見出し画像

【ビザンツ帝国の歴史2】キリスト教の国教化

1.はじめに

みなさんご存じの通り、古代地中海文明は多神教の世界であり、多数の神々が信仰され、無数の神話が叙事詩や生まれました。しかし、古代から中世へ時代が移行する中でキリスト教が台頭し、多神教信仰はやがて禁止されていきました。今回はキリスト教がローマ帝国へ普及し、国教となっていく過程を見ていきたいと思います。

2.キリスト教徒への迫害

ローマ人は大変敬虔で信心深い人々でした。どれくらい敬虔なのかというと、エジプト、シリア、小アジアなど征服した民族の神々さえも信仰するようになるほどであり、ギリシャの神々に至っては、ローマの神々と融合し同一神格として扱っていました。こうした帝国領内の宗教の中でも特異だったのは、ユダヤ教キリスト教です。この2つの宗教は唯一神を崇拝する一神教であり、多神教信仰を無神論者集団として嫌っていました。ユダヤ教は民族宗教としての性格が強かったですが、キリスト教は積極的に布教を行い、紀元元年に登場して以降、帝国各地で信者を増やしていきました。

使徒パウロ(?-60年)
ローマ市民権を持ち、ギリシャ語を話すユダヤ人であり、普遍宗教であるキリスト教の形成に大きな役割を果たした。ネロ帝時代のローマで活動し、処刑された

宗教に寛容なローマ人たちも、「お前たちの神は本物の神ではない」と主張し、自分たちの信仰に介入してくるキリスト教には我慢ならず、度々弾圧を行ってきました。特にキリスト教徒が爆発的に増加する3世紀以降になると、全国規模の迫害が行われるようになりました。その最初となるのがデキウス帝で、彼は伝統的なローマ古来の神々を崇めさせようと、神々への供儀を頑なに拒否するキリスト教徒を弾圧しました。

「最後の大迫害」と呼ばれるほどの大規模なキリスト教迫害を行ったのが、ディオクレティアヌス帝です。ディオクレティアヌスは金糸を織り込んだ絹の礼服を身にまとい、跪拝礼などのペルシャ風の宮廷儀礼を取り入れ、皇帝の神格化を行いました。さらに、伝統宗教を再興するために、ローマの神々への礼拝を義務化しました。キリスト教徒たちは皇帝もローマの神々も崇拝しなかったため、多くの者が処刑され、殉教していきました。

ディオクレティアヌス(244-311年)
3世紀の混乱したローマ帝国を再び安定化させた。ローマ史上、自らの意志で生前退位した唯一の皇帝であり、引退後は故郷のダルマチアでキャベツを育てて余生を過ごした

3.ミラノ勅令

ディオクレティアヌスによる大迫害は、もはや皇帝政府が無視できないほど、キリスト教が帝国内部に普及していたことを示しています。もともとは社会の下層に広まっていったキリスト教ですが、この時代になると上層の人々にまで浸透していたのです。

ローマ帝国とキリスト教の関係を転換したのは、コンスタンティヌス帝です。コンスタンティヌスの改宗については、次のようなエピソードが伝えられています。312年、コンスタンティヌスはローマの僭称皇帝マクセンティウスとの戦いに臨む際、「汝この徴にて勝て」という神からの啓示を目にしました。それはキリスト教のシンボルであり、帝は兵士たちの盾にこれを刻ませ、マクセンティウスと戦い勝利したため、これ以降、彼はキリスト教に傾倒するようになったというのです。この話の是非はともかく、コンスタンティヌスがキリスト教の聖職者を友人としてその教義を学び、教会に対しても手厚い保護を差し伸べる人物であったことは事実でした。

「十字架の幻視」16世紀のラファエロ派の作品
なお、このエピソードはキリストの加護による勝利と伝えられているが、敵対者マクセンティウスもキリスト教に好意的であったため、この対決を「キリスト教対異教」の戦いと見なすことはできない。

313年、コンスタンティヌスは東方の皇帝リキニウスと北イタリアのミラノで会談し、キリスト教を公認する勅令を発布しました。これが世にいうミラノ勅令です。しかし、リキニウスはその後キリスト教徒を迫害するようになったため、両者の関係は悪化していきます。324年、アドリアノープルの戦いでコンスタンティヌスはリキニウスに勝利します。キリスト教を支持するコンスタンティヌスが単独皇帝となったことは、キリスト教興隆の基礎となりました。

4.第一回全地公会議

325年、コンスタンティヌスは、小アジアの都市ニカイアに帝国中の聖職者を集め、初の全国レヴェルの公会議を開催しました。この会議の目的は、当時すでに様々な分派が生じていたキリスト教の教義を統一することにありました。特に問題となったのが、当時帝国東方で広まっていたイエスの神性を巡る神学論争です。

アレクサンドリア司祭のアリウスは、イエスは神の被造物であり、その本質は神ではないと主張し、大きな非難を受けていました。なぜなら、その本質が神ではないなら、イエスは救いをもたらす者ではなくなってしまうからでした。ニカイア公会議(第一回全地公会議)において、この論争は紛糾を極め、主催者コンスタンティヌスも手を焼いたほどでした。最終的に、アリウス派の主張を異端とし、イエスと御父は同じ神の本質を有するとしたアタナシウス派正統とするニカイア信条が採択されました。

