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【ビザンツ帝国の歴史4】英雄ヘラクレイオスの栄光と転落

こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の第4回目です。

前回の記事では、6世紀に帝国東方を中心として、地中海一帯を支配するローマ帝国が復興した経緯を見ていきました。しかし、古代ローマの理想はもはや時代遅れとなっており、ユスティニアヌスの地中海帝国は帝の死後まもなく崩壊していきます。そして、この危機に立ち向かうことになるのが、古代ギリシャの英雄の名を冠する皇帝ヘラクレイオスです。今回は、ローマ史上、最も波乱万丈な人生を送った英雄ヘラクレイオスの時代を見ていきたいと思います。

1.崩壊する地中海帝国

地中海帝国の崩壊は、ユスティニアヌスの死からわずか3年後に始まりました。568年、イタリア半島にゲルマン系部族のランゴバルド人が侵入し、北イタリアを占領して王国を建てたのです。また、北アフリカではムーア人の攻勢が激化し、イベリア半島でも西ゴートの圧力が強まって、572年にコルドバが失われました。

さらに、573年には帝国東方でササン朝ペルシャとの戦争が再開して、帝国軍は苦戦を強いられます。その間に、東方から来た遊牧民族アヴァール人と彼らに引き連れられたスラヴ人が、ドナウ川を越えてバルカン半島を南下し、581年にシルミウム(現セルビア スレムスカ・ミトロヴィツァ)を占領しました。

ユスティヌス2世(520-578)
ユスティニアヌスの甥で、帝の後を継いで皇帝となった。ペルシャとアヴァールに対する貢納金を停止して戦争を招いたが、最後は悲惨な戦況に錯乱状態になったという

軍人出身の皇帝マウリキウスは、ラヴェンナとカルタゴに民事・軍事の両権を担う総督府を設置し、西方の属州には当面自力でしのいでもらい、東方のペルシャとの戦争に集中することにしました。運よく、ササン朝でお家騒動が起こり、マウリキウスが支援したホスロー2世が王位に就いたため、ペルシャとの戦争はローマ帝国側に有利な形で休戦しました。

591年以降、マウリキウスはアヴァール人と戦うため、帝国軍の主力をドナウ国境地帯へと投入しました。しかし、戦線は膠着して長期化してしまい、マウリキウスは財政負担を減らすために、現地での越冬食糧調達を軍団に命じますが、これが兵士たちの不満を爆発させます。602年、フォカスという将校が反乱を起こしてコンスタンティノープルに進軍し、帝位を簒奪してしまいます。

マウリキウス末期の帝国領土
帝国東方の国境は守られたが、イベリアとイタリアからは多くの領土が失われた

2.カルタゴから来た新皇帝

マウリキウス処刑の報せが届くと、ホスロー2世は恩人の弔い合戦を口実に再び帝国に攻め入り、ダラス、エデッサなどの諸都市を次々と占領しました。また、アヴァール人とスラヴ人は帝国領を進撃し続け、とうとうギリシャ本土やペロポネソス半島にまで到達します。こうした事態に、帝国各地で反フォカス派の市民たちが反乱・暴動を起こしますが、これに対し、フォカスは自分に反対する人々を次々に処刑していきます。暴動恐怖政治の応酬で、帝国の統治機構は完全にマヒしてしまいました。

608年、反フォカス派の元老院議員たちは、マウリキウス時代にカルタゴ総督となったヘラクレイオスへ救援を依頼します。彼は同名の息子ヘラクレイオスに艦隊を率いらせコンスタンティノープルへ派遣しました。610年、帝都に到着したヘラクレイオスは市民たちから歓迎され、フォカスはあえなく処刑されます。

バルレッタの巨像
イタリア南東部の町バルレッタに現存するローマ皇帝象。誰の像なのかは不明だが、ヘラクレイオスがモデルではないかという説がある。
By Ignazio Parente - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=72560988

帝都到着のわずか2日後、ヘラクレイオスは新皇帝に即位しますが、事態は全く好転しないばかりか、より深刻になっていきました。アヴァール人とスラヴ人による侵入・略奪はますます激しくなり、西方ではイベリア半島に残された拠点が完全に失われました。東方の戦況は悲惨であり、シリアエジプトの両属州がペルシャ軍に占領され、614年には、陥落した聖地イェルサレムからイエスが磔にされた「真の十字架」が戦利品として持ち去られたのです。さらに、ペルシャ軍は小アジアへと侵入し、616年には帝都の対岸カルケドンにまで到達しました。

3.ペルシャ遠征

ヘラクレイオスは首都目前に出現したペルシャ軍に恐れをなし、カルタゴへの逃亡を計画しました。しかし、用意した船が難破したため失敗し、さらに総主教セルギオスと市民たちからの説得を受け、いよいよ覚悟を決め立ち上がります。

まず、二正面作戦は不可能であると考え、618年にアヴァール人との和平にこぎつけ、東方戦線大軍を動員できる準備をしました。さらに、来る戦争を残虐なゾロアスター教徒からキリスト教信仰を守るための正義の戦争と位置づけ、教会からの全面協力を得ることに成功します。教会は戦費のために財産を供出し、天国での永遠の魂を約束された兵士たちは、士気を高揚させました。

聖母像のイコン
ヘラクレイオスは、処女マリアやイエスのイコンを船首に掲げさせたり、城門に描かせたりするなど、積極的に利用した。画像は14世紀ロシアの作品

兵士たちへの入念な訓練が完了した624年、ヘラクレイオスは自ら軍を率いて出陣します。ローマ皇帝が出征のために帝都を離れるのは、実に2世紀ぶりのことでした。ペルシャ側は、ローマ軍が占領した東方属州の奪還しにくると想定していましたが、これは全く見当違いでした。ヘラクレイオスは小アジアから北上してアルメニアを経由し、無防備状態のペルシャ本土を直接攻撃する作戦に出たのです。

