ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史1 正教世界の成立
1.はじめに~東欧・南欧に広がる正教会圏~
ギリシャ正教会は、ローマ・カトリック、プロテスタント、聖公会などの西方教会に対して、東方教会と呼ばれる宗派のうち、451年のカルケドン全地公会議が定めた教理を受け入れるカルケドン派のグループをことを指します。現在、ギリシャ正教会の信徒は全世界に広がっており、その数は約2億6000万人と言われています。
ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三国は、いずれもこの正教会の文化圏に属しており、そのうちの1億1000万人が属しているロシア正教会は、世界最大の独立正教会となっています。この三国以外ではルーマニア、セルビア、ブルガリア、ギリシャ、ジョージアなどの東欧・南欧諸国に広がっています。今回は、こうした東・南欧の正教会圏が、どのような歴史を経て形成されたのかを見ていきたいと思います。
2.教会制度の成立
紀元1世紀、パレスティナの辺境でナザレのイエスによるユダヤ教改革運動が始まりました。この宗教運動はイエスの死後に彼の弟子たちによって継承され、やがてキリスト教が成立し、ローマ帝国が支配する地中海沿岸一帯へと浸透していきます。キリスト教は、当初はローマ帝国により激しく弾圧されましたが、313年のコンスタンティヌス1世のミラノ勅令により公認され、グラティアヌス、ウァレンティニアヌス2世、テオドシウス1世による392年の三帝勅令により、ローマ帝国の国教となりました。
キリスト教がローマ帝国内に浸透していく過程で、教会制度が整えられていき、教会の最高責任者である「主教」を筆頭に、主教の下で信者の司牧にあたる「司祭」、司祭を補佐する「補祭」といった職能が定められました。主教は、ローマ帝国の行政区分に準じた「主教区」を管轄するようになり、有力都市の主教はやがて「府主教」と呼ばれ、特に中心的地位であったローマ、アレクサンドリア、アンティオキア、コンスタンティノープル、イェルサレムの5つの都市の府主教は「総主教」と称されるようになりました。
3.ローマとコンスタンティノープルの対立
もともとコンスタンティノープルを除く4つの都市の主教座は、使徒(イエスの弟子)や使徒の弟子によって創設されたという経緯を根拠に、その有力性を主張していました。しかし、コンスタンティノープルはそうした由来がなく、ローマ帝国の新首都(330年にローマから遷都)であるという政治的な理由から総主教となりました。
コンスタンティノープルの昇格に特に反発したのが、ローマでした。ローマはイエスの一番弟子であるペトロが殉教した都市であることから、5つの都市の中でもトップの地位にあると主張しており、ローマの総主教は教皇と称していました。451年にコンスタンティノープルがローマと同等の地位であるとされると、ローマは全教会に対するローマ教会の首位性を公式に宣言しました。
ローマとコンスタンティノープルの教会は、その後イコン崇敬をめぐる聖画像論争や、ニカイア・コンスタンティノープル信条の条文変更に関するフィリオクェ問題など、教義の上でも対立して相違を深めていきました。
4.スラヴ人のキリスト教化
6世紀ごろから歴史に登場し始めたスラヴ人は、東欧のヴィスワ川からドニプロ川に挟まれた地域から、西はパンノニア、南はバルカン半島にまで広がり、7世紀から10世紀にかけて各地で国家を建設しました。こうしたスラヴ諸国家に対して、ローマとコンスタンティノープルの両教会が働きかけて、キリスト教を布教しました。スラブ人への布教をめぐっては、教会間の管轄をめぐる対立だけでなく、ビザンツ帝国(395年に東西に分裂したローマ帝国の東側の通称)やフランク王国の政治的利害の対立も生じました。
中欧に建国された西スラヴ系の大モラヴィア王国は、隣接するフランク王国の影響からキリスト教化が進んでいました。しかし、モラヴィア王ロスティスラフは、フランク人の支配から脱するために独自の主教を立てようと、862年にビザンツ帝国に主教の派遣を依頼しました。この要請に対し、コンスタンティノープルからキュリロスとメトディオスの兄弟が派遣され、モラヴィアで40か月にわたり布教が行いました。しかし、869年にキュリロスが亡くなり、870年にロスティスラフが失脚すると、フランクからの独立は頓挫し、モラヴィアは西方教会の影響下にとどまりました。
