見出し画像

ウクライナの歴史2 コサックとヘトマン国家

1.はじめに~ウクライナのシンボル、コサック~

サッカー男子日本代表は「サムライブルー」、野球男子日本代表は「侍ジャパン」と言われるように、侍・武士は日本の国や国民を表す歴史的シンボルとなっています。同じように、ウクライナの歴史的シンボルとなっているのが「コサック」です。

「遊び中のコサック」ティモフィイ・カルィーンシクィイ,1786年

コサックとは、もともとはトルコ語で「自由の民」を意味し、陽気で豪快、お酒や音楽、踊りを好む、強くて優しい戦士たちとしてイメージされます。現代ウクライナの国歌の中では、ウクライナ人はコサックの子孫であると謳われています。また、ウクライナの紙幣にはコサックの指導者たちの肖像が採用され、コサックの名前を冠した通りや地名も数多く存在しています。

コサックたちは15世紀ごろから、ウクライナの歴史に登場します。それはウクライナが周辺諸国によって支配される時代であり、コサックたちの歴史はまさにウクライナの「自由」をかけた戦いの歴史でした。

2.ポーランド・リトアニアによる支配

ミンダウガス公のもとで統一国家を築いたリトアニアは、東・南進政策を進めます。1362年には、ヨーロッパ側として初めてキプチャク・ハン国に勝利を治め、かつてのキエフ公国の領土の半分以上を支配下に置きます

リトアニアは、西方のドイツ騎士団や東方のモスクワ公国からの脅威から身を守るため、ポーランドに急接近していきます。1385年の「クレヴォの合同」、さらに1569年の「ルブリンの合同」によって、ポーランドとリトアニアは、共通の王・議会・外交政策をもつ「連合国家」となります。また、この合同により、これまでリトアニア領であったウクライナのほぼ全域が、ポーランド領となりました

赤色がポーランド領、ピンク色がリトアニア領
黒の実線は現在の国境を示す
CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1317464

ポーランド支配下のウクライナでは、穀物貿易による利益を得るため、ポーランド貴族たちが農村の直轄統治に乗り出します。農村は自治権を奪われ、農民の生活に貴族が介入するようになり、農民は村から移動する権利も奪われ、16世紀末には大部分が領主の農奴になっていきました。

3.コサックの登場

ルーシを支配していたキプチャク・ハン国は1502年に滅亡しましたが、そこから分裂したタタール系の諸ハン国はその後も残り続けました。そのうちのひとつがクリミア・ハン国です。クリミア・ハン国は、タタール系のイスラム国家であり、クリミア半島に進出してきたオスマン帝国に臣従しました。クリミア・タタールは、オスマン帝国のために奴隷貿易を行い、スラヴ人の町や村で拉致した人々を奴隷として売っていました。

17世紀ごろ。黒海北岸がクリミア・ハン国、南側にオスマン帝国、北東にモスクワ、北西にポーランドが位置する
By Oleksa Haiworonski, Copyrighted free use,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=529342

ウクライナのステップ地帯や黒海北岸に住む人々は、タタール人の襲撃に対抗するため、独自の軍事共同体を組織するようになります。彼らは「コサック」と呼ばれ、タタール人を撃退するだけでなく、正教の擁護者を任じ、奴隷化されたスラヴ人を解放することに熱心でした

「コサックとタタールの戦い」ユゼフ・ブラント,1890年

コサックたちのもとには、冒険心のある貴族や市民、さらにポーランド貴族による支配から逃れてきた農奴たちが集まりました。コサックたちは次第に勢力を増していき、船団を組んで小アジアのオスマン帝国領へ大規模な遠征を行うまでになりました。各国はその軍事力に注目し、ハプスブルク家やバチカン、モスクワはコサックを傭兵として雇うようになりました。

4.フメリニツキーの乱とヘトマン国家の成立

ポーランドでは、「登録コサック」制度が創設され、コサックはポーランド王の統制下に入る代わりに、軍人としての地位が認められ、給料が支払われました。コサックたちは特権的に振舞うことができましたが、一方でその待遇に対する不満などから、しばしば反乱を起こしました。その最大級の反乱が、1648年のボフダン・フメリニツキーの反乱です。

ポーランド貴族に不当に土地を奪われてしまったフメリニツキーは、ポーランドの法廷や議会、さらに王にまで訴えましたが、逆に逮捕されてしまいます。脱獄後、フメリニツキーはポーランドに対する反乱を決意します。フメリニツキーの呼びかけに対し、同じくポーランドに不満が溜まっていた農奴やコサックたちは同調し、やがて大規模な反乱へと成長していきます。

ボフダン・フメリニツキー(1595-1657)

