【ロシア連邦の歴史7】ウクライナ危機
こんにちは、ニコライです。今回は【ロシア連邦の歴史】第7回目です。
ロシアによる侵攻開始から1年と3か月が過ぎたウクライナ戦争。未だに終わる気配がないこの戦争の背景には、数百年にわたるロシアとウクライナの歴史的対立があるわけですが、より直接的な起源となったのが、2014年に起こったロシアによるクリミア併合とそれに続くドンバス紛争です。今回は第一次ウクライナ戦争ともいうべき2014年のウクライナ危機について見ていきたいと思います。
1.脱露入欧を阻止しようとするロシア
ロシアは旧ソ連諸国を自国が一定の影響力を及ぼすべき「勢力圏」であると見なしていました。その中でもウクライナは、旧ソ連圏ではロシアに次ぐ4500万人以上の人口を誇り、ロシアと民族的に近く、また、ヨーロッパとロシアの間という地理的要衝に位置するなど、特に重要な存在でした。しかし、ウクライナは独立当初から「脱露入欧」を基本方針として掲げており、ロシアの勢力圏から脱し、EUやNATOへの加盟を目指していました。
ロシアはこれを阻止するため、ウクライナへ何度も干渉を行いました。2004年のウクライナ大統領選挙では、親露的なヴィクトル・ヤヌコヴィチを強力に支援しましたが、最終的に親欧米派のヴィクトル・ユシチェンコが勝利してしまいます。ウクライナがEU・NATOへ急速に接近すると、2008年にはジョージアの国内紛争に軍事介入し、ウクライナとジョージアの加盟プロセスを凍結させました。これを受け、ウクライナでもNATO加盟をめぐっては世論が二分されるようになり、2010年に大統領選挙では、ヤヌコヴィチが勝利し、NATOへの加盟方針を正式に取り下げました。
さらに、ウクライナのEU加盟をも阻止し、旧ソ連諸国を経済的・社会的に統合していこうとする「ユーラシア連合」構想に参加させるため、ウクライナ産農産物の輸入に制限をかけ、ウクライナの最恵国待遇の廃止を示唆するなどの脅しをかけました。結局、ヤヌコヴィッチはロシアからの圧力に屈し、EUとの連合協定を締結する1週間前に調印を撤回することになります。
ここまでの流れは下記の記事でもとりあげていますので、ご参考までに
2.マイダン革命は欧米の陰謀
ヤヌコヴィチ政権の動きに対し、ヨーロッパへの仲間入りを目指していた野党勢力や都市民は失望し、キーウではヤヌコヴィチ退陣を求める街頭運動が発生しました。やがてこの動きに極右勢力が加わったことで運動は過激化していき、デモ隊と治安部隊とが衝突し、死傷者が出るまでになりました。
プーチン大統領はキーウでのデモは「外部から入念に準備された」、すなわち欧米が関与したものだと指摘しました。ロシア政府の中では、マイダン革命をロシアの勢力圏を削ぐための欧米の陰謀であるという見方がされたのです。実際、キーウの反政権デモの現場には、欧米諸国から外相級の大臣が次々と訪れるという異例の事態が起きていました。
2014年2月21日、ヤヌコヴィッチは突如首都を脱出したため、最高会議によって大統領職を解任され、野党のヤツェニュークを首相とする暫定政権が樹立しました。この事態は、プーチンにとって欧米に対するロシアの敗北を意味しました。ロシアはついにウクライナへの直接介入に踏み切ることを決断します。
3.クリミア併合
キーウでの政権交代が終わると同時に、ロシアは迅速な行動に出ました。2月27日、クリミアに謎の武装集団が侵攻し、空港や市庁舎などの重要施設を次々に占拠していきました。この武装集団については、当初プーチン大統領は地元の自警団であると主張していましたが、後にロシアが送り込んだ特殊部隊であったことを認めています。
それと同時に、ロシア系住民を中心とするクリミアの親露派勢力はウクライナからの離脱とロシアへの編入を目指すようになりました。3月16日、クリミアでは住民投票が行われ、97パーセントの賛成票によってロシアへの編入が決定しました。もっとも、この投票は武装集団の管理のもとに行われたものであり、ロシアへの編入に反対するウクライナ系住民やクリミア・タタール人など住民の4割がボイコットしたため、とても民意を反映したものとはいえませんでした。