4.ヘラクレイオスの凱旋

ヘラクレイオスの奇襲作戦は功を奏し、ペルシャの都市を次々に占領・破壊していきました。驚愕したホスロー2世は、アヴァール人に和平を破棄させ、ともに帝都コンスタンティノープルを攻撃してヘラクレイオスを撤退させようとします。626年春に帝都包囲戦が始まりますが、ペルシャ軍はボスポラス海峡という自然の要害に、アヴァール軍は強固な城壁には阻まれました。さらに、留守を預かっていた総主教セルギオスが兵士たちを精神的に支えたことで包囲を乗り切り、両軍を退けることに成功します。

コンスタンティノープル包囲戦を描いた壁画(ルーマニア、モルドヴィツァ修道院)
コンスタンティノープルにとっては最初の本格的な包囲戦となった

627年12月12日、旧都ニネヴェ近郊でローマ・ペルシャ両軍が激突します。激しい戦いは丸1日続き、夕方ごろペルシャ軍の司令官が戦死してローマ軍が勝利します。この敗北は決定的なものではありませんでしたが、ローマ軍の接近に一目散に逃げだした王に対する反感が高まりました。ササン朝の宮廷では反ホスロー派が台頭し、翌年2月23日にホスロー2世は処刑され、新たに長男のシロイが王位に就きました。シロイは直ちにローマとの和平交渉を開始し、全占領地からの軍の撤退捕虜の交換を約束します。

こうして長期にわたったペルシャとの戦争は終結し、628年、ヘラクレイオスは市民の大群衆からの歓迎を受けながら、帝都で盛大な凱旋式を行いました。ローマ帝国の東方国境602年の状態に戻ることとなり、さらに、630年には「真の十字架」がイェルサレムに返還されました。こうしてヘラクレイオスは栄光に包まれた人生を送る…はずでした。

「真の十字架」を返納するヘラクレイオス(ミゲル・ヒメネス,1487年)
一説では、講和の際、「真の十字架」は行方不明になっていた。これが本当であれば、果たして十字架はどうやって戻ってきたのだろうか

5.栄光からの転落

610年頃、アラビア半島のメッカにいたアラビア人商人ムハンマドが、神の啓示を受け、その教えを人々に説くようになりました。622年、彼は迫害を逃れメッカからメディナへと拠点を移し、そこで新宗教を起こします。これがイスラム教の始まりです。ムハンマドは、メディナを包囲したメッカ軍を退けたことで頭角を現し、アラブ諸部族は次々に彼の教えを受け入れるようになります。632年にムハンマドが亡くなる頃には、アラビア半島全体がイスラム教のもとに統一されていました。

633年、シリア国境にムスリム軍が侵入したとき、ヘラクレイオスは、よくあるアラブ人部族による小規模な略奪だと思い、事態をさほど深刻に受け止めませんでした。しかし、今回は一部族の小規模な侵入ではなく、統一されたムスリム軍による侵略だったのです。636年にはこれまでにない大軍が到来し、ローマ軍はヤムルーク河畔でこれを迎え撃ちました。数のうえでも、地の利の面でもローマ軍が有利でしたが、ムスリム軍の巧みな作戦により孤立させられ、大敗を喫します。

当時アンティオキアにいたヘラクレイオスは、これ以上打つ手なしと思い、「真の十字架」とともに帝都へと戻ってしまいます。その際、「シリアよさらば、なんと美しい国を敵に渡すことか!」と悲痛な叫びをあげたといわれています。ヤムルークの戦い後もムスリム軍の進撃は続き、641年までに、シリア、エジプト、パレスチナはすべてムスリムの手に落ちました。ヘラクレイオスがあれだけの勇気と精力を示し、苦労して取り返した東方の領土はものの10年ほどで失われたのです。

ヘラクレイオス死後、650年頃の地中海地域の情勢
赤が帝国領、緑色がイスラムの勢力下。商業の要衝シリア、聖地パレスチナ、穀倉地帯エジプトを失ったことは、帝国にとって大きな打撃となった。
By Byzantiumby650AD.JPG: Justinian43derivative work: Hoodinski (talk)corrections: Constantine ✍ 10:36, 31 October 2012 (UTC) - Warren Treadgold (1997), A History of the Byzantine State and Society, p. 321; John F. Haldon (1997), Byzantium in the Seventh Century: The Transformation of a Culture, p. 65., CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17626076

ヘラクレイオスは大敗のショックから水恐怖症を発症し、帝都の対岸に到着したものの、海峡を渡ることができなかったそうです。艦隊を並べて架けられた急ごしらえの橋でようやく帝都に帰還しても、ヘラクレイオスは何もすることができませんでした。すでに重い水腫を発症したのです。641年2月、皇帝は失意のうちに66歳で帰らぬ人となりました。

6.まとめ

ローマ史はおろか世界史史上、ヘラクレイオスほど人生の絶頂からどん底へと一気に叩き落された人物も中々いないのではないでしょうか。ヘラクレイオスほどの決断力、行動力をもってしても、イスラム勢力の登場という世界史の大転換の前にはなすすべがなかったのです。これ以降、エジプトは永遠にキリスト教の手が及ばない地となり、シリアとパレスチナは、後の時代に両宗教の抗争の地になります。そして、ローマ帝国は領土を一気に縮小させ、皇帝のことすらろくに記録が残されない暗黒時代に突入していきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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