フメリニツキーの軍勢は8万~10万人にまで膨れ上がり、ポーランド軍を撃破していき、王都ワルシャワ近くまで迫りました。1649年、ポーランド王は休戦を呼びかけ、ズボリフにて休戦協定が結ばれます。この協定によって、キエフ州、チェルニーヒウ州、ブラーツラウ州の3州がコサック領となり、独自の軍事・外交を備えた自治国家が誕生しました。これをコサックの指導者を指す言葉から「ヘトマン国家」といいます。

水色がヘトマン国家の領域
BY 某 - І.П.Крип’якевич, CC BY 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=108245787

5.モスクワによる支配の始まり~ペレヤスラフ協定~

しかし、ヘトマン国家は長く安定しませんでした。1651年にポーランドとの戦いが再開し、決定的な勝敗がつかないまま長期化していきます。フメリニツキーは自力だけではポーランドに対抗できないと考え、外国の支援を模索します。しかし、そのほとんどは実を結ばず、最終的にモスクワ大公国との同盟に踏み切ります。

北東ルーシの中で発展したモスクワ大公国は、周辺諸公国を併合し「全ルーシの君主」を名乗るようになっていました。さらに、1480年には「タタールのくびき」を終わらせ、逆にタタール国家であるカザン・ハン国、シビル・ハン国などを征服し、強国へと発展していました。

モスクワ大公国のツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ(1629-1676)

1654年、モスクワとヘトマン国家の間でペレヤスラフ協定が結ばれました。これにより、ヘトマン国家は軍事的支援を受ける代わりに、モスクワの宗主権を認めることとなりました。

しかし、1656年、モスクワはポーランドと和平協定を結びます。これは新興国スウェーデンの侵入により、ポーランドがモスクワをスウェーデンとの戦争に引き込もうとしたためです。勝手に和平協定を結ばれたフメリニツキーはモスクワに対し激怒しますが、1657年に病により亡くなってしまいます。

1667年、モスクワとポーランドはアンドルソヴォ条約を結び、ドニプロ川右岸をポーランドが、左岸をモスクワが領有することとなり、ヘトマン国家は両国によって分割されます

アンドルソヴォ条約後のポーランド。濃い緑色の部分がロシア領となった部分。
By User:Mathiasrex Maciej Szczepańczyk, CC BY-SA 3.0, 
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17364648

6.マゼッパの乱とヘトマン国家の衰退

1700年、ポーランド議会は右岸におけるコサック制度を廃止し、右岸でのヘトマン国家は終わりを迎えます。一方、モスクワの支配下となった左岸ではヘトマン国家は維持されましたが、領土は縮小され、自治権も制限されていきました。こうしたロシアによる支配に対し、最後の抵抗を試みたのがヘトマン・イヴァン・マゼッパでした。

イヴァン・マゼッパ(1639-1709)

1700年、ツァーリ・ピョートル1世はバルト海進出を目指し、同じくバルト海進出を画策していたスウェーデンと「大北方戦争」を開始します。1708年、スウェーデン軍がウクライナに侵入した際、ピョートル1世はマゼッパに戦うよう命じますが、マゼッパは勝機がスウェーデンにあると見て、スウェーデン王カール12世と同盟し、ロシアに戦いを挑みます。1709年、ポルタヴァの会戦でスウェーデン・コサックの連合軍とロシア軍が激突しますが、連合軍は敗退し、ロシア軍が勝利をおさめます

ポルタヴァでの敗退により、ヘトマン国家の自治は一層制限されます。ツァーリが交代するごとに、ヘトマンの権限に対し制限と緩和が繰り返されますが、1764年、エカチェリーナ2世によってキリロ・ロズモフスキーがヘトマンを退任させられて以降、新しいヘトマンは任命されなくなりました。1780年、エカチェリーナ2世はウクライナにキエフ、チェルニヒフ、ノヴホロド・シヴェルスキーの3県を設け、知事を置きました。これにより、ウクライナはロシア帝国の一地方となり、ヘトマン国家は消滅しました

7.まとめ

キエフ公国分裂後のウクライナは、モンゴル、リトアニア、ポーランドと次々に支配者が変わり、最終的にポーランドとロシアによって分割されてしまいました。
ウクライナがロシアの支配下に入るきっかけとなったペレヤスラフ協定については、ロシア側とウクライナ側とで異なる解釈がされてきました。ロシア側は、ペレヤスラフ協定をウクライナとロシアの「永遠の友好」の原点として、肯定的に評価しました。ソ連時代には、ペレヤスラフ協定締結300周年記念が祝われたほどでした。一方で、ウクライナ側は、ロシアによるウクライナ併合の第一歩であると、否定的に解釈しています

コサックたちの歴史は、ロシアによるウクライナの完全併合により、いったん途切れてしまいます。しかし、後の時代にウクライナの民族運動が活発化すると、その歴史が集成され、ヘトマン国家はウクライナの国家再建の歴史的根拠となっていきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

◆◆◆◆◆

前回

次回

参考

黒川佑次『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』中央公論社,2013年(初版2002年)
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社,2016年(初版2007年)

この記事が参加している募集

世界史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?