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【ロシアの歴史】動乱時代とロマノフ朝の誕生

1.はじめに

1598年、イヴァン4世の息子フョードル1世が亡くなり、キエフ公国時代から続いたリューリク朝は断絶しました。その後、1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに選出され、これ以降、300年間続くロマノフ朝が幕を開けました。しかし、リューリク朝からロマノフ朝への移行は決してスムーズなものではなく、ロシアの国内は荒廃し、外国勢力に脅かされた「動乱」の時代を経験しなければなりませんでした。今回は、動乱時代からロマノフ朝が成立するまでの過程を見ていきたいと思います。

2.リューリク朝の断絶

1584年、雷帝と恐れられたイヴァン4世が亡くなりました。雷帝は、その3年前に、ふとしたことから有能な長男イヴァンを自ら殺害してしまっており、彼の後を継いだのは弟のフョードルでした。

しかし、フョードルは知能が低く、統治を行うことは困難でした。その代わりに実権を握ったのが、フョードルの妻の兄ボリス・ゴドゥノフです。1598年、フョードルが亡くなると、ボリスは全国議会ゼムスキー・ソボール)を巧みに操り、ツァーリに就任しました。

ボリス・ゴドゥノフ(1551-1605)

ボリスは有能な統治者でした。外交面では、1591年には、クリミア・タタールの侵入を撃退し、さらにシベリア方面への進出も進めました。また、モスクワ府主教を総主教へと昇格させることにも成功しました。国内的には、農民の農奴化を推し進め、ポサード民(商手工業者)に国税を負担させるなど、イヴァン4世時代に疲弊していた経済・財政の立て直しを行いました。

しかし、3年間に及ぶ大飢饉がロシアを襲いました。ボリスは迅速に対応し、考えうる限りの最善策を講じましたが、それらは焼け石に水で全く効果がありませんでした。正当な資格なしに帝位についたボリスは、やがて怨嗟の的になっていきます。

3.偽ドミトリーの出現と動乱の始まり

こうした中、1602年に、ポーランドで皇子ドミトリーを名乗る人物が現れました。ドミトリーとはイヴァン4世の子、先帝フョードルの異母弟であり、1591年に不慮の死を遂げていました。しかし、この「偽ドミトリー」は、自分は危地を脱して、ポーランドに逃亡していたのだと主張しました。

偽ドミトリー(1582?-1606)
なお、本物のドミトリーについては、暗殺死であったという疑いはあるものの、間違いなく8歳の時点で死亡したと考えられている

1604年秋、偽ドミトリーは、ポーランドの中小貴族(シュラフタ)、あぶれ者、傭兵、コサックなど数千人を従え、モスクワを目指してロシアに侵入しました。大飢饉に苦しむロシアの地方都市民や農民は、この「真の皇子」を歓迎し、彼の軍を支えました。

ボリスは病床にあったこともあり、有効な手立てを打てず、1605年4月に亡くなります。その2か月後、偽ドミトリーはモスクワのクレムリンに入城し、ツァーリ・ドミトリーに就任します。しかし、偽ドミトリー政権は1年足らずしか続かず、クーデターであっさりと瓦解します。

このクーデターを指揮した名門貴族のアレクサンドル・シュイスキーが、次代ツァーリを「簒奪」します。しかし、ツァーリ・ドミトリーは生きているという噂が広まり、やがて、1607年に、南ロシアのスタロドゥブに偽ドミトリー2世が現れました。偽ドミトリー2世は、シュラフタや傭兵とともに進撃し、1608年6月から1609年末までの間、モスクワ包囲戦に入りました。

偽ドミトリー2世(1582?-1610)
彼の後も、ドミトリーを騙る僭称者は続出し、さらにはフョードルの子や雷帝の孫を名乗る人物も現れ、混乱を極めた

4.ポーランド軍の侵入と国民義勇軍

新たな偽ドミトリーの出現を好機と見たのが、ポーランド国王ジグムント3世でした。当時のポーランドは東方への勢力拡大を狙っており、ジグムントは自らポーランド軍を率いて、モスクワ遠征を決意します。

