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【近現代ギリシャの歴史1】オスマン帝国支配下のギリシャ

こんにちは、ニコライです。今回から新連載がスタートです。物語の舞台は寒さ厳しい北方のロシアから、温かい東地中海の海洋国家ギリシャに移ります。ただし、とりあげる時代は、叙事詩に謳われるようなロマンあふれる古代ギリシャではなく、近代国家として誕生した19世紀以降のギリシャについてです。

初回となる今回は、近代への助走として近世のギリシャについてとりあげます。14世紀末以降、ギリシャを含め、バルカン半島全体はイスラム教国であるオスマン帝国の支配下に置かれました。この時代は「トルコ・クラティア(トルコの支配)」の時代と呼ばれ、トルコ人による圧政が布かれた「ギリシャの暗黒時代」とも言われましたが、果たしてのその実態はどのようなものだったのでしょうか。今回は、オスマン帝国によるギリシャ支配と、帝国内のギリシャ人たちについて見ていきたいと思います。


1.オスマン帝国によるギリシャ征服

オスマン帝国は、14世紀初頭北西アナトリアに現れた、トルコ系のイスラム戦士集団であるオスマン集団を起源としています。オスマン集団がバルカン半島に進出するのは、第二代君主オルハンの時代のことです。北西アナトリア統一したオルハンは、1346年にはビザンツ帝国の帝位継承争いに乗じてバルカン半島に進軍し、1352年にはダーダネルス海峡周辺を占領しました。そして、オスマン君侯国は、ここを足掛かりにバルカン半島全体を支配するようになります。

1389年のオスマン帝国領
濃い赤色は1361年の領域、明るい赤色が1389年の領域、薄ピンクは属国。トルコ人というと、アナトリア半島を領域としていると思われがちだが、建国間もないオスマン国は、どちらかというとバルカン半島を主な領域する国であった。
By DragonTiger23 - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24982313

当時のギリシャを支配していたビザンツ帝国セルビア王国アテネ公国アカイア公国といったキリスト教国は、新興のイスラム教国の攻撃に全く対抗することができず、15世紀初頭までにギリシャの北中部がオスマン領となりました。1453年にはビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルが陥落、そして、1460年には最後に残ったペロポネソス半島モレアス専制公国が降伏したことで、現代ギリシャの国土の大陸部分のほぼ全域が、オスマン帝国の支配下に置かれました。

コンスタンティノープルに入城するスルタン・メフメト2世
メフメト2世は陥落したコンスタンティノープルを帝都とすることに決定し、ただちに臣下に略奪を辞めさせた。都市の名は引き続きコンスタンティノープルであったが、やがて「イスタンブル」と呼ばれるようになり、20世紀までオスマン帝国の首都であり続けた。

コンスタンティノープル征服以降、オスマン帝国は海軍力の増強に努め、今度はエーゲ海の島嶼部の攻略に乗り出します。15世紀後半にはレスボス島をはじめとするジェノヴァ領の島々を征服し、1522年には聖ヨハネ騎士修道会の根拠地であるロドス島を支配下におきました。近世の東地中海最大の海上勢力であったヴェネツィアの領土に対しても、長期にわたる征服活動が続けられ、1669年にはクレタ島を、1715年にはコリントスなどの港町やわずかに残った島々を征服しました。

こうして、18世紀初頭までに、現代ギリシャの領土の全域オスマン帝国の領土に組み入れられました。

19世紀初頭のオスマン支配下のギリシャ
オスマン帝国時代、現代ギリシャの領域はバルカン半島陸部のルメリア州、エーゲ海諸島の地中海州、そしてクレタ州の3州に分けられていた。

2.正教会と聖職者たち

近代以降、オスマン帝国が支配していた時代は「ギリシャの暗黒時代」、「トルコによる圧政」などと否定的に語られました。確かに抑圧や差別が全くなかったわけではありませんが、実体とはかなりかけ離れていました。以下では、オスマン帝国時代のギリシャ人たちを各身分ごとに見ていきたいと思います。

まず、正教の聖職者たちです。オスマン帝国は宗教的に寛容であり、同じ唯一神を奉じるユダヤ教徒やキリスト教徒「啓典の民」として扱い、貢納の義務を果たせば、生命・財産・信仰の自由を保障しました。帝国内のキリスト教徒たちは宗教を理由に弾圧されたり、ムスリムへの強制改宗されることはありませんでした

