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ウクライナの歴史7 第二次世界大戦とウクライナ蜂起軍

1.はじめに~ネオナチとバンデラ主義~

プーチン大統領は、ウクライナ侵攻の大義名分のひとつとして「非ナチ化」という言葉を使用しています。ウクライナは「ネオナチ」国家であり、これを正すのがロシアの「特殊軍事作戦」の目的だというのです。

ネオナチと並んで、ウクライナを非難するためによく使用されているのが「バンデラ主義」です。バンデラ主義とは、ソ連時代からウクライナ・ナショナリストを指す言葉として使用されており、その名前はステパン・バンデラに由来します。

ステパン・バンデラ(1909-1959)

ステパン・バンデラは大戦間期に結成された「ウクライナ民族主義者組織OUN)」の指導者でした。バンデラとOUNは、第二次世界大戦時にナチス・ドイツと協力関係にありました。彼らは反ユダヤ主義色が強く、ユダヤ人・ロシア人・ポーランド人を「敵対民族」として排斥すること主張し、ナチズムに通じる純血思想を持っていました。しかし、現代ウクライナでは、彼らの信奉者が数多く見受けられます

なぜナチス・ドイツの協力者を信奉する人が存在するのでしょうか。それは、バンデラやOUNがウクライナ独立のために戦った人間だったからです。

2.ウクライナ民族主義者組織の結成

第一次世界大戦後、オーストリア帝国から独立したポーランドは、現代ウクライナの西部にあたる東ハリチナーを領有していました。東ハリチナーには多くのウクライナ人が住んでいましたが、彼らはポーランドによる支配を嫌い、独立を目指して非合法な武装闘争を開始しました。

1929年に「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」が結成されます。エフヴェン・コノヴァレツをリーダーとするこの組織は、ソヴィエト・ポーランド戦争に参加した元軍人らによって結成され、政治テロやサボタージュなどの破壊活動を通じて、ウクライナの独立を目指しました。1930年代を通して、ポーランド内相、リヴィウ警察署長、在リヴィウ・ソ連領事などが暗殺されました。

エフヴェン・コノヴァレツ(1891-1938)

しかし、1938年にコノヴァレツが暗殺されると、アンドリー・メルニクステパン・バンデラの間で後継者争いが起こり、OUNは2派に分裂してしまいます。

3.第二次世界大戦と独ソ戦の勃発

1939年9月1日、ナチス・ドイツはポーランドに侵入、これに対してイギリス・フランス両国が参戦し、第二次世界大戦が勃発しました。

ドイツと独ソ不可侵条約を結んでいたソ連は、その秘密協定によりポーランドに侵攻し、ポーランドの東半分を占領しました。これにより、東ハリチナー、西ヴォルイ、西ポリシアがウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に編入されました。

分割されたポーランド。薄い黄緑がウクライナ領となった部分
By Lonio17, CC BY-SA 4.0 ,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31862826

1941年6月22日、ドイツ軍は突如ソ連領内に侵攻し、独ソ戦が開始されました。前線のソ連軍は、保有していた航空機の2割を失うなどの大損害を受け、後退を余儀なくされました。

同年11月には、南西部とクリミア半島をのぞく全ウクライナが、ドイツ軍の占領下となりました。ドイツはウクライナを食糧と労働力の供給源とみなし、占領地域からの食糧徴発を行い、ウクライナ人を「オストアルバイター(東方労働者)」としてドイツ国内へ強制連行し、過酷な労働を強いました。

1941-42年のドイツ占領地域。ウクライナは「帝国管区ウクライナ」となった
By Morgan Hauser, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14619311

4.ウクライナ蜂起軍

西ウクライナでは、当初ドイツ軍が歓迎されました。特にOUNなどの民族主義者は、ウクライナ独立国家を建設するべく、ドイツ軍内のウクライナ人部隊を組織し、ドイツとの提携を深めていました。

ハンス・フランク・ポーランド総督の歓迎パレードを行うウクライナの民族主義
スタニスラフ(現イヴァノ・フランキウスク)。1941年

OUNはソ連侵攻に参加し、リヴィウを占領します。しかし、6月30日に、ドイツの承認を得ないまま独立宣言を発表したため、ドイツは直ちに指導者であるバンデラたちを逮捕し、強制収容所に入れました。これ以降、ドイツはウクライナ民族主義者の弾圧に傾斜していき、1942年末までにウクライナ人部隊は解体され、将校たちの大半が逮捕されました。

ドイツによる弾圧が強まると、OUNは独自に部隊を形成していきました。1941年、タラス・ブーリバ=ボロヴェツにより対独パルチザンが創設され、1942年にはウクライナ蜂起軍(UPA)と名称を変更し、ドイツへの攻撃を本格化させます。OUNはUPAを吸収し、ウクライナ人部隊の将校であったロマン・シュヘーヴィチの指揮下に組み入れました。UPAは民衆の支持を得て勢力を伸ばし、1943年には4万人の勢力を有するまでになりました。UPAは、ドイツ軍だけでなく、独立のためにソ連赤軍とも戦いました

