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【ロシア連邦の歴史2】プーチン体制の形成

こんにちは、ニコライです。今回は【ロシア連邦の歴史】の第2回目です。

前回は、初代大統領ボリス・エリツィンと体制転換に苦しみ、混迷する90年代のロシアについてまとめました。支持率の低迷と健康悪化から任期を前に辞任したエリツィンは、首相ウラジーミル・プーチンを後継者に指名しました。ここから、20年以上に渡るプーチンの支配体制がスタートすることになります。彼はいったいどのようにして権力を掌握していったのでしょうか。今回は、プーチンによる支配体制(プーチノクラシー)の形成過程を見ていきたいと思います。

1.Putin Who?

現在、ウラジーミル・プーチンを知らない人は世界でも少数派ではないかと思われます。しかし、エリツィンによって首相に任命された1999年当時、彼は中央政界に進出してわずか3年の無名の人物でした。そのため、当時のロシア・ウォッチャーたちの間では「Putin Who?(プーチンっていったい誰だ?)」という問いが飛び交ったといいます。

プーチンは1975年にレニングラード大学法学部を卒業した後、ソ連の諜報機関であるKGB(ソ連国家保安委員会)で16年間勤務しました。しかし、1991年の8月クーデターを機に辞職し、その後は当時サンクト・ペテルブルグ市長で、民主改革派として名を上げていたアナトリー・ソプチャクのもとで第一副市長として働くようになります。市役所でのキャリア順風満帆でしたが、96年の市長選でサプチャクが落選するとプーチンも市役所を去りました。

その後、プーチンは今度はモスクワへ向かい大統領府で務め始めます。そこではとんとん拍子で出世し、大統領総務局次長、連邦保安庁(FSB)長官等を経て、99年8月には首相に就任しました。そして同年末にはエリツィンから大統領代行へと任命され、翌年の大統領選挙では53パーセントの得票率で正式に大統領に当選します。なぜ、たった4年弱という短い期間で、一介の市役所職員に過ぎなかったプーチンがロシアの最高権力者に登り詰めることができたのか。このあたりの詳しい事情は未だによくわかっていません。

大統領就任演説を行うプーチン(2000年)
後ろにいるのは、前大統領ボリス・エリツィン。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5071614

2.垂直的権力

大統領に就任したプーチンが掲げたのは「強いロシア」の再建、すなわち帝政期やソ連時代のような列強としての威厳と存在感を取り戻すことでした。プーチンによれば、「強いロシア」再建のために最も重要なことは「国家権力の強化」であり、そして強い国家権力の確立には、上部の命令を下部組織に貫徹させる「権力の垂直支配」が必要不可欠とされました。

プーチンがまず実施したのが国家体制の中央集権化です。国内に200近い民族を抱えるロシアは、ソ連時代から民族別の自治を行う連邦制を採用していました。ところがペレストロイカ期になると、こうした自治共和国自治州が主権を宣言し、ロシアからの分離独立を目指すようになります。エリツィン政権は民族自治に対し否定的な態度をとりましたが、90年代を通して地方の知事や共和国大統領の発言権はますます強いものになっていきました。

ボリス・エリツィン(左)とミンチメル・シャイミエフ(右)
シャイミエフはタタールスタン共和国の初代大統領。野心的な地方指導者であり、エリツィン時代のタタールスタンは、チェチェンと並んでロシアからの自立傾向が強かった。
By RIA Novosti archive, image #30299 / Dmitryi Donskoy / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18133121

プーチンは2000年5月13日の大統領令において、ロシア連邦を7つの連邦管区に分け、それぞれの管区に大統領の全権代表を地方自治体に対する「お目付け役」として配置する新制度を創設しました。また、大統領が地方自治体の首長を解任できる「知事解任法」が制定され、2004年には首長の選出が住民による選挙制から大統領による任命制へと移行しました。こうしてロシアは「連邦」とは名ばかりの中央集権国家へと変貌しました。