テッサロニキのラビ
オスマンの寛容を享受したのは正教徒だけでない。近世の西欧で迫害を受けていたユダヤ教徒やプロテスタントたちは、避難先を求めてオスマン帝国に流入していた。それ以外にも、カトリック、アルメニア教会、ネストリウス派、同じムスリムの異端であるシーア派など、実に多くの宗教・宗派が帝国領内に共存していた。

オスマン帝国の支配下にあっても、ビザンツ時代の正教会組織はそのまま残されることになり、その中心は帝都イスタンブルに置かれたコンスタンティノープル総主教座、そのトップはスルタンによって任命されるコンスタンティノープル総主教でした。そして、教会組織の高位聖職者の職は、ギリシャ人が多くを占めていました。

スルタン・メフメト2世(左)とコンスタンティノープル総主教ゲンナディオス2世(右)
コンスタンティノープル陥落後、ゲンナディオスは奴隷として売られていたが、メフメト2世は彼を買戻し、オスマン帝国時代最初の総主教に任命した。

オスマン帝国は正教徒による自治を認めており、正教会は自治の受け皿となったため、信仰や文化を司るだけでなく、司法と民政の機能も担うようになりました。正教徒共同体内における結婚、離婚、相続などの民事裁判や、キリスト教徒の同士の刑事裁判が行われる際は、聖職者が裁判を取り仕切りました

3.ギリシャ人の俗人エリート

次に、高位聖職者と並び、オスマン帝国で影響力を有していた、ギリシャ人の俗人エリートについてです。彼らは政府中枢で活躍した人々と、地方の有力者とに分けられます。

中央政界で活動したギリシャ人たちは、「ファナリオテス(フェネルの住人)」と呼ばれました。この呼び名は、彼らが総主教座が置かれたイスタンブルの金角湾沿いにあるフェネル地区近辺に住んでいたことに由来します。

イスタンブルのギリシャ人たち
オスマン時代のイスタンブルの人口比は、イスラム教徒6割、非イスラム教徒4割といわれている。そのうちギリシャ人は、19世紀のギリシャ独立直後でさえ9万人上ったとされる。
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イタリア語やラテン語などの西欧語を解する彼らは、帝国の中央政府内で通訳として活躍するようになり、御前会議首席通訳官や全オスマン艦隊の大提督主席通訳官といった職を務めました。特に、西欧諸国やロシアが台頭し、オスマン帝国と衝突を繰り返すようになる17世紀以降、ファナリオテスは対西欧・対露外交交渉において重要な役割を果たすようになります。

ニコラオス・マヴロコルダトス(1670-1730)
ファナリオテスの名門、マヴロコルダトス家の当主。御前会議首席通訳官の職は、マヴロコルダトス家、カラジャス家、ムルジス家などのごく限られた名門ファナリオテスの家系が独占していた。

一方、地方社会で力をもっていたギリシャ人は、コジャバシデスいいます。17世紀以降のオスマン帝国では、政府から徴税請負権を獲得した大地主台頭していました。こうした地方有力層は、ムスリムの場合は「アーヤーン」といいましたが、コジャバシデスはこのギリシャ人版にあたります。彼らは政府に収める額以上の税を取り立て、その余剰分を貸与したり、経済活動に利用したりして私腹を肥やしました。

トルコ風の格好をしたコジャバシデス
ファナリオテスやコジャバシデスたちは、支配層であるトルコ人の服装や生活文化を好んで取り入れており、「キリスト教徒のトルコ人」と呼ばれた。

4.正教社会の中のギリシャ人

オスマン帝国は多民族国家であり、例えば同じ正教徒でもセルビア人、ブルガリア人、ルーマニア人、アルバニア人など様々な民族が含まれていました。しかし、ギリシャ人は明らかに他の正教徒よりも優位な地位にありました。

セルビア総主教座などのバルカン半島に存在した複数の教会組織は、オスマン帝国のもとで、大部分がコンスタンティノープル総主教座に統合されました。このため、教会組織の上層部を握るギリシャ人たちは、他の民族の正教徒社会に対しても強い影響力を持つようになりました。例えば、彼らは非ギリシャ系正教徒たちに、宗教言語としてギリシャ語を使用することを奨励し、逆に各民族の母語を教会言語として使用することを禁止しました。

