【読書感想文】倉本一宏『紫式部と藤原道長』
こんにちは、ニコライです。今回は【読書感想文】です。
今回は、倉本一宏氏による『紫式部と藤原道長』を読んでみました。倉本氏は国際日本文化研究センター教授であり、ご専門は日本古代史、特に平安中期を扱った著書を多数執筆されており、現在放送中のNHK大河ドラマ「光る君へ」の時代考証も担当されています。本書は数ある平安時代を扱った書籍の中でも、ドラマの主人公である紫式部と藤原道長の二人に焦点を当てたもので、かつ今年出版されたばかりの最新のものになっており、平安中期の入門書としては最適だと思い、手に取ってみました。それでは早速、本書の中身について見ていきたいと思います。
1.史実としての紫式部と道長
倉本氏は本書の目的は、「世界最高峰の文学作品である『源氏物語』を著わした紫式部と、日本史上最高の権力を長期間にわたって保持した藤原道長とのリアルな生涯を、確実な史料のみによって時系列的に復元」し、「また、二人の接点と交流についても、当時の政治情勢や後宮情勢とからめながら、できる限り可能性を探っていくこと」としています。
「確実な史料のみによって時系列的に復元」というのは、二人の生涯を歴史学の見地から実証的かつ論理的に描く、という宣言に外なりません。つまり、『小右記』、『御堂関白記』、『紫式部日記』などの当時の記録を用いて、実際にあったかどうかわからない説話や後世の後付けを排除しつつ、二人の確実性の高い実像に迫ろうとしたもの、ということです。
最初にこうした姿勢を述べているのは、やはりドラマ「光る君へ」を意識してのことだと思います。はじめにで、倉本氏は次のように述べています。
この中の「その直後、喜んでばかりはいられないことになってしまったが」というのは、ドラマの内容が史実とはかけ離れたものであることを理解したことを指しているのではないでしょうか。本文中でも、ドラマの内容を意識したかのような書き方を度々見かけます。例えば、紫式部の生家である堤第について説明している箇所では、こう書かれています。
これはドラマにおいて、まひろと道長が幼い時からの知り合いであるという設定に対して、「そんなことないぞっ!」と一言を言いたかったように思われます。
2.強気な紫式部
では、史実としての紫式部と道長はどのような人物だったのか。
紫式部については、周囲からの目を気にして、屏風に書いてある文章どころか、漢字の一さえ読めないフリしていたというエピソードなどから、かなり内向的な人物という印象を持っていました。本書においても、紫式部は引っ込み思案で内省的な性格だったとされています。
しかし、言いたいことははっきり言うこともあったみたいです。それが現れているのが、夫・宣孝との夫婦喧嘩。宣孝が紫式部が書いた手紙を他人に見せたことが原因で、二人は大喧嘩。「浅い心のお前との仲は切れるなら切れるがいいんだよ」と腹を立てる宣孝に、紫式部が送った歌がこちら。
手紙を見せられたのが相当頭にきたんでしょうが、この歌を見ると、単に内向的なだけではなく、気の強い一面もあったんだろうなーと感じます。ちなみに、「光る君へ」のまひろは自己主張が強く、宣孝も驚くような行動力を示すこともあるので、史実の紫式部から内向的な部分を削ぎ落したような感じですね。
3.謙虚な道長
一方、道長については、三男ながら摂政・太政大臣に登り詰め、天皇の外祖父として絶大な権力を手に入れた人物であり、野心と権力欲求の強い人物だったんだろうなーと思っており、ドラマの中の無欲で誠実な柄本道長は大分イメージが違うなーと感じていました。
しかし、史実の道長にも意外と謙虚な面があったようです。腰病を発症し、道長は一条天皇に辞表を提出しますが、その中にはこう書かれていました。
倉本氏は、これを道長の偽らざる本音だとしています。この一文から、道長は自分がどうして権力を握ることができたのかについて冷静に分析していることが伺われます。また、まだ若く、実際に能力不足な面もあったがゆえと思われる自身の無さが表れているように思います。「影をば踏まで、面をや踏まぬ」のエピソードは創作のような気がしますね。
しかし、娘の彰子を入内させるあたりから、だんだん道長も野心をむき出しにしていきます。彰子が皇子敦成(後の後一条天皇)を出産した後は、中関白家・定子の子である敦康を邪魔者扱いし始めるのは中々露骨ですね。ただ、道長は一人で強引に進めていたわけではなく、しっかり公卿たちからの支持を取り付けながら進めています。独裁者というより、調整型の権力者だったのでしょう。
4.道長と紫式部の晩年
さて、本筋とは関係ないのですが、本書を読んでて思ったのが、当時は早世な人が多いんだなーということです。例えば、道長の兄弟である道隆は43歳、道兼は35歳で亡くなっていますし、道隆の長女・定子は26歳、定子を寵愛した一条天皇も32歳、二人の長男である敦康親王も21歳で亡くなっています。道長の権力の源泉であったその子女たちも、道長の出家後に次々と亡くなっており、それぞれの享年は三女寛子が27歳、六女嬉子が19歳、二女妍子が34歳、三男顕信が34歳となっています。
人類が病気に対抗できるようになるのは、近代医学が急速に発達する19世紀末以降のことであり、それ以前の社会では、現代的に見れば科学的根拠に乏しい医療を受けるか、加持祈祷に頼るしかありません。感染症が流行すればなすすべもなく、貴族たちは贅沢な暮らしから糖尿病を患い、女性の場合は出産の負担も大きかったのではないかと思います。
道長は、妍子・顕信が亡くなった翌年、万寿4年(1028年)に亡くなりますが、その絶大な権力の基盤であった子女たちが次々に亡くなっていくの見て、果たして何を思ったのでしょうか。道長の栄華とは、意外と儚いものだったのかもしれません。
一方、紫式部の晩年については記録がほとんど残っておらず、没年もわかっていません。宮廷に出仕し、後世にも残る名作『源氏物語』を書き上げ、道長の権力確立にも一役買った紫式部でしたが、わが身を振り返って、「何一つ思い出となるようなこともなくて過してきました私」と表現しており、なんとなく寂しい晩年を過ごしたのではないか、というような気がします。
5.まとめ
毎回のことですが、大河ドラマについては「史実ではない」という批判と、「フィクションなんだからよいではないか」という論争が起きます。「光る君へ」についても、X(旧Twitter)でそのような話題が出ているのを見かけました。僕は「フィクションはフィクションとして楽しめばよいのでは」というスタンスで見ていますが、そのためには史実をしっかり押さえておくのが重要だと思っています。そういう意味で、「光る君へ」視聴者の方には、ぜひ読んでいただきたい一冊です。
ちなみに、「光る君へ」で今後気になっている点は二つ。一つは、権力獲得後の道長をどう描くか。彰子入内後は、流石に無欲で、誠実で、流されやすい柄本道長では説明のつかない行動をとっていくわけですが、この辺りをどう描くのかが気になります。そして、もう一つは、『源氏物語』の執筆についてです。未だまひろが物語を書くモチベーションが見えてきていないのですが、道長と紫式部をつなぐかなり重要な要素なので、説得力のある形で描いてほしいところです。(ちなみに、倉本氏は「最初から道長に執筆を依頼されて書いた」説を提唱しています。)
さて、読書感想文なのか、「光る君へ」の話をしているのかわからなくなってしまいました。とにかく、「光る君へ」を見ながら、平安時代の歴史も勉強しましょう、というのが言いたいことですかね😅
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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