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【ビザンツ帝国の歴史5】帝国の危機と変容~古代ローマから中世ビザンツへ~
こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の第5回目です。
前回の記事では、皇帝ヘラクレイオスによるペルシャ軍への勝利と、その直後における新興勢力イスラムへの大敗について見ていきました。ヘラクレイオスから始まり、約100年間続いたヘラクレイオス朝の時代、ローマ帝国はかつての栄光を失い大国から転落していきました。この時代を通称「暗黒時代」と呼びます。今回は、この暗黒時代における国家存亡の危機と、それに伴う帝国の変容について見ていきたいと思います。
1.後継者問題
641年にヘラクレイオスが亡くなると、宮廷では熾烈な後継者問題が起こりました。ヘラクレイオスには先妻エウドキアと後妻マルティナにそれぞれに子供がいましたが、彼の遺言状には二人を「同等の権限をもつ皇帝」とすると書かれていたからです。ヘラクレイオスは後妻マルティナを深く愛していたため、このような遺言となったのだと思われます。
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マルティナはヘラクレイオスの姪であり、二人の結婚は近親相姦であるとして宮廷のスキャンダルになっていた。
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遺言に従い、先妻の子コンスタンティノス3世とマルティナの子ヘラクロナスが共同皇帝となりましたが、コンスタンティノスとマルティナは政権運営の主導権をめぐり激しく対立します。両者の争いは、コンスタンティノープル総主教、元老院、さらには軍隊までも巻き込んで混迷を極めました。しかし、若いながら病身であったコンスタンティノスは、共同統治が始まってわずか3か月後にこの世を去ってしまいました。
こうしてマルティナとヘラクロナス母子が勝利したかに見えましたが、事態は思わぬ方向に向かいます。市民と元老院、そしていくつかの軍団が、コンスタンティノスの長子コンスタンスを皇帝にするように迫ったのです。翌年はじめには宮廷で反乱が起こり、皇帝母子は逮捕され、二度と帝位に就けないようヘラクロナスは鼻を削がれ、マルティナは舌を抜かれてしまいました。こうしてヘラクレイオス死後の後継者問題は、ヘラクレイオスの孫、11歳のコンスタンス2世が即位することで終息しました。
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前者は王朝最後の皇帝、後者はその跡を襲った簒奪皇帝
こうした人体損壊刑は単なる懲罰ではなく、「皇帝は五体満足でなければならない」という考えに基づき、その政治生命を断つ意味があった
2.地中海へ進出するイスラム
皇帝政府が権力闘争に明け暮れている一方で、新興のイスラム勢力は着実にその支配領域を広げていきました。642年には、首都からの援軍が来なかったためにエジプトのアレクサンドリアを占領し、また、ニハーヴァンドの戦いに勝利してササン朝ペルシャを滅ぼします。640年代後半になると、小アジアへの侵攻を繰り返すようになりました。
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緑色がムハンマドが死去した632年の勢力範囲、茶色が661年まで続く正統カリフ時代に拡大した範囲、クリーム色が750年まで続くウマイヤ朝時代の支配領域
さらに、シリア、エジプト沿岸を確保したイスラムたちは、現地の人々を使って艦隊の建設にとりかかりました。砂漠の民だったアラブ人たちが、海へと進出したのです。649年、総督ムアーウィヤの指揮のもとイスラム軍の艦隊はキプロス島を襲撃、数年後にはロードス島に上陸しました。ローマ人が「われらの海」と呼んだ地中海は、「キリスト教徒が板1枚浮かべることのできない」イスラムの海になっていきます。
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ロードス島に存在していた高さ32mの太陽神ヘリオスのブロンズ像。島を占領したイスラム軍によって運び出され、金屑として売り払われてしまった。
655年、20代前半となっていたコンスタンスは、自ら艦隊を率いて小アジア南西部のリキア沖でイスラム軍艦隊との決戦に挑みました。これは「帆柱の戦い」と呼ばれ、皇帝自らが艦隊決戦に臨んだ事例としては、前31年のアクティウムの海戦以来でした。しかし、戦いは最初からイスラム側が優勢で、帝国軍は無残にも敗北します。コンスタンスは水夫のひとりと服を交換して戦場を離脱し、コンスタンティノープルに敗走しました。
3.国家存亡の危機
コンスタンスは、イスラム勢力の内紛に乗じてムアーウィヤと和平を結び、今度は西方へと出征しました。しかし、668年、身内の裏切りに合い、シチリア島のシラクサで暗殺されます。享年37歳でした。
コンスタンスの跡を継いだのは、長子コンスタンティノス4世です。コンスタンティノスは父を暗殺した反乱軍を鎮圧しますが、すぐに次の脅威に直面します。674年、ウマイヤ朝の初代カリフとなったムアーウィヤがイスラムの陸海軍を帝都に派遣し、大規模な包囲戦をしかけてきたのです。包囲は4年間も続き、帝国は滅亡寸前にまで追い込まれますが、帝国軍は秘密兵器「ギリシャの火」を投入してイスラム艦隊を破り、なんとか包囲を解くことに成功します。