トマソ・ドラベッラ「スモレンスクを背景にしたジグムント3世」1611年
イエズス会士を重用し、強硬なカトリック化政策をとっていたジグムントは、正教会をカトリックに統合する構想を企てていた

ポーランド王の登場により、偽ドミトリー2世配下のポーランド人は次々とジグムントのもとへと去っていきました。また、長期の包囲戦による疲労もあり、偽ドミトリー2世は撤退を余儀なくされます。その後、体勢を立て直し、再びモスクワへと進撃しますが、配下の手にかかりあっけない最期を遂げます。

一方、ポーランド軍は1610年にモスクワに到達しました。クーデターでシュイスキーが廃位された後に成立した七人貴族会議は、ポーランド王子ヴラディスワフをツァーリとして即位させるという協定を結びました。こうしてモスクワは、ポーランド軍による占領下におかれました。

しかし、ポーランド占領軍は次第に横暴化していき、モスクワの住民たちの不満が高まりました。1611年の2月、3月には立て続けに蜂起が起こりました。こうした中、各地で国民義勇軍が結成され、反ポーランド闘争が開始されます。リャザン軍司令官リャプノフを中心に、第一次国民軍が結成されます。国民軍はモスクワを包囲しますが、リャプノフがコサックに殺害されたため、あえなく瓦解しました。

しかし、総主教ゲルモゲンによる正教防衛、国土解放の呼びかけもあり、同年9月には、ニジニ・ノヴゴロドで第二次国民軍が結成されます。これは、同市の商人クジマ・ミーニンが私財を投げ打って組織したもので、指揮には、モスクワ蜂起を指揮したポジャルスキー公があたりました。国民軍はモスクワ郊外でポーランド軍を撃退し、そのままモスクワを包囲します。そして、同年10月には、クレムリンに籠城していたポーランド軍が降伏し、モスクワは解放されました。

エルンスト・リスネル「ポジャルスキー公に降伏するモスクワのポーランド軍」1938年

5.ツァーリ・ミハイル・ロマノフ

1613年2月、ポーランドから解放されたモスクワで、ツァーリ選出のための全国議会が開かれました。ポーランドやスウェーデンなどの外国の王子もいる候補者の中から選出されたのは、16歳のミハイル・ロマノフでした。

ミハイル母子に戴冠を請う群衆
当初、ミハイルと母マルファは即位を拒み続けたが、ミハイルを選んだのは神の命であると告げられると、信仰厚い母子は従わざるを得なかった

ミハイルが選出されたのは、3つの理由がありました。第一に、ロマノフ家がイヴァン4世の最初の后を輩出しており、旧王朝と縁戚関係にあったこと。第二に、先の動乱において、彼の父フィラレートがポーランドの捕虜となっていたことが、社会の同情を買ったこと。そして、第三に、ツァーリは若い方が操りやすいと考えた、名門貴族たちの思惑があったこと、でした。この当時は、ロマノフ家がその後300年間も君主を輩出し続けるとは、誰も考えていなかったのです。

1617年、ミハイルは、ポーランドに乗じてロシアへと侵入していたスウェーデンと講和を結び、翌18年には、ポーランドと休戦協定を結びました。しかし、スウェーデンには東カレリアとインゲルマンランドを譲ることとなり、ポーランドにはスモレンスクなどを占領され続けました。1632年、ロシア軍はスモレンスクを取り戻すべく、ポーランドと失地回復戦争を開始しますが、結局失敗に終わりました。

1635年のポーランドの領域
赤い部分がスモレンスクなど占領した西部地域

さらに、1637年には、ドン川河口にあるオスマン帝国のアゾフ要塞を占領したドン・コサックが、ツァーリに援軍派遣を求めてきました。通常であれば、同じ正教徒であるコサックの救援に応えなければなりませんでしたが、スモレンスク戦争で消耗したロシアには、大国オスマン帝国を敵にするほど資金がありませんでした。結局、ミハイルはこの援軍要請を断り、コサックたちにアゾフ要塞を放棄するよう命じました。

