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【悲劇の国・パキスタンの歴史3】 パキスタンの「イスラム化」とイスラム過激派

1.はじめに

19世紀以降、イスラム諸国は大きく分けて2つの方向性に分かれました。1つは、政教を分離し、国家がイスラムと関わらないとする方向です。これを世俗主義といい、トルコなどが採用しています。もう1つは、イスラム法を政治や法律、さらに社会全体に厳格に適用しようとする方向です。こちらはイスラム原理主義と呼ばれ、イランやサウジアラビアなどの国々で採用されています。

さて、パキスタンについてですが、当初はイスラム教を国教としながらも、政教分離を原則としていました。しかし、1970年代になると、イスラム原理主義が台頭し、「イスラム化」が急速に進行するようになります。今回は、1970年代以降のパキスタンの「イスラム化」と、現在でも世界中で問題となっているイスラム過激派との関係について見ていきたいと思います。

2.独裁者ハクによるイスラム化

1956年の憲法では、パキスタンは「イスラム共和国」であるとされていましたが、実際は政教分離を原則としており、軍事政権が樹立して以降も、この基本的な性格は変わりませんでした。しかし、ズルフィカル・アリー・ブットが政権を握っていた70年代になると、イスラムの伝統や慣行を重視し、イスラムへの原点回帰を強調する人々が現れ始めました。

こうした中、クーデターで権力を掌握したムハンマド・ズィア・ウル・ハクは、敬虔なイスラム教徒であり、パキスタンの政治・社会にイスラム原理主義を導入するべきであると考えていました。1979年、イスラム刑法令が施行され、飲酒、姦通、窃盗などがハッド(コーランに処罰の規定がされた犯罪)に定められ、むち打ち刑手首の切断、不倫の男女に対する石打刑が執行されるようになりました。

さらに、ハクは「真のイスラム」に基づく国家建設を目指し、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、ゾロアスター教徒などの非ムスリム政府要職から排除されました。さらに、彼らは独自の選挙区を設けられ、同じ宗教の者にしか投票できなくなるなどの差別的政策が行われました。

3.パキスタンとムジャヒディンたち

1979年12月、アフガニスタンで成立した社会主義政権を守るという名目のもと、ソ連が同国へと軍事侵攻します。イスラム諸国はこの戦争を無神論国家からイスラムを防衛するための「聖戦(ジハード)」と捉え、アフガニスタンを積極的に支援しました。

アフガニスタンのムジャヒディンたち(1987年)
By erwinlux - Private collection; apparently a crop of this image at Flickr, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5310966

特に、アフガニスタンから300万人もの難民が流入していたパキスタンは、彼らをムジャヒディン(ジハードを遂行する聖戦士たち)に育てる手助けをしました。パキスタンの情報機関(ISI)は、軍事訓練キャンプを設け、8万人のムジャヒディンと世界中から集まった3万人以上のイスラム義勇兵に訓練を施しました。さらに、アフガニスタンとの国境地帯には神学校を建設され、アフガン人に急進的なイスラム思想を普及しました。

パキスタンによるムジャヒディンの育成には、アメリカが大きく関与していました。アメリカは、ソ連がアフガンからパキスタンにもその影響力を及ぼすことを恐れ、パキスタンに抵抗運動の主導的役割を担うよう促し、それを支援したのです。アメリカは、ISIを通して、スティンガー・ミサイルなどの多くの兵器をムジャヒディンに提供しました。当時のパキスタンは、アメリカからの軍事援助が三番目に多い国となっていました。

ハク(中央)と会談するロナルド・レーガン大統領(右)、ウィリアム・クラーク大統領補佐(左)(1982年)

4.文民政権の失敗とムシャラフのクーデター

1988年、ハク大統領が飛行機事故で亡くなりました。事故の原因は明らかではありませんが、暗殺説も根強いです。その後、総選挙が実施され、ブット前首相の娘であるベナジール・ブットが首相に任命され、その後11年間続く文民政権期がスタートしました。

ベナジール・ブット(1963-2007)
パキスタン初、そしてイスラム世界初の女性首相。イギリスで教育を受けた彼女は、アメリカからも好感を持たれていた
By Ministry of the Presidency. Government of Spain, Attribution,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=79684594