ロシアの連邦管区
創設当初7つだった連邦管区は、現在では南部連邦管区から分離した北カフカス連邦管区、2014年に併合されたクリミア連邦管区が創設され、9つにまで増えている。
By File:Map of Russian districts, 2018-11-04.svg: *File:Map of Russian districts, 2016-07-28.svg: InsiderOwn workderivative work: Seryo93 - This file was derived from: Map of Russian districts, 2018-11-04.svg:, CC BY-SA 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=104966892

3.オリガルヒへの統制

プーチンはロシアの政治に大きな影響力を持つようになっていたオリガルヒ(新興寡占財閥)たちに対しても圧力をかけました。2000年7月、主要なオリガルヒら21名がクレムリンに呼びつけられ、彼らがエリツィン時代に不正に入手した利益には目をつぶる代わりに、今後は政治活動を慎み政権に忠誠・協力するようプーチンから直接言いつけられました。

さらにプーチンは、自身に反抗的態度をとるオリガルヒたちに対して容赦ない弾圧を加えました。当時「独立テレビ(NTV)」など複数のメディアを傘下に収め「メディア王」と呼ばれていたウラジーミル・グシンスキーは、プーチン政権に批判的な報道を行ったため、大統領就任のわずか1か月後に国有財産横領の容疑逮捕・投獄されてしまいます。元数学博士で、自動車販売によって財を成したボリス・ベレゾフスキーも、同年8月に起きた原子力潜水艦「クルスク」沈没事故における不手際を批判したことがプーチンの怒りを買い、国外へと追放されました。

ボリス・ベレゾフスキー(1946-2013)
自身の傘下のメディアを駆使し、エリツィンやプーチン自身の大統領選挙において多大な貢献をした「キングメーカー」であると自負していた。亡命先のロンドンからプーチン批判を繰り返していたが、資産分配をめぐる裁判で敗訴し破産。2013年に自殺した。
Авторство: Carl Court/AFP via Getty Images. https://www.gettyimages.com/detail/news-photo/russian-oligarch-boris-berezovsky-arrives-at-the-high-court-news-photo/97603050, Добросовестное использование, https://ru.wikipedia.org/w/index.php?curid=4441611

民間石油会社ユコス社の社長ミハイル・ホドルコフスキーは、2003年10月に脱税の疑いなどで逮捕され、9年の禁固刑に処されました。彼がプーチンに目をつけられたのは、「ヤブロコ」、「右派勢力同盟」などの野党勢力へ献金を行い、さらに次期大統領選挙への出馬の意思があると噂されたためでした。

プーチンとホドルコフスキー
禁固刑となったホドルコフスキーは、2013年のソチ五輪の際に恩赦をあたえられて釈放され、現在はロンドンで亡命生活を送っている。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5312823

反抗オリガルヒのたちの逮捕・追放により、プーチンはいったん民営化された企業を再び国有化するか、自身の側近の手に渡しました。特にグシンスキーやベレゾフスキーが保有していた主要なテレビ・新聞は、経営者が変わったことで政府の影響を大きく受けるようになり、政府寄りの報道をする政権PR機関に成り下がりました。

4.シロビキとシビリキ

エリツィン時代にクレムリンを支配していた人々に代って、プーチンは自分に近い人間を取り立てるようになりました。それはプーチンが40年以上の人生を過ごしていたサンクト・ペテルブルグで知り合った人々であり、通称「ペテルブルグ人脈」と呼ばれます。

その中でもとりわけ大きなグループを形成しているのが、「シロビキ」です。シロビキとはKGBやその後継組織であるFSB対外諜報庁、そして軍部などの治安関連の諸機関で働いている人々のことで、日本語では「武闘派」とも訳されます。シロビキたちはプーチンと同じ目標、すなわち「強いロシア」の再建を共有しており、プーチン政権のまさに中核的存在となりました。ロシアのエリートの中でシロビキが占める割合は、ゴルバチョフ時代が4パーセント、エリツィン時代が17パーセントだったのに対し、プーチン時代には25パーセントにまで上昇しました。

イーゴリ・セーチン(1960-)
シロビキの代表格。長年プーチンの秘書官を務め、大統領府副長官兼大統領補佐官に就任。ロシア最大の石油会社ロスネフチの現社長でもある。

