【近現代ギリシャの歴史2】ギリシャ人意識の芽生え
こんにちは、ニコライです。今回は【近現代ギリシャの歴史】第2回目です。
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前回の記事では、オスマン帝国によるギリシャ征服と、オスマン支配下のギリシャ人たちについて各身分ごとにまとめました。オスマン帝国の下、決して「圧政」とはいえない寛容と自治を享受していたギリシャ人たちでしたが、18世紀末になると、「トルコ人の支配」を打倒し、独立国家を築こうとする動きが起こります。彼らが独立を目指すようになるきっかけとなったのは、西欧からもたらされた啓蒙主義、そして、ギリシャ人「意識」でした。今回は、18世紀末から19世紀初頭のギリシャ人の民族意識の変化について見ていきたいと思います。
1.ギリシャ人の自己意識
現代ギリシャ語では、ギリシャ人のことを「エリネス」といいます。これは古代ギリシャ人の自称である「ヘレネス」と同じであり、現代のギリシャ人たちは自らを古代ギリシャ人の子孫と見なしているからこそ、このような呼び方をしているのです。
しかし、中世から近世に生きたギリシャ人たちは、違う呼び方をしていました。それは「ロミイ」です。これは「ローマ人」という意味で、中世のローマ帝国であるビザンツ帝国の臣民、かつ正教徒であることを意味し、さらに狭義には、この二つにギリシャ語話者という意味が加わります。オスマン帝国時代のギリシャ人たちも、自らをビザンツ帝国臣民の末裔として「ロミイ」と自称していました。
正教徒であるロミイたちは、多神教徒であったヘレネスたちと自らの歴史が連続しているとは考えていませんでした。また、古代ギリシャの遺物も自分たちの先祖のものとは思っておらず、伝説の領域に属す神秘的なものと理解していました。19世紀初頭、イギリス大使のエルギン卿がパルテノン神殿から古代の彫刻を持ち出した際、雇った地元民が途中で仕事を放棄することがあったそうですが、その理由は彫刻を粗末に扱った祟りを恐れたためだといいます。
このように、現代ギリシャ人とロミイ、すなわち近世のギリシャ人たちとでは、自己意識がかなり異なっているのです。
2.親ギリシャ主義
では、ロミイたちはいかにして、ヘレネスとしてのアイデンティティを獲得したのでしょうか。それには、当時の西欧からの影響があります。
15世紀のルネサンス以降、西欧では古代ギリシャ文明をヨーロッパ文明の源流と見なすようになりました。18世紀後半には、「ギリシャ的理想」と呼ばれる古代ギリシャへの憧憬や崇拝が最高潮に達しており、西欧の上流階級の間では実際にギリシャの地を訪れるグランドツアーが流行しました。こうした西欧におけるギリシャ熱を親ギリシャ主義といいます。
西欧からの旅行者たちは、その地に住むギリシャ人を古代ギリシャ人の末裔であると見なしました。そして、ギリシャ人たちがイスラム教徒の異民族によって支配されている現状を嘆き、再び自由を獲得することを望み、そのために救いの手を差し伸べるのが自分たちの責務であると感じていました。
親ギリシャ主義者として、特に有名なのはイギリスのロマン派詩人バイロン卿です。バイロンは、1809-11年にかけてギリシャを旅行し、帰国した翌年の1812年に詩集『チャイルド・ハロルドの遍歴』を出版しました。この中では、オスマン帝国に従属する当時のギリシャと自由を謳歌していた古代ギリシャを対比し、ギリシャ再生の願いを歌い上げられています。
3.古代ギリシャの「再発見」
こうした西欧の親ギリシャ主義は、最初はヨーロッパ各地のギリシャ人移住者へ、やがて、オスマン帝国領内のギリシャ人知識人たちにも影響を与えました。帝国内外のギリシャ学校では、古代ギリシャ語、古代ギリシャ史、ギリシャ古典に重点を置いた授業が行われるようになりました。また、古代の英雄の伝記が流行し、子供の洗礼名にキリスト教の聖人ではなく、テミクレスやレオニダスといった名を使うことが流行しました。
もうひとつ、ギリシャ人たちを刺激したのが、同じく当時の西欧で流行していた啓蒙思想です。ヴォルテールやモンテスキューといった、代表的な啓蒙思想家は、そろってオスマン帝国の野蛮さを批判しており、ギリシャ人知識人たちは、オスマン帝国のギリシャ人たちが生きている政治、社会、文化的環境が「遅れている」と判断するようになりました。
