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【日露関係史2】ロシア人の日本到来
こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第2回目です。
前回の記事はこちらから!
前回の記事では、江戸時代の日本人がロシアへ漂流していったことをとりあげましたが、それと同時に、ロシア人の方も北太平洋を南下し、日本人の住む蝦夷地(北海道)へ接近していました。両国の接触は時間の問題となっており、18世紀後半になるといよいよロシア人が日本の地に到来することになります。今回は、ロシア人の蝦夷地到来とそれに対する日本側の対応について見ていきたいと思います。
1.「はんべんごろう」事件
1711年にイヴァン・コズィレフスキー率いる探検隊が千島列島第1島である占守島に上陸して以降、ロシア人は千島列島を南下していきました。1765-1769年の探検では、中部千島最後の得撫島に到達、その後南部千島の択捉島にまで到達しました。当時蝦夷地を管轄していた松前藩は、宝暦9年(1759)ごろには、千島北方の島々でアイヌではない異国人が活動していることを察知していたようです。しかし、彼らがどこの国から来た人間なのかは不明なままでした。
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千島へと渡ったロシア人たちは、その地に住むアイヌを支配下に置き、税として毛皮を徴収した。
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こうした中、明和8年(1771)にロシア人の存在を日本人に知らしめる事件が起こります。この年、カムチャツカの本拠地であったボリシェレツクで、流刑囚のモーリツ・アラダール・フォン・ベニョフスキーが反乱を起こして官船聖ピョートル号を乗っ取り、中国のマカオに向けて出港しました。ハンガリー人であるベニョフスキーは、ポーランド独立運動に参加してロシア軍の捕虜となった人物で、最終的にはヨーロッパへと帰還しようとしていました。
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当時のオランダ通詞(通訳)は「フォン」を「ファン(はん)」、「ベニョフスキー」を「べんごろ」と訳したため、ベニョフスキーは「はんべんごろう」として知られるようになった。
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この航海の途中、ベニョフスキーは補給のため土佐、阿波、奄美大島に立ち寄りました。その際、長崎のオランダ商館長宛てに手紙が送られており、その中では、ロシア人が千島列島を南下し、翌年には蝦夷地へと侵攻してくるということが警告されていました。当時ロシアがこうした計画をしていた事実はなく、これは「ほら吹き男爵」のあだ名で知られたベニョフスキーによる虚言だったとされています。しかし、この警告文によって、日本人たちは「リュス」あるいは「るうしや」という北の脅威に突如として直面することになったのです。
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1世紀以上日本との貿易を独占していたオランダ人にとっても、ロシアの南下は大きな関心事であった。
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2.ロシア人の蝦夷地到来
安永6年(1777)、イルクーツク商人ドミトリー・シャバリン率いるナタリア号が突如根室に到来しました。「はんべんごうろ」の警告通り、本当にロシア人が蝦夷地へと訪れたのです。しかし、シャバリンの目的は侵略ではありませんでした。千島は資源に乏しく、ロシア人たちが生活することは困難であったため、食糧や日用品を求めて日本と交易をしようと試みたのです。
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ラッコは千島列島からカムチャツカ、アラスカ近海の住み、ロシア人たちはその毛皮を求めて千島列島を南下した。
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上陸したシャバリンらは、根室にいた松前藩士たちに交易を申し入れました。これに対し藩士たちは、交易をするためには松前の藩主に報告し、さらに江戸の幕府に許可を得なければならず、その可否は翌年の夏に回答すると答えました。交易の約束ができたと思ったシャバリンは、一度拠点であるオホーツクに戻って1万8000ルーブル相当の交易品を積み込み、安永8年(1779)春、再び蝦夷地を訪れて厚岸にて日露会談に臨みました。
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松前藩は東蝦夷地各地に商場や請負場所を設置し、アイヌとの交易を行っていた。しかし、交易を請け負った商人たちによるアイヌへの搾取や虐待は酷いものであった。
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しかし、日本側の回答は、ロシア人の択捉島、国後島への渡来を禁止し、直接の交易は許されないが、必要な品がある場合は得撫島のアイヌを通じて届ける、というものでした。幕府の介入を嫌った松前藩は、ロシア人の到来について幕府に報告しておらず、当然交易の許可も得ていなかったので、アイヌを通じた仲介貿易を提案したのでした。結局、日露交渉は不調に終わり、交易は樹立しませんでした。
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本来は択捉島で会談する予定であったが、日本側の到着が大幅に遅れたため、シャバリンは西へ西へ移動し、両者は厚岸でようやく日本側と落ちあった。
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3.ロシア研究の活発化
幕府は、世間の混乱を招かないよう「はんべんごろう」の警告文を公表しませんでした。しかし、その内容はオランダ通詞を通して地方藩士の知れるところとなり、当時の知識人の間でロシア研究が盛んに行われるようになります。例えば、仙台藩士林子平は、『三国通覧図説』と『海国兵談』を著し、ロシアの南進に対抗して北辺の防備を固めることを主張しました。また、経世思想家として知られる本多利明も、『蝦夷拾遺』で北方警備の必要性を説き、蝦夷地開発を必要性を訴えました。
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国防論を説いた子平は、流言によって国家の安全を脅かしているとされ、半年間投獄された上、釈放後も生涯仙台で謹慎処分となった。
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この時期のロシア研究者の中でとりわけ有名なのが、仙台藩医工藤平助です。工藤は、松前藩の知人からロシア人の到来や密貿易の噂を聞いており、さらにオランダ通詞や蘭書からロシアの情報を入手し、独自にロシア研究を進めていました。工藤は松前と長崎の知識を合体させ、さらに自身のロシア対策論を加えた『赤蝦夷風説考』という書物をまとめあげました。
