ウクライナの歴史1 キエフ・ルーシ
1.はじめに~ウクライナ人とロシア人はひとつの民族?~
2021年7月12日、プーチン大統領はクレムリンの公式HPにて「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」という論文を発表しました。この中では、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人が独立した民族とされたのはソ連時代の政策のためであり、本来はこの3民族はひとつのロシア民族である、という歴史観・民族観が展開されています。
この考え方は、最近になって登場したものでも、プーチン大統領に特有のものでもなく、ロシアにおいて伝統的に信じられてきたものです。ロシア帝国統治下においては、ウクライナ人は小ロシア人と呼ばれ、その独自性は否定され、ロシア化政策が行われました。また、ソ連の歴史学界では、ウクライナがロシアの統治下に入ったのは、ウクライナ人がロシアとの統合を望んでいたためである、という通説がありました。
なぜプーチンは、そしてロシア帝国時代からのロシア人たちは、ウクライナ人の独自性を否定し、ロシアへの統合を主張したのか。それは、ロシア人、ウクライナ、そしてベラルーシ人が、ルーシという同じ民族的起源をもち、歴史的な過程を経て分化していったからなのです。
2.ルーシ民族の黎明~キエフ公国の建国~
7世紀初め頃から、ウクライナを含む東ヨーロッパ平原一帯に東スラヴ人と呼ばれる民族集団が定住し始めました。東スラヴ人は農耕民族であり、小さな村を点々と築き暮らしていましたが、8世紀頃からイスラム系のハザール人と交流を持つようになり、毛皮や蜂蜜を売買する商業を営み、やがて都市を築くようになりました。東スラヴ人が築いた最古の都市は、現在のロシア北西部に位置する「ノヴゴロド(新しい町の意味)」です。
都市を築くようになった東スラヴ人たちでしたが、都市の間では内紛が絶えませんでした。そこで、当時ヨーロッパ全域に活動を広めていたヴァリャーグ(ヴァイキングのこと)を君主として迎え、国家を築くことにしました。このヴァリャーグたちは「ルーシ」という名前だったため国名・民族名もルーシ、君主の名はリューリクといったため、王朝はリューリク朝と呼ばれるようになりました。
ヴァリャーグたちは交易のため、ノヴゴロドからウクライナ中央を南北に通るドニプロ川を下り、黒海に出て、当時の大国であるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを目指し南下しました。このルートは「ヴァリャーグからギリシャへの道」と呼ばれ、中世ヨーロッパの交易路として栄えました。
そのルート上のドニプロ川沿いに、スラヴ系のポリャーネ族の町がありました。そこは町を建設した伝説の三兄弟の長兄キーの名前から、キエフと呼ぼれていました。ルーシたちはこの町を征服し、その後、リューリクの跡を継いだオレフ(ロシア語名:オレグ)によって都と定められました。これ以降、ルーシはキエフを中心に発展していくため、歴史的な呼び名としてはキエフ・ルーシ(あるいはキエフ大公国)と呼ばれます。
3.キエフ・ルーシの発展
キエフ・ルーシは、ビザンツ帝国やブルガール帝国、ハザール汗国、周辺のスラヴ系諸氏族との戦争により、領土と商業活動の範囲を拡大させていきます。そして、ヴォロディーミル(ロシア語名:ウラジーミル)1世の時代には、バルト海、黒海、アゾフ海、ヴォルガ川、カルパチア山脈に広がる領土を支配するようになります。これは当時のヨーロッパ諸国の中でも最大の領土でした。
大国の主となったヴォロディーミル1世は、自身の統治を正当化し、領土内の多民族を統合するための新たな理念を必要としました。彼が特に注目したのは一神教でした。神の絶対性を主張する一神教は、君主の絶対性を正当化するのに都合がよかったのです。987年、ヴォロディーミル1世は各国に調査団を派遣して、ローマ・カトリック、ギリシャ正教、ユダヤ教、イスラム教の4つのうち、どの一神教が一番望ましいかを調べさせました。その結果、最も宗教儀礼の美しいとされたギリシャ正教への改宗が決定されました。こうしてルーシは、ビザンツ帝国を中心とする東方正教会文明圏の一員となりました。