シロビキに次ぐもう一つのグループが「シビリキ」です。こちらは「市民派」という意味で、プーチンがペテルブルグ市役所時代に知り合った法律家エコノミストたちのことを指します。彼らはシロビキに比べるとリベラルで、経済的自由主義を志向していると言われています。代表的な人物としては、経済学者でプーチン政権の財務大臣となるアレクセイ・クドリン、プーチンと同じくレニングラード大学法学部出身で、後に首相、さらには次期大統領となるドミトリー・メドベージェフがあげられます。

ドミトリー・メドベージェフ(1965-)
右の人物。プーチンの13歳年下。レニングラード大学で講師として勤めながら、ペテルブルグ市役所でプーチンが委員長を務める対外関係委員として勤務していた。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5111225

こうしたペテルブルグ人脈の面々は、クレムリンにおける要職だけでなく、ロシアの主要な企業の経営者をも占めるようになっていきました。

5.政権党「統一ロシア」の誕生

前任のエリツィン大統領は議会と鋭く対立し、ついに議会において安定した基盤を築くことがありませんでした。しかし、プーチンは議会さえもその手中に収めてしまいます。それを可能にしたのが、プーチンを支持する政党「統一ロシア」の存在です。

統一ロシアは、非常事態相セルゲイ・ショイグ率いる「統一」と、モスクワ市長ユーリー・ルシコフ率いる「祖国-全ロシア」が統合され、2001年12月に誕生しました。その実態は、特定のイデオロギーによるのではなく国政を安定化させるという名目で作られた寄り合い所帯の政党でした。2003年の議会選挙で、同党は223議席を獲得して第一党となり、さらに極右政党の自由民主党「祖国」を会派に取り込んだことで、議会の3分の2を占める巨大勢力となりました。

統一ロシアの創立時の三代表
左からショイグ、ルシコフ、シャイミエフ。2007-2012年にかけてはプーチンが、2012年から現在にかけてはメドベージェフが代表を務めている。
By RIA Novosti archive, image #177084 / Sergey Velichkin / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18132994

プーチンは統一ロシアを最大限に利用するため、同党に有利になるような仕組み作りを進めました。2001年に成立した政党法や2005年の選挙法改正による足切り条項の強化により、全国組織を持たない小規模なリベラル派は議席を持てないどころか、政党とすら認められなくなりました。さらに、「公正ロシア」や「正義の事業」といった衛星政党が創設されたことで、唯一純粋な野党はロシア連邦共産党だけとなりました。議会はもはやプーチンの決定をただ承認するだけの機関へと形骸化してしまったのです。

ボリス・ネムツォフ(1959-2015)
エリツィン時代の第一副首相。プーチン時代は下野し、熱心な反政権党「パルナス」の指導者となるが、2015年に暗殺される。ロシアの民主派は四分五裂の状態にあり、またエリツィン時代に政権を担っていたという負のイメージが強く、現在に至るまでプーチンに対抗できるような勢力にはいたっていない。
By World Economic ForumOriginal uploader was Keverich1 at en.wikipedia - Transferred from en.wikipedia(Original text : World Economic Forum in Russia 2003), CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6054099

6.まとめ

プーチン政権のイデオローグで、大統領府長官だったウラジスラフ・スルコフは、プーチノクラシー「主権民主主義」という言葉で説明しました。これは、プーチン政権における民主主義はロシアの特殊性を考慮したロシア版民主主義である。もし欧米諸国が、ロシアが民主主義を後退させていると批判するなら、それはお門違いであるどころか、明確な内政干渉である、と主張するものです。つまり、ロシアの特殊性を盾に、プーチンの強大な国家権力を正当化しようとしたというわけです。

共産党支配という全体主義を脱し、80年代後半から90年代にかけて言論の自由や民主主義を経験したロシアでしたが、プーチン政権のもとで再び政治的自由は失われていきました。これ以降、ロシアは民主主義という看板を掲げながら、選挙の公平性を欠き、言論の自由が許されない体制へと転換していきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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