ニカイア公会議を描いたイコン(16世紀)
中央右に座すのがコンスタンティヌス、下方で横になって頭を抱えているのがアリウス

コンスタンティヌスの教会政策は、息子コンスタンティウス2世に引き継がれました。コンスタンティウスはキリスト教徒たちに囲まれて教育を受けた人物で、キリスト教への造詣も深かったと言われています。彼は教義論争で紛糾するキリスト教会を統一しようと、帝国各地で何度も教会会議を開催し、できる限り多くの聖職者が合意できる信条を書き上げようと努力しました。

5.「背教者」ユリアヌス

こうした親子2代にわたって行われたキリスト教政策をすべてひっくり返したのが、大帝の甥ユリアヌスです。コンスタンティウスと対照的に、ユリアヌスは幼い頃から古代ギリシャ文芸新プラトン主義哲学に深く親しんでおり、彼にとってキリスト教信仰は遠い存在でした。西の副帝であったユリアヌスは、360年2月にパリでコンスタンティウスに対しクーデターを起こし、同年11月に皇帝が急死すると、そのままコンスタンティノープルに入城し、単独正帝となりました。

ユリアヌス(331-363)
ヤギ髭を蓄えた哲学者としての風貌で描かれている。その宗教政策から、キリスト教会からは「背教者」と呼ばれる

これまでの皇帝政府と違い、ユリアヌスはキリスト教徒に対する直接的な弾圧は行いませんでしたが、大帝親子が行っていた教会に対する手厚い支援策を一切廃止し、宗教的寛容を認めることでキリスト教の拡大・発展を阻止しようとしました。362年にはキリスト教徒が学校教師になることを禁止する勅令を発布し、またこれまでの公会議で追放処分になっていた「異端者」たち特赦を与え、元の町に戻らせました。

しかし、ユリアヌスの宗教政策はキリスト教徒を怒らせただけでなく、伝統宗教を信仰する人々さえも困惑させ、まとまった成果をあげることができませんでした。例えば、362年に訪れたアンティオキアで、ユリアヌスは伝統宗教の儀式として動物の生贄を捧げるよう迫りましたが、市民たちはユリアヌスの命令の意味が理解できず、彼を「屠殺者」と皮肉ったりました。

363年、ユリアヌスは遠征先のマランガでペルシャ軍の攻撃を受けて重傷を負い、32歳の若さで亡くなります。在位はわずか1年8か月でした。ユリアヌス以降の皇帝は全員がキリスト教徒であり、伝統宗教への回帰が目指されることはなくなり、ローマ帝国のキリスト教化が進行していきます。

6.キリスト教の国教化

380年、グラティアヌス、ウァレンティニアヌス、テオドシウス1世のによって、「三帝勅令」が発布され、キリスト教はローマ帝国の国教に定められます。さらに、381年には、教義統一のためにコンスタンティノープル全地公会議(第二回全地公会議)が開催されました。この公会議では、ニカイア公会議以降も続いていたアリウス派とアタナシウス派との論争が議論され、アリウス派が再び異端として断罪されました。さらに、聖霊の神性についても正式に教理化され、「ニカイア・コンスタンティノープル信条」全教会の統一信条として採択されました。

さらに、この公会議で決定されたのが、コンスタンティノープル主教の昇格です。それまでヘラクレイア府主教の管轄下にあったコンスタンティノープル主教が、「新しいローマである」という理由でローマの主教に次ぐ名誉上の地位を有することが定められました。この決定によって、直ちにコンスタンティノープル教会が台頭したわけではありませんが、帝国の新首都として自覚を持ち始めた当時のコンスタンティノープルの意気込みを示すものであったといえます。

コンスタンティノープル公会議を描いた細密画(9世紀)
この公会議で採択された聖霊の神性についての教理や、コンスタンティノープルの昇格は、後にローマとコンスタンティノープルの教会の対立を生むこととなる

国教化されたキリスト教は、ローマ帝国における発言力を増していきました。それを象徴する出来事が、テオドシウスの破門です。390年、腹心の部下が殺害されたことを受け、テオドシウスはテッサロニキの市民に対し大虐殺を行いました。これに対し、ミラノの司教アンブロシウスは皇帝のミサへの参加を拒否し、破門を宣告します。テオドシウスはやむなく改悛の意を示しめさなければなりませんでした。皇帝さえも、教会に頭が上がらないという事態が起きるようになったのです。

テオドシウスの教会立ち入りを拒否するアンブロシウス(アンソニー・ヴァンダイク,1620年)
この絵画自体はフィクションであるが、アンブロシウスはユリアヌスの教会使用を拒否したこともあり、毅然と立ち向かう宗教家というイメージが形成された

7.まとめ

キリスト教の国教化は、ローマ帝国にどのような影響を与えたのでしょうか?それは、かつての宗教的寛容さが失われ、不寛容化が進行したことにあります。391年、アレクサンドリア総主教テオフィロスの請願に応じ、テオドシウスは伝統宗教の神殿を破壊することを許可し、392年にはすべての異教祭儀を禁止してしまいました。さらに5世紀になると、伝統的宗教を信じる人々がキリスト教徒によって迫害されるようになります。特に有名な事件は、哲学者ヒュパティアの虐殺です。古代ギリシャ哲学に精通したこの聡明な女性を、キリスト教徒は淫乱で妖術師のもとに出入りする女と見なして、雨のように石を投げつけ殺害し、その死体をズタズタに切り刻んだのでした。

一神教が悪い、多神教が良いというような単純な二分法で物事を語ることはできません。しかし、キリスト教の国教化によって、ローマ帝国は古代の姿と決別し、新しい姿へと変容したのでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

関連記事

ギリシャ正教世界の成立については、こちら

◆◆◆◆◆

前回

次回

この記事が参加している募集

#世界史がすき

2,700件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?