ウクライナ蜂起軍の軍旗
ロマン・シュヘーヴィチ(1907-1950)

5.ドイツ占領下での民族虐殺

ドイツ占領下において、ウクライナ人以上に弾圧されたのがユダヤ人でした。特に有名なのがバービイ・ヤール事件です。1941年9月、キエフ郊外のバービイ・ヤールにユダヤ人が集められ、3万3771人が銃殺されました。ドイツ占領下のウクライナでは、90万人のユダヤ人が虐殺されたといわれています。ボリシェヴィキにユダヤ人が多かったことから、こうした虐殺に積極的に協力したウクライナ人もいました

バービイ・ヤールでの虐殺後に死体を埋めている捕虜たち。1941年

ウクライナ民族主義者たちによって、直接虐殺された事例もありました。OUNはもともとポーランドからの独立を目指す組織であったため、ポーランド人に対しても敵対的でした。そのため、OUNやUPAは、ドイツからの独立を目指す「国内軍」などのポーランド人勢力とも武力衝突を起こしました。そして、1943年の春から西ウクライナのヴォルイニにて、ポーランド人を「一掃」すべく攻撃を開始し、4万~6万人のポーランド人を虐殺しました。

OUN・UPAによって虐殺された犠牲者の記念碑。ワルシャワ
By Apilek, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27224167

6.ウクライナ再占領とUPAの反ソ・パルチザン

1943年、半年にわたるスターリングラード攻防戦でドイツ軍が破れると、形勢は次第にソ連に傾いていきます。同年11月にソ連軍はキエフを奪還し、1944年7月には西ハーリチナで6万人のドイツ軍を全滅させました。同年10月には、ソ連軍はザカルパッチャ地方を越え、全ウクライナを再占領しました。

1945年4月、ソ連軍はベルリンに入り、5月8日、ドイツは無条件降伏します。こうして第二次世界大戦は集結しますが、独立を目指すUPAは、戦後も西ウクライナにおいて反ソ・パルチザン活動を続けました。UPAは西ウクライナの大部分を掌握しており、住民からも支持を受けていました。

1948年の木版画。旗にはUPAのスローガンが書かれている

ソ連はヴォルイニからカルパチア北麓にかけて掃討作戦を行い、UPAの家族や村のすべての住民をシベリアに流刑にしました。1945~49年までに、50万人の西ウクライナ人が強制移住させられました。1950年3月、UPAの司令官シュヘーヴィチが戦死し、UPAの活動は実質的に終わりました。1959年には、西ドイツにいたバンデラも暗殺されました。

UPAの活動はポーランド内でも行われており、1947年にはポーランド国務次官が暗殺されました。これに対し、ポーランド政府は「ヴィスワ作戦」という名の掃討戦を行い、3万人のポーランド軍がUPAを殲滅しました。さらに、カルパチア山脈のレムコ地域のウクライナ人14万人を、新たにドイツから獲得した西部地域に強制移住させ、まとまったウクライナ人居住地域を消滅させました。

ポーランド軍に拘束されたUPAメンバー

7.まとめ

戦後のソ連では、UPAの活動は無視されるか、あるいはナチの手先であるとされており、ウクライナ民族主義者たちは「バンデラ主義」とレッテルを貼られました。

現代ウクライナでは、ナチス・ドイツに協力したことなどにはあえて触れられず、UPAをウクライナ独立のシンボルとして再評価する方向に進みました。2009年、親欧米・反露色の強いユーシチェンコ大統領は、バンデラやシュヘーヴィチの復権を呼びかけ、「ウクライナ英雄」の称号を与えようとしました。2014年には、最高会議はUPAとその指導者であるバンデラに対し、ウクライナ独立のために戦った戦士としての地位を与える法案を採択しました。

こうしたウクライナの動きに対し反発しているのは、ロシアだけではありません。2016年、ポーランドではUPAを再評価するウクライナに対抗して、7月11日をUPAによるポーランド人虐殺の犠牲者を追悼する日に制定しました。

ウクライナにおけるナショナリズムの高揚が、周辺諸国との歴史認識問題を引き起こしていることは、今後もウクライナが抱える問題のひとつとなると思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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参考

黒川佑次『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』中央公論社,2013年(初版2002年)
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
松戸清裕『ソ連史』筑摩書房,2012年
土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社,2016年(初版2007年)
浜由樹子「プーチンはなぜウクライナの「非ナチ化」を強硬に主張するのか? その「歴史的な理由」」『現代ビジネス』講談社,2022年

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