この民政期にも、ハク大統領のイスラム化・ムジャヒディン支援の路線は継承されました。アフガニスタンでは1989年にソ連軍が撤退しましたが、それに続いて共産党政権とムジャヒディンたち、さらに政権打倒後はムジャヒディン同士の戦いが続いていました。パキスタンは、親パキスタン政権がアフガンに樹立することこそが望ましいと考え、94年のタリバン創設などを支援しました。

さらに、ブットから政権交代したジャトイ政権、その後のシャリーフ政権のもとで、91年に「シャリーア施行法」が制定されます。これによってイスラム法がパキスタンの最高法規であることが定められ、ここにパキスタンのイスラム化の最終仕上げが行われました。

しかし、文民政権期は経済政策が失敗し、ガソリンや電気、食品価格が上昇し、経済情勢は悪化の一途をたどりました。さらに、1998年、インドが強行した核実験に対抗し、5月28日・30日に核実験を行いました。この核実験は経済事業への財政支出を滞らせ、さらに国際社会からの経済制裁によってさらなる経済的混乱をもたらしました。

1999年10月、陸軍参謀長のムシャラフ軍事クーデターを起こし、シャリーフ首相を逮捕し、権力を掌握しました。再び軍政へと逆戻りしたこと、さらに核兵器開発やカシミールでのインドとの紛争は、パキスタンをますます国際社会から孤立させました。

パルヴェーズ・ムシャラフ(1943-)
首相シャリーフが、カシミールでインドと武力衝突するパキスタン軍を撤退させようとしたため、これに反対してクーデターを起こす

5.イスラム過激派の中心地となるパキスタン

2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生し、アメリカはアフガニスタンにおける対テロ戦争に踏み切りました。アフガニスタンでの戦争遂行には、パキスタン軍部の協力が欠かせないと考えたブッシュ大統領は、ムシャラフ政権に、タリバン政権への支持を放棄すること、アルカイーダやほかのイスラム過激派勢力を殲滅することなどを求め、その見返りに巨額の援助を用意しました。

経済的苦境を乗り越えたいムシャラフは、アメリカに与してタリバンやアルカイーダと戦う姿勢を示しました。ムシャラフは戦闘的なイスラム集団に公共の場への銃器の持ち込みを禁止し、さらに、いくつかの組織の非合法化監視強化を行いました。

ブッシュ大統領と会談するムシャラフ(2006年)

しかし、アメリカとの同盟、イスラム過激派に対する締め付け強化は、国内のイスラム原理主義グループを激怒させました。彼らはムシャラフ政権の方針を無視し、数千人の民兵をアフガニスタンへ送り込みました。パキスタンの都市や地方においては、イスラム過激派のネットワークが形成され、パキスタン人やアフガン人に限らず、トルコ人、アラブ人、ウズベキスタン人、ウイグル人などの世界中から武装勢力が集結するようになりました。特に部族社会が根強く残る地域は、反発を恐れて軍も手出しができない状態であり、そうした場所を拠点が築かれ、活動を続けている状況にあります。

また、政府高官や軍部には、タリバンのシンパや、カシミールでのインドとの戦いに価値があると認める人々まで存在しており、パキスタン政府は一方ではイスラム過激派を封じ込めようとしながら、もう一方ではそれを容認するという複雑さを持っています。それを象徴するのが、イスラマバードに存在したイスラム過激派の拠点のひとつ「赤のモスク」です。「赤のモスク」の指導者アブドゥル・ラシード・ガズィは過激な言動を繰り返し、2004年に武器の不法所持とテロ活動を理由に逮捕されました。しかし、当時の宗教問題大臣の命令で釈放され、その後も政府からの支援金を受け取り続けていたのです。

イスラマバード「赤のモスク」
パキスタンにおけるイスラム過激派の拠点のひとつ。2007年には過激派の神学生による立てこもり事件が起こり、軍に占拠された
By KhhHan432 - Own work, CC BY-SA 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=72156903

6.まとめ

2008年にムシャラフは政権を退き、現在のパキスタンは文民政権に移行していますが、国内の過激派の問題は依然として残り続けています。特に2021年にアフガニスタンで復活したタリバン政権と、パキスタン国内の過激派との関係は、今後も注目されていくべきかと思います。

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全3回にわたって、パキスタンの独立から現代までを概観してきました。パキスタンの歴史は、インドとの対立、国内矛盾、軍事政権、そしてイスラム過激派など、様々な問題を抱えてきたものでした。そして、現在は2022年に発生した大洪水による大きな被害を受けています。この記事を読んで少しでもパキスタンに関心を抱いていただけたら、幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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