ソッコル・メフメト・パシャ(1506-1579)
オスマン史上、名臣として名高い大宰相。ボスニア出身で元正教徒であるソッコルの働きかけで、1557年に王国の滅亡とともに失われていたセルビア総主教座が復活するが、1766年、コンスタンティノープル総主教の働きかけで再び廃止される。

こうしたギリシャ人の優位は、世俗的な部分でも見られました。ファナリオテスは政治のみならず、商業活動にも携わっており、西欧やロシアからバルカンにつながる通商ルートは、彼らの独占状態にありました。さらに、属国であるワラキアモルダヴィア君侯(ヴォイヴォダ)の職を務めたり、通訳官としての地位を利用して、海軍大提督が総督を務める地中海州にも強い影響力を有していました。

ワラキア公のファナリオテス
ワラキアとモルダヴィアは従来は在地貴族の中から公を選んでいたが、18世紀以降、南下するロシアの影響力が強まったことから、直接支配を強めるためにファナリオテスが公に任命されるようになった。

このように、支配層に属するギリシャ人たちは、正教徒の中でも政府的・経済的影響力の強い存在だったのです。

5.農民とアウトロー

ここまで紹介した聖職者、ファナリオテス、コジャバシデスは、全員支配層身分に当たりますが、今度は被支配層のギリシャ人たちについて見ていきます。

被支配層の大半は農民です。農民たちは信仰の自由を保障される代わりに、人頭税兵役免除税などの税が課されたため、ムスリムよりも高額の税が取り立てられました。また、常備軍であるイェニチェリの兵士としてキリスト教徒の少年を差し出さねばなりませんでした。

キリスト教徒少年の徴用(16世紀の細密画)
徴用された子供たちはイスラムへ改宗し、トルコ語を学んだ後、優秀な者は「スルタンの奴隷」として宮廷に入った。子供たちにとっては、宮廷エリートへの出世の道を切り開くものでもあった。

こうした徴税や支配体制に対し不満を抱く農民や遊牧民たちは、山に入り山賊活動をおこなうアウトローと化していきました。彼らはバルカン半島全体で広く見られ、トルコ語でエシュキヤー、スラヴ語ではハイドゥク、そしてギリシャではクレフテスと呼ばれました。

クレフテスたちは、山道や辺境地帯の警備、辺境の守備のため、地方有力者やオスマン政府に雇われることがありました。これらのギリシャ人武装勢力アルマトリカピといい、キリスト教徒でありながら例外的に武器の携帯が許可されていました。彼らは治安維持活動を行う一方で、徴税権を行使して農民を搾取する抑圧者でもありました。

クレフテス
ギリシャの民衆の中では、クレフテスは抑圧者であるトルコ人と戦う義賊という風に語られることもあったが、実際はイスラム教徒だろうとキリスト教徒だろうと見境なく襲う抑圧者そのものであった。

6.まとめ

以上見てきたように、オスマン帝国によるギリシャ支配は、決して「トルコの圧政」といわれるようなものではありませんでした。ギリシャ人たちは信仰の自由や自治などの「寛容」を享受しており、高位聖職者や俗人エリート、地方有力層など体制の支配者側に加わっているギリシャ人たちも存在していました。また、帝国内の同じ正教徒の中で見れば、ギリシャ人たちは他の民族よりもはるかに厚遇であったと言えます。

しかし、そうした特権を享受できたのはほんの一握りであり、人口のほとんどを占める農民たちは、重い税を課せられて生活していました。そして、彼らは搾取していたのは、同じギリシャ人であるコジャバシデスやアルマトリだったのです。「トルコの圧政」といわれたものの実態は、ギリシャ人が正教徒全体を支配し、ギリシャ人がギリシャ人と他の民族を搾取する、という体制だったと言えるのではないでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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今回を取り上げた時代よりも以前、中世のギリシャを支配していたビザンツ帝国については、下記の連載で取り上げています。

近現代ギリシャの歴史と切り離せない、オスマン帝国については、こちら

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次回


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