こうしたギリシャの知的潮流ををけん引することになったのが、思想家アダマンディオス・コライスです。古典学者であったコライスは、長年パリに在住し、フランス革命といったヨーロッパの大変革を目の当たりにしていました。彼はギリシャ人が真の自由を獲得するためには、自分たちのルーツである古代ギリシャの学問的伝統を自覚する必要があると考え、ギリシャ古典の出版活動に従事しました。
4.古代崇拝VS正教会
こうした古代崇拝の風潮を危険視したのが、正教会です。前回の記事で紹介した通り、正教会は、ギリシャ人をはじめとするオスマン帝国内の正教徒たちの自治を司っており、古代崇拝はこうした体制への批判につながっていたからです。1798年、イスタンブルの世界総主教座は『父の教え』と題するパンフレットを出版し、スルタンこそがキリスト教の保護者であり、神の意志に従い、既存の体制を維持することが正教徒のなすべきことだと主張しました。
これに対し、コライスは『兄の教え』という文書で対抗しました。コライスによれば、ギリシャ人を堕落させ、無知蒙昧に陥れている元凶はキリスト教であり、長年にわたってギリシャ人が隷属する身分になりさがった原因は、ビザンツ帝国が皇帝たちの分別を欠いた愚かさによってトルコ人にとって代わられたためでした。そして、この境遇から抜け出すためには、ビザンツ帝国の伝統を引き継ぐ正教組織を否定し、古代ギリシャとの絆を再確認することが必須であるとしました。
こうしてコライスは、正教徒を意味するロミイではなく、エリネスをギリシャ人の呼称とするよう提唱しました。18世紀末から19世紀初頭にかけて、ギリシャ人の間では、これまで自分たちの過去と考えられてきた正教ビザンツ世界が軽視・軽蔑され、代わって、古代ギリシャとのつながりが新しいアイデンティティの核となっていったのです。
5.秘密結社フィリキ・エテリア
オスマン帝国支配下のギリシャ人たちは、全員が帝国の支配体制に忠実であったわけではなく、1571年や1770年にはペロポネソス半島で大規模な蜂起を起こしています。しかし、これらには明確な政治的目標があったわけではありませんでした。最初のギリシャ独立を目指した計画的反乱は、18世紀末のウィーンで企てられました。
その企てを行ったのが、リガス・ヴェレスティンリスです。ウィーン滞在中にフランス革命の影響を受けたリガスは、自身の政治パンフレットを発行し、ナポレオンのギリシャ入りを持って蜂起を起こし、オスマン帝国からバルカンの諸民族を解放して、フランスをモデルとしたギリシャ共和国を建国することを目指しました。しかし、この活動はオスマン当局に察知され、1798年、リガスは処刑されてしまいます。
しかし、リガスの精神は死にませんでした。1814年、リガスに影響を受けた三人のギリシャ人商人によって、ロシア帝国領オデッサにて、武装蜂起によるギリシャ解放を目指す秘密結社「フィリキ・エテリア」(「友愛協会」の意)が結成されました。エテリアにはオスマン帝国内だけでなく、ヨーロッパ各地のギリシャ人が入会し、その会員数は2000~3000人に上ったとされます。そして、その総司令官には、ロシア軍将校であったアレクサンドロス・イプシランディスが就任しました。
ギリシャ人はいよいよ独立に向けて行動を開始することになります。
6.まとめ
西欧からの影響を受けたギリシャ人たちは、古代ギリシャを自身の過去として「再発見」し、「トルコ人支配」から独立を目指すようになります。前回のまとめた通り、オスマン帝国の支配体制は、実際は特別過酷なものであったわけではなく、それどころか、一部の特権層のギリシャ人にとっては自らの利益になるものでもありました。しかし、ギリシャ人たちの認識が変わったことで、それは「悪」と決めつけられ、打倒すべき相手と見なすようになったのです。以降、ギリシャ人知識人、および西欧人たちによって、ギリシャは理想化、オスマン帝国は悪魔化され、文明的なヨーロッパ=ギリシャVS野蛮なアジア=オスマン帝国という対立構図が作り出されていきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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