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「赤蝦夷」とはロシア人のことで、アイヌが猩々緋の衣服をまとったロシア人を「赤い人」と呼んだことにちなむ。
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この中で工藤は、ロシア人には侵略の意図がないと分析し、蝦夷地ではすでにロシア人との密貿易が行われていることから、これを防ぐために幕府はロシアとの貿易を許可する他ないと述べ、さらにその利益で蝦夷地を開発し、国力充実を図ろうと主張しています。こうした蝦夷地開拓論は、積極的な殖産興業政策を採用していた老中田沼意次の意向と合致し、天明5年(1785)に、5人の普請役を責任者とする探検隊が蝦夷地へと派遣されることになりました。
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宝暦・明和・安永・天明期間の老中。従来は賄賂政治を横行させたという批判を受けたが、現在では積極的な経済政策を推進したと再評価されている。
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4.最上徳内とイジュヨ
天明5年の探検では、松前藩が秘匿にしていた安永年間のロシア人到来やロシア人とのアイヌを通した仲介交易、さらに、松前藩から交易を請け負っていた商人たちによるアイヌに対する搾取の実態が明らかになりました。また、当時情報がなかった蝦夷地の地理調査も行われ、普請役の佐藤玄六郎が幕臣として初めて蝦夷を船で周回しました。
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当時は蝦夷地の地理情報はほとんどわかっておらず、図の北海道は縦長に描かれており、樺太は極端に小さく、千島列島の並びはバラバラである。
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翌天明6年(1786)には第二回探検隊が派遣され、樺太や千島の調査が行われました。このとき、竿取(測量役)として参加していた最上徳内が、日本人として初めて択捉島に渡り、そこでセミョン・イジュヨら3人のロシア人と出会います。これが幕臣とロシア人との初めての遭遇となりました。イジョヨはヤクーツクの毛皮事業会社に雇われており、安永9年(1780)に得撫島で遭難したロシア船を引き揚げにきたものの、そこで仲間同士の争いが起きたため、アイヌを頼って択捉島に脱出していたのでした。
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本多利明の高弟で、本多に代って天明の蝦夷地探検に参加した。
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徳内はイジュヨを尋問しますが、彼はかなりの知識人だったようで、徳内にロシア事情(地理、歴史、政治、宗教・言語など)や、千島の正確な地理情報などを提供しました。徳内はイジュヨの博学さに驚いており、彼の聞いた内容をもとに後に10冊以上の写本が出版されます。その後、イジョヨは徳内の説得で千島経由で帰国することになりますが、徳内と別れた後も本国からの指令を待って択捉島にとどまり、実際に帰国したのは寛政3年(1791年)のことでした。
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得撫島植民団の一人、ヴァシリー・ズヴェズドチョトフを描いた図。ロシア側は得撫島への植民を度々試み、数十人の男女を送り込んだ。
CC0, https://www.digital.archives.go.jp/item/4297150
5.ラクスマン来航と鎖国論の台頭
こうして成果を上げた蝦夷地探検でしたが、田沼が失脚し、松平定信が老中に就任すると突如中止となりました。その推進者だった松本伊豆守秀持も謹慎処分に処され、探検隊は報告書の提出さえ却下されてしまいました。伝統的な鎖国政策への回帰を目指す定信は、蝦夷地開発がかえってロシア人を引き寄せるとして、探検隊の成果を無視したのです。
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田沼失脚後の老中。田沼時代の積極的な商品経済政策や開国的風潮を否定し、伝統的な自然経済政策・対外関係の幕府独占を採用した。
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こうした中、寛政4年(1792)に、遣日使節アダム・ラクスマンが大黒屋光太夫ら漂流民を送還するために根室へと来航した出来事は、幕府に大きな衝撃を与えました。このとき、幕閣の意見は「打ち払い」と「長崎回航」の2つに割れますが、定信はロシアとの武力衝突やロシア船の江戸直航を恐れたため、最終的に松前にて漂流民の受け取りのみを行うと決断しました。
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ラクスマン来航は幕府に衝撃を与える一方で、漂流民の送還という親切な行為や光太夫らがもたらした情報から、ロシアは「賢君が治める文明国」という良いイメージを持たれるようにもなった。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12779887
ラクスマン来航とヨーロッパの国からの最初の帰還民は世間の注目を集め、蘭学者を中心にロシア研究が再び活発化しました。その一方で、国防強化に関する議論も盛んに行われました。特に有名なのが、享保元年(1801)に刊行されたオランダ通詞志筑忠雄の『鎖国論』です。これはオランダ商館員エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』を抄訳したもので、オランダ以外のヨーロッパ諸国とは通交をしないのが良策と訴えたものでした。『鎖国論』は幕府の有力な相談役であった林述斎や柴野栗山らによって支持され、幕府の政策に反映されていくことになります。
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エンゲルベルト・ケンペルによる17世紀末の日本に関する紀行文。当時においては日本事情を伝える貴重な本であり、英語、ドイツ語、フランス語など各国語に翻訳され、日本でも依然から知られていた。
CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=47049341
6.まとめ
日本への欧米人の来航といえば、オランダを除くと1854年のペリー来航から始まるようなイメージをもっている方が多いのではないでしょうか。しかし、実際はそれよりも80年近く前から、ロシア人たちは交易を求め、日本に接近していたのです。しかし、交易を求めるロシア人の来航は、かえって日本での鎖国論の台頭を招きました。実は、日本人の鎖国祖法観の形成には、ロシア人の来航が大きく影響していたのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
ロシア帝国時代の日露交流全般については、こちら
ロシアへと渡った日本人漂流民については、こちら
ロシアのシベリア・北太平洋への進出については、こちら
千島列島をめぐる日露の歴史につては、こちら
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