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ざっとわかるベラルーシの歴史

1.はじめに

2022年2月24日のウクライナ侵攻に伴い、ロシアと並んで注目されているのがベラルーシの動向です。ベラルーシは、ロシア、ウクライナとともに東スラヴ3国のひとつですが、他の2国と比べると日本ではあまりなじみのない国ではないかと思います。おそらくベラルーシと聞いて多くの人が思い浮かべるのが、独裁者のルカシェンコ大統領の顔くらいではないでしょうか。

今回はそんなベラルーシがどのような国なのかを、中世より現代にいたる歴史から見ていきたいと思います。

2.キエフ・ルーシ時代

ベラルーシ最古の都市は、9世紀にその存在が確認できるポロツクです。ポロツクは東スラヴ人の一派であるクリヴィチ族によって建造された都市でしたが、10世紀の終わりまでには、トゥーロフ、ミンスクなどの他の諸都市ともに、キエフ・ルーシの支配下に入りました。

キエフ・ルーシは、キエフ大公が統治する東スラヴ人国家でしたが、やがて各地方の公が自立していき、諸公の連合体へと変貌していきます。ベラルーシの地で最も権勢を誇ったのは、ポロツク公国トゥーロフ公国でした。特に、ポロツク公国はベラルーシ最古の国家と認識されており、ビザンツ帝国、バルト海沿岸地域、そしてスカンディナヴィアとの交易から富を得て発展しました。988年にウラジミール1世がキリスト教(ギリシャ正教)を受容すると、ポロツクとトゥーロフに主教座がおかれ、11世紀半ばにはキエフ、ノヴゴロドに続き、ポロツクに聖ソフィア聖堂が建造されました。

ポロツクの聖ソフィア聖堂。
現存する建物は18世紀に再建されたもの
By Александр Липилин -
http://lipilin2010.livejournal.com/55756.html, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=32425955

13世紀に入ると、モンゴル帝国がキエフ・ルーシの地に来襲しました。1240年にキエフが陥落したことでキエフ・ルーシは終焉を迎え、ベラルーシの地もモンゴルによって征服されてしまいます。

3.ポーランド・リトアニア時代

1253年、バルト系のミンダウガス公によってベラルーシの地にリトアニア大公国が建国されました。リトアニアは、キエフ・ルーシが瓦解した隙をついて東南方面に拡張し、14世紀半ばまでに、現在のベラルーシに加え、東はスモレンスク、南はキエフまでもその支配下に置くようになりました。

リトアニアは、東のモスクワ、西のドイツ騎士団の脅威から身を守るため、ポーランドに接近します。1385年の「クレヴォの合同」、さらに1569年の「ルブリンの合同」によって、ポーランドとリトアニアは、共通の王・議会・外交政策をもつ「両国民の共和国」と呼ばれる連合国家となります。

ルブリンの合同により、ヴォルイニ、ポドレ東部、キエフ、ポドラシェなどの諸地方がリトアニアからポーランドへと移管され、リトアニア領としては、ノヴォグルドク、ブレスト、ミンスク、ポロツク、ヴィテプスク、ムスチスラヴリの諸県が残りました。この時にポーランド領となった地域が現代のウクライナリトアニア領となった地域がベラルーシの原型となっていきます。

赤色がポーランド領、ピンク色がリトアニア領、 黒の実線が現在の国境を示す
この時期の分断線が、今日のウクライナとベラルーシの国境にほぼそのまま反映されている
CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1317464

1648年にウクライナでコサックの反乱が起きると、ロシアがこれに乗じて「共和国」に軍事介入します。ベラルーシの都市の大半がロシア軍とコサック軍によって陥落し、大きな損害を受けました。1648年には停戦協定が結ばれますが、1700年から1721年にかけて、今度はロシアとスウェーデンによる大北方戦争の惨禍に見舞われます。この2度の戦争で、ミンスクは灰燼に帰したと言われています。

4.ロシア帝国時代

大北方戦争に勝利したロシアは、同盟国のプロイセンオーストリアとともに、「共和国」への影響力を強めました。1772年、1793年、1795年の3次にわたる「ポーランド分割」が行われ、「共和国」はロシア、プロイセン、オーストリアの三国によって分割され、消滅しました。この分割を経て、ロシアは現在のベラルーシのほぼ全域を獲得しました。

旧「共和国」の貴族たちはロシアに対し、度々独立運動を起こしました。特に1863~64年に起きた1月蜂起の際には、蜂起を率いたヴィンツェンティ・コンスタンティ・カリノフスキが、『農民の真実』というベラルーシ語のパンフレットを出版して農民への政治運動を行うなど、後にベラルーシ・ナショナリズムの先駆と評価される行動を起こします。

ヴィンツェンティ・コンスタンティ・カリノフスキ(1838-1864)

しかし、ベラルーシでは西部においては独立に積極的な支持が見られたものの、東部における反応は冷淡であり、ロシア側について戦う者もいました。東部はロシア正教会の影響が強かったことなどが原因と考えられています。

5.ソ連時代

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロシアは劣勢に立たされ、ベラルーシはドイツの占領下となりました。ベラルーシのナショナリストたちは、ドイツ軍の進撃を好機とみて、1918年3月25日に「ベラルーシ人民共和国」の独立を宣言します。しかし、期待していたドイツからの支援は得られず、ボリシェヴィキ率いる赤軍に敗退します。

ベラルーシ人民共和国の国章。リトアニア大公国の紋章に由来。

1919年1月1日、ミンスクを首都とする「白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国」の建国が宣言され、1922年12月30日の同盟条約に参加して「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の構成国となります。