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シリア出身のカリニコスによって帝都にもたらされた秘密兵器。その精製法は不明であるが、原油、樹脂、硫黄などの混合物であるとされる。ポンプによって筒から発射され、その火は水をかけても消えず、逆に燃え広がったという。特に海戦で効果を発揮し、帝国を度々勝利へと導いた
しかし、コンスタンティノスには息をつく暇もありませんでした。今度は、トルコ系遊牧民ブルガール人がドナウ川下流域に表れたのです。681年、コンスタンティノスは先手を打って彼らを叩くため、自ら軍を率いて出征しましたが、戦場で痛風を発症したため、すぐに帝都へと戻ってしまいます。突然の皇帝帰還に足並みが乱れた帝国軍はブルガール人に敗北してしまい、皇帝は彼らがドナウ南に定住することを認めなければなりませんでした。この結果、帝国は首都に近いトラキア地方の北方に、潜在的な強敵を抱えることになります。
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もともと黒海とカスピ海の間のステップ地帯にいたブルガール人たちは、東方から来たハザール人に圧迫され、西方へと移動した。バルカン半島に定住した彼らは、やがてスラヴ人と同化していき、今日の「ブルガリア人」の祖先となった
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685年、コンスタンティノスは30代半ばで急死し、息子のユスティニアノス2世が跡を継ぎます。彼が695年に帝位を追われてからの約20年間は、新たな皇帝が即位してはすぐに反乱が起こって廃位されるという内乱と混乱の時代となりました。軍司令官、高官の子息、国家官僚など様々な出自の人物が帝位に就き、その数は7人にもなりました。
4.危機の脱出
717年、クーデターによって即位したばかりのレオン3世が直面したのは、カリフの弟マスラマ率いるイスラム陸海軍による帝都包囲戦でした。イスラム軍は帝都を兵糧攻めにして降伏させようとしますが、この動きを事前に察知していた帝国側は、食糧や飲み水をたっぷり貯えており、生活物資に困ることはありませんでした。
むしろ、食糧不足に陥ったのは包囲しているイスラム軍のほうでした。その年はたまたま厳冬となり、豪雪によって百日間も地面が見えなかったといいます。そのため、陸路から物資を運ぶことができなくなってしまい、兵士たちは運搬用のロバやラクダ、木の根や葉、果ては人肉や人糞までも口にする羽目になりました。
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718年春、エジプトから援軍の船団が到着しますが、物資を届ける前に、帝国艦隊の「ギリシャの火」によって焼き尽くされてしまいました。さらに、帝国側が有利と見ると、レオン3世が同盟関係を築いていたブルガリア人たちがイスラム軍を後方から襲い、大打撃を与えました。その年の夏、イスラム軍はようやく諦め、包囲を解除して撤退していきました。
レオン3世は、ブルガリア人を味方に引き入れただけでなく、敵を同じくするハザール国と同盟するなど、巧みな外交政策によってイスラム勢力に対抗しました。そして、740年のアクロイノンの会戦でもイスラム軍に大勝します。イスラム勢力の侵攻はその後も繰り返されますが、帝国は約100年間続いた存亡の危機をなんとか乗り切ることに成功したのです。
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その勇敢さから「獅子」とあだ名され、即位後にそれを正式な名前とした
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5.まとめ
この危機の時代を経て、帝国は以前とは全く別の姿へと変貌していました。
まず、領土の変化です。6世紀には地中海一帯を支配していた帝国は、異民族からの攻撃を受け、8世紀初頭には小アジア、バルカン半島沿岸、シチリア島とイタリア半島の南端部にまで領土が縮小していました。その後も拡大・縮小はあるものの、この3地域が帝国の基本的な支配領域となりました。
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かつての地中海帝国の姿は見る影もない
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そして、領土の変化にともない、帝国のギリシャ化が進行しました。西方の領土を失ったことで、かつての公用語であったラテン語は宮廷や行政では全く使用されなくなり、ヘレニズムの時代以来東地中海地域の共通語となっていたギリシャ語がその地位を得ました。皇帝のことも、インペラトル、カエサル、アウグストゥスといったラテン語の称号から、ギリシャ語で「王」を意味する「バシレウス」と呼ばれるようになります。
帝都はローマからコンスタンティノープルへ、宗教は多神教からキリスト教へ、言語はラテン語からギリシャ語へ、そして領土は地中海全体からバルカン半島と小アジアへ…4世紀からゆっくりと変化を始めたローマ帝国は、8世紀初頭にはかつてとは似ても似つかない姿へと変貌していました。ここにおいて、中世のローマ帝国であるビザンツ帝国が誕生したといえます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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