このようにロマノフ朝初代君主の治世は、大変困難な時代でした。

6.アレクセイ帝とツァーリ権力の確立

1645年、ミハイルが亡くなり、彼の長子アレクセイがツァーリを世襲しました。アレクセイの治世下では、ツァーリ権力の強化が図られました。ミハイル帝の時代はほとんど恒常機関であった全国議会は、開催されることが稀になり、アレクセイの後半生には活動を停止しました。さらに、ツァーリの諮問機関であった貴族会議も形骸化し、教会も、新たに設置された修道院官庁の管轄下に入り、ツァーリに強く異を唱えなくなりました。

ニコライ・セヴェルチコフ「ツァーリ・アレクセイと鷹狩のボヤールたち」1873年
アレクセイは「君主の枢密庁」にて、最も信頼する側近たちとともに統治にあたった。
そこでは、ツァーリの趣味である狩猟のために、3千羽の鷹や隼が飼育されていた

一方で、アレクセイは官僚制を整備しました。常設のプリカース(中央官庁)は40を超え、その長官には、貴族だけでなく、士族や、有能であればそれより下層の人々も任命されるようになりました。これら国家機関に勤める人々は、1640年から半世紀で3倍に増加したと言われています。地方行政においては、それまで富裕な農民やポサード民、士族が地方の自治を担っていましたが、彼らに代わって、モスクワから地方長官書記官らが派遣されるようになり、中央集権化が図られました。

外交的にも、大きな転換がありました。1648年、当時ポーランド領であったウクライナにおいて、ボフダン・フメリニツキー率いるコサックの反乱が起こりました。反乱が長期化する中、フメリニツキーは同じ正教国であるロシアに要請を求め、1654年、コサックの自治国家を保護下においたロシアは、再びポーランドとの戦争を開始します。13年に及んだ戦争は、1667年のアンドルソヴォ条約で休戦を迎えますが、この条約で、ロシアはようやく動乱期に失った領土を回復しただけでなく、左岸ウクライナ(ドニプロ川の左岸側)を併合します。こうしてアレクセイは、ロシアの君主で初めて「大ロシア、小ロシア、白ロシアの専制君主」という肩書を名乗るようになりました。

アンドルソヴォ条約後のポーランド。濃い緑色がロシア領となった部分
この戦争は、ウクライナがロシアの支配下に置かれる始まりであるとともに、大国だったポーランドが瓦解していき、18世紀末に消滅する転換点ともなった
By User:Mathiasrex Maciej Szczepańczyk, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17364648

7.まとめ

最後に、ロシアではなぜ動乱が起こり、そしてなぜ収束させることができたのか、ということをまとめたいと思います。

まず、なぜ動乱が起きたのかについてですが、やはり大きいのはイヴァン4世の「負の遺産」です。イヴァン4世の時代には、四半世紀にわたる戦争や、それに続く恐怖政治「オプリーチニナ」政策によって、ロシアの国土は荒れ、国力は大きく疲弊しました。こうした状況下に、さらに大飢饉が発生したことで、状況を改善できないモスクワ政府への反発が高まり、帝位僭称者が支持されるようになっていったと考えられます。この僭称者の登場は、19世紀に至るまでロシアの伝統となりました。

そして、なぜ動乱を収束させることができたのか、ということですが、これは全国議会の役割が大きかったと言えます。全国議会は、貴族会議・聖職者会議のメンバーといった聖俗のエリートに加え、地方士族や都市商工業者の代表が参加する、まさに国民的機関でした。全国議会はあくまでツァーリの「諮問機関」であり、何ら決定権はありませんでしたが、ミハイル帝は、その「権威」を通すことで国民の協力を得て、荒廃した国家を立て直すことができました。

しかし、次代アレクセイ帝は、「ツァーリは欲することを自分の意志のままにできる」と言われたように、もはや全国議会や貴族たちを必要とせずに、自らの意志のままに国家を統治するようになります。それは絶対主義の形成であり、専制国家ロマノフ朝の始まりでもありました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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アレクセイの治世下で行われた教会改革については、こちら

アレクセイと同時代のウクライナの状況は、こちら

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