ソ連政府は当初現地化政策を採用していたため、ベラルーシにおいてもベラルーシ語文化・教育が推奨され、現地の人材が要職に登用されました。しかし、1920年代末にヨシフ・スターリンが実権を握ると、初期に活躍した文化人が処刑、「民族主義的偏向」「人民の敵」などの汚名を着せられた60万人~100万人の市民が抑圧されました。

1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約に反してソ連に侵攻、同年8月末にはベラルーシ全土を占領します。ドイツによる占領は過酷でしたがパルチザン活動は続けれ、1944年7月までにはドイツ軍から解放されます。しかし、ベラルーシの被害は甚大であり、住民の4分の1、国富の半分が失われました。ミンスクでは、破壊されなかった建物はわずか70棟だけだったと言われています。

ブレスト要塞にある巨大な石像
独ソ戦の際に一番最初にドイツ軍からの攻撃を受けたブレストは、大戦後「英雄都市」となった
By exclusive, CC BY 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=36331817

戦後ベラルーシは急ピッチな都市化・工業化により復興を成し遂げました。ソ連内の分業体制の中で、天然ガス、原油といった原燃料をロシアから移入し、機械や消費財等の商品をロシアへ供給するようになったことから、「ソ連の組立工場」と称されるようになりました。

1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」を推進したことで、構成共和国は連邦からの独立へと傾いていきます。ベラルーシはソ連への帰属意識が強固でしたが、他の共和国に倣い、1990年7月27日に「国家主権宣言」を採択して、翌年9月には正式名称を「ベラルーシ共和国」に改めます。

1991年12月、ベラルーシ西部のベロヴェージの原生林で、最高会議議長のスタニスラフ・シュシケヴィチ、ロシア大統領ボリス・エリツィン、ウクライナ大統領のレオニード・クラフチュークの3首脳が密かに会談を行い、ソ連の解体と「独立国家共同体(CIS)」の創設で合意しました。25日にゴルバチョフがソ連大統領職を辞任したことで、ソ連は消滅しました。

ベロヴェージ合意に調印する3首脳
By RIA Novosti archive, image #848095 / U. Ivanov / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17824662

6.独立後のベラルーシ

独立後のベラルーシでは、民族理念に軸足を置く路線を採用されました。しかし、ソ連時代の価値観が抜けきらなかった国民はベラルーシ化政策に戸惑いを示しました。さらに、ソ連内部での分業体制で成り立っていたベラルーシ経済は、ソ連が崩壊し、他の構成国との関係が分断されたことで大打撃を受けました。独立後の混乱の中で、ベラルーシの国民の間ではソ連復古を望む声が強まっていました。

こうした中で行われた1994年の大統領選挙において、汚職追放、国家主導の経済改革、ロシアとの統合などの大衆迎合的な公約を掲げたアレクサンドル・ルカシェンコが当選しました。

1994年の大統領選挙一回目投票結果。青色がルカシェンコが多数となった選挙区。
この後、本命候補といわれたケビッチ首相を決選投票で破る
By BSMIsEditing, CC BY-SA 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=93109944

ルカシェンコ大統領は、1996年の憲法改正によって大統領権限を強化し、最高会議を解散して新たな議会を創設するなど、強権的な体制を構築していきました。その後、「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれるほどの、20年以上にわたる長期政権を維持しています。

経済面では、経済自由化を推進せず、国営企業を維持する国家管理型の経済モデルである「社会的志向の市場経済」を打ち出しました。90年代後半には経済は安定し、2014年に至るまで(公式の統計上は)一貫して成長を続けました。一人当たりの国民総生産(GDP)は世界66位と「高中所得国」に位置付けられ、旧ソ連構成国の中では、ロシア、カザフスタン、アゼルバイジャンに次いで高くなっています。

1973~2018年のベラルーシのGDPの推移
By Max Roser - Our World in Data: https://ourworldindata.org/grapher/maddison-data-gdp-per-capita-in-2011us?country=, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=115282966

就任した当初のルカシェンコは、ロシアとベラルーシを統一し、自らがその国家元首となるという野望を抱いていました。そのため、ロシア語をベラルーシ語と並ぶ国家語に格上げし、経済・国家を統合するための様々な条約をロシアと締結しました。

しかし、ロシアの国益を精力的に追及するウラジーミル・プーチンが大統領に就任したことで、この野望は非現実的なものとなりました。プーチンによって国内の権力基盤を切り崩されることを恐れたルカシェンコは、自らの政権を守り抜くために、ベラルーシの独立と主権を強化する方向に傾きました。

ルカシェンコとプーチン。2000年
By Kremlin.ru, CC BY 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5117838

ベラルーシは、経済、エネルギー、軍事などの面でロシアと切り離せない関係にありますが、一方で天然ガスの価格をめぐって対立したり、ベラルーシがEUへ接近したりと、つかず離れずの関係にあります。

7.まとめ

ベラルーシの歴史を一言で表すなら、民族の独自色が薄いということになるかと思います。

例えば、隣国のウクライナやリトアニアは、キエフ・ルーシやリトアニア大公国を自らの輝かしい歴史としています。ベラルーシはどちらにも関係していますが、ベラルーシの固有の歴史とは言いずらいです。

その後、ポーランド、ロシア帝国、ソ連と次々に征服者が変わっていきますが、それに対する抵抗の歴史というのも印象が薄いです。19世紀に起きた蜂起は必ずしもベラルーシ人から歓迎されるものではなく、史上初の独立国家となるベラルーシ人民共和国も、ごく短期間しか続きませんでした。こうした事情から国民的英雄や偉人のような人物も少ないです。

独立後はソ連へのノスタルジーが強く、国旗・国章に関してはソ連時代のデザインに酷似したものが、国歌に関してもソ連時代と同じメロディーで歌詞だけ微修正したものが使用されています。

ある意味、この独自色の薄さが、ベラルーシの独自性といえるかもしれません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考


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