍子に話が進んだ。

そして2週間後には女子3人でフィリピンの離島マリンドゥケ島に向かっていた。

何かに導かれているとき、人は意識に関わらず突き動かされるように行動をおこすもの。

そんなときは頭で考えるまでもなく、そのときすべきことに向かって体が動くのだ。

フィリピンの離島マリンドゥケ島は義母の育った場所。

貧困の島でのボランティアを義母に頼まれ、父親が個人で活動していた。

そんな中、島の雇用を考えホテル建設事業にのりだしたのです。(父親の会社事業では無く、個人的なボランティア事業として)

広大な農園、教会とホテル建設、そして島の学校への支援。

島の学校への寄付は、宮城県の小学校の協力を得て年1回ランドセル・靴・洋服を集め島に送っていた。(もちろん父親の個人資金で)

父親の行動力やパワフルさは素晴らしく、娘としては1番尊敬する人物。

貧困の島へのボランティア活動は素晴らしい事ですが…義母がらみと分かると不安だった。

そして私の強力な仲間は、幼稚園からの幼なじみで何カ国も旅行経験のある会計士Rina。

もう1人は高知県で知り合った食文化に興味があるウェブデザイナーのRei。

マリンドゥケ島の旅は私の人生において重要な旅だった。

このマリンドゥケ島の旅があったからこそ、今のブランド起業に繋がるからだ。

私の限界を見ていたかのようなタイミングでの電話。

私は次のステップに導かれていたのだ。

自分らしく輝き、次のミッションに気付く為に。

マリンドゥケ島への旅は3泊5日の弾丸旅。

画像1

マリンドゥケ島(ボアク島)

人口‥217392人  島の大きさ‥日本の佐渡島くらい気候‥11月〜2月乾季 6月〜10月雨季        島民‥主にタガロク語、英語も使われる       町‥モッグポック・ボアク・サンタクルーズ・ガサン・ブエナビスタの6つの町  州都‥ボアク      歴史‥1565年から1946年までスペインの植民地   文化‥モリオネス祭が有名             経済‥農業が主、中でも米作とココナツ栽培が中心で漁業が盛ん

食‥米が主食、辛い料理はあまり無く、淡白な味付  果物はマンゴーやバナナ、沢山の珍しい果物が豊富  

成田空港から3時間でフィリピンのマニラに到着。

マニラ空港には、義母の兄弟と、大型タクシーの運転手さんが迎えに来ていた。

合計7人でフィリピン空港から4時間かけてルセナ港へ。

ルセナ港からマリンドゥケ島までフェリーで4時間。

長い道のりも、ずっと胸が高鳴って眠れずフェリーで朝を迎えていた。

画像2

神々しいまでの太陽は、今まで見た事のない光だった。

そして、私達は朝日に浮かぶマリンドゥケ島に到着した。

Renaママ



いつも、にこまる😊noteを読んでいただき、ありがとうございます。皆さんのスキとフォローが嬉しくて💗ニコニコだよ。これからも、にこまるの笑顔を皆様に届けられるように。Renaママ&にこまる