3月17日、クリミア自治共和国とセヴァストポリ市は主権国家「クリミア共和国」として独立しました。これを受け、プーチン大統領とクリミアのセルゲイ・アクショーノフ首相がクリミアの編入に関する条約に調印し、ロシアへのクリミアへの編入が現実のものとなりました。
4.編入正当化のロジック
ロシアによるクリミア併合に対し、国際社会では強い非難が起こりました。クリミア併合は少なくとも6つの国際条約に違反しており、「第二次世界大戦後初の非合法な領土獲得」とも評されました。3月27日の国連総会では、クリミア独立を承認した住民投票を無効とする決議に100か国が賛成票を投じました。
ロシアが編入を正当化するために掲げたのは「自国民保護」という立場です。プーチン大統領はクリミアのロシア編入式典の演説において、ウクライナ政府がロシア系住民を弾圧しており、彼らを保護するために編入を決定したのだと主張しました。また、政変で成立したウクライナ暫定政権は「非合法」であり、極右政党からの入閣があったことから「ファシスト」であると主張しました。
また、プーチンはクリミアの住民自身が併合を望み、自らの意志で併合に至ったということを強調しました。この際に念頭にあったのは、欧米からの支援で2008年にセルビアから独立したコソヴォの事例です。プーチンはコソヴォの独立は承認し、同じように独立を望んでいたクリミアの独立をしないのはおかしいと、欧米のダブルスタンダードを批判しました。もっとも、先に述べた通り、クリミアでの住民投票は問題が多く、住民の間で十分な合意形成をしたうえで行われたものとはいいがたいわけですが。
5.さらなるテコ入れ~ドンバス紛争
ロシアによる直接介入は、クリミア併合だけにとどまりませんでした。2014年3月以降、ロシア系住民の割合が高いウクライナ東部のドンバス地域では、独立を主張する現地住民とウクライナ内務省部隊との小競り合いが頻発するようになっていました。この混乱した状況下において、ロシア本土からイーゴリ・ストレリコフ率いる武装勢力が到着し、市庁舎や州議会を占拠したことで、事態はさらに激化していきました。騒乱は東部のドネツィク州・ルハンシク州の2州全体に広まり、両州はそれぞれ「ドネツク人民共和国」、「ルガンスク人民共和国」の創設を宣言するに至りました。
これに対し、ウクライナ暫定政権は20万人以上の兵力を投入し、さらに民間からも多数の義勇兵が参加したことで、同年夏までに両「人民共和国」は風前の灯火にまで追い込まれました。しかし、8月になると「義勇兵」という名のもとにロシアから正規軍が投入されたため、戦況は一変し、逆にウクライナ側が窮地に追い込まれました。同年9月には停戦について合意した「ミンスク協定(ミンスクⅠ)」が、2015年2月にはその履行を保障する「第二次ミンスク協定(ミンスクⅡ)」が結ばれることになります。
しかし、合意内容の履行をめぐって、ウクライナとロシアでは認識の相違があり、結局停戦には失敗し、和平策とされたウクライナの政治体制変更などは実施されませんでした。というよりも、分離独立勢力を残しておくことで、両「人民共和国」を介して、ウクライナに影響を及ぼし続けようということこそが、プーチンの思惑だと思われます。
ミンスク協定の問題点については下記の記事でまとめてあります。
6.まとめ
ドンバス紛争でみられる分離主義勢力への支援は、ジョージア、アゼルバイジャン、モルドヴァなど、旧ソ連諸国に対し影響力を行使する際に行われる常套手段のひとつです。そのため、クリミア併合は例外的な行動であり、これ以上ウクライナの領土を奪うような軍事行動や、ウクライナ全土を征服する全面戦争をロシアがしかけることはない、というのが、当時の国際政治学者の意見でした。しかし、ロシアのウクライナへの執着は想像以上のものであり、8年間続くことになる紛争は、その後熱戦へと発展することになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
◆◆◆◆◆
前回
次回
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?