ヴォロディーミル1世の跡を襲ったヤロスラフ1世は、慣習法を法典化した「ルスカ・プラウダ」を編纂し、さらに、ソフィア聖堂の建造、キリスト教聖典の翻訳を行い、これらの業績から「賢公」とも呼ばれています。
さらに、ヤロスラフ1世は「ヨーロッパの義父」といわれるほど、ヨーロッパ諸国との広範な婚姻関係を築きます。具体的には、スウェーデン王、ハンガリー王、ノルウェー王、フランス王に自身の娘を妃として送り、自分の息子たちにはポーランド王、トリエール司教(ドイツ)、ビザンツ帝国の娘・妹を妻として迎えさせています。これだけの婚姻関係を築くことができたのは、ヤロスラフ1世の声望がそれだけ高かったことに加え、キエフ・ルーシがキリスト教文明圏の一員として、各国に認められたためであると言えます。
4.キエフ公国の分裂と終焉
しかし、ヤロスラフ1世以降、キエフ・ルーシはゆっくりと解体へと向かっていきます。キエフ大公は、自身の息子たちを各地方の公として配置する統治体制をとっていました。しかし、12世紀初頭頃には、各地方の公位継承は父子相続が定着し、諸公はキエフ大公から独立した状態になっていきます。
キエフ大公ヴォロディーミル・モノマフは、そうした諸公をなんとか束ね、遊牧民族のポロヴェツ人と戦いました。しかし、それでも分裂の流れは止まらず、キエフ・ルーシはキエフ大公が治める国から、15程度の諸公の連合体へと変わっていきます。
13世紀になると、当時ユーラシア平原を席巻していたモンゴル帝国が、キエフ・ルーシの地に来襲します。最初の接触は1223年でしたが、15人の諸公のうち9人が死亡し、6万人のルーシ軍が戦死するという大敗を喫しました。そして、1237年、チンギス・ハンの孫バトゥ率いる本格的な征服軍が侵攻し、リャザン、スーズダリ、ウラジーミルなどルーシの有力諸都市を次々に攻略し、1240年には、長い籠城戦の末、キエフを陥落させます。こうしてキエフ・ルーシは終焉を迎えました。
1242年、大ハン・ウゲティの死の知らせが伝えられると、バトゥは西方遠征を中止しました。そして、ヴォルガ川下流に「サライ」という町を築き、ルーシ支配の拠点としました。バトゥの国はキプチャク平原に位置していたことから「キプチャク・ハン国」と呼ばれました。ルーシ諸公はバトゥに臣従を誓い、以降240年間に渡るモンゴルによる支配「タタールのくびき」を受け入れることとなります。
5.まとめ
ロシアにおいては、モンゴルの侵攻以降、ウクライナの地からは独立国家が消滅してしまったが、キエフ・ルーシを構成していたモスクワは断絶することなく続き、その制度と文化を継承しロシア帝国へと発展した、という主張がされてきました。
こうしたロシアをルーシの正当な後継者であるとする見方が、最初に紹介したウクライナ人、ベラルーシ人をロシアの下に統合しようとする歴史観・民族観のもとになっています。2016年には、キエフ公国の歴史的所有権を主張するかのように、クレムリンの近くにヴォロディーミル1世の巨大な像が建立されました。
ウクライナでも、キエフ公国と現代ウクライナとのつながりが意識されています。キエフにはこの時代に建立されたソフィア聖堂、ペチェルスク修道院が残っており、世界遺産に登録されています。また、ソ連時代に破壊されたミハイル聖堂がウクライナ独立後に再建されています。さらに、ウクライナの国章には、ヴォロディーミル1世の紋章である三叉戟が採用されています。
こうした本家本元論争ははっきりとした結論が出ることはなく、不毛な議論に終始します。しかし、こうした不毛な議論から、今回の恐ろしい戦争が始まっているのです。ウクライナ人とロシア人の対立の根源には、歴史認識の相違があることを理解することが重要だと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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次回
参考
黒川佑次『物語 ウクライナの歴史――ヨーロッパ最後の大国』中央公論社,2013年(初版2002年)
服部倫卓,原田義也編『ウクライナを知るための65章』明石書店,2018年
土肥恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社,2016年(初版2007年)
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