西方教会の勢力圏がバルカン半島に及ぶことを恐れたビザンツ帝国は、バルカンの南スラヴ系国家であるブルガリアやセルビアを、自国の主導でキリスト教化していきました。特にブルガリアの布教をめぐっては、ビザンツ帝国からの自立を図りたい君主ボリス・ハーン、バルカン半島を自らの管轄下に置きたいローマ教会と、コンスタンティノープル教会・ビザンツ帝国とが激しく対立しました。869年から870年にかけて招集された第8回全地公会議では、ブルガリア教会の帰属問題が議題のひとつとなり、両教会の大激論の末、ブルガリア教会はコンスタンティノープル教会の管轄下になるという決定が下されました。
ヨーロッパの東辺に位置していたルーシも、998年にビザンツ帝国よりキリスト教を受容しました。当時のルーシは、ローマ教会とギリシャ正教だけでなく、ユダヤ教、イスラームとも関係が深いかかわり、ローマかコンスタンティノープルかの2択であった他のスラヴ国家と違い、4つの宗教・宗派から選択をすることができました。しかし、当時すでにビザンツ帝国の経済的・文化的影響を受けていたルーシは、必然的にギリシャ正教へと改宗することになりました。
5.教会大分裂と第四回十字軍
ローマとコンスタンティノープルの間には、教義面での相違や教会の管轄をめぐる対立ありましたが、それでも同じ信仰を共有しているという意識は持ち続けていました。しかし、11世紀になると、両教会の関係が完全に断絶してしまう出来事がおこりました。
11世紀中葉に、ヨーロッパ各地を侵略していたノルマン人がシチリア島および南イタリアに侵出しました。脅威を感じたローマ教会は、ビザンツ帝国と対ノルマン軍事同盟を結ぼうとします。1054年4月、シルヴァ・カンディダの司教枢機卿フンベルトゥス率いる教皇特使と、コンスタンティノープル総主教ミカエル・ケルラリオスが、コンスタンティノープルにて同盟交渉を始めました。
しかし、フンベルトゥスが書き下ろした教皇書簡の内容が発端で、同盟交渉どころではない事態になってしまいました。その内容とは、ローマ教皇の首位性を認めるよう要求し、ラテン教会の慣行へコンスタンティノープル教会が行ってきた批判に対して反論して、さらにはケルラリオスの総主教就任の合法性へ疑義をはさむ、といったものでした。これに驚愕したケルラリオスは同盟交渉を拒否し、教皇使節団との接触を断ってしまいました。その後も両者の対立はエスカレートし、同年7月に双方が破門を宣告したため、東西教会は大分裂(大シスマ)に至りました。
さらに、東西の分裂を決定的にしたのが第4回十字軍でした。資金面で行き詰まっていた十字軍は、その費用をまかなうためにコンスタンティノープルを占領しました。略奪などの蛮行を働いた後、傀儡政権であるラテン帝国が建国され、総主教もラテン人に替えられました。この出来事により、東方の人々は西方に対する憎悪を抱くようになり、東西両教会の関係は修復不可能な状態になりました。
6.ビザンツ滅亡後の正教世界
1261年にコンスタンティノープルが奪還され、ビザンツ帝国が復活しますが、国力は大幅に縮小し、さらに東方からオスマン帝国によって度重なる攻撃を受けました。ビザンツ帝国は、西欧から軍事援助を引き出すために教会合同を決断します。1438年にフィレンツェ公会議が招集され、皇帝ヨハネス8世、総主教ヨセフス2世をはじめとする正教会使節団が、東西教会の統一に関する協定に調印しました。しかし、その内容はギリシャ正教会が譲歩し、ローマ・カトリック教会の主張を受け入れるものであったため、多くのビザンツ人が反発しました。中には「教皇の四角帽を見るより、スルタンのターバンを見るほうがましだ」と公言する者さえいました。結局、西欧からの軍事援助を受けることはできず、1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国軍によりコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国は滅亡します。
オスマン帝国はミッレト制という宗教単位での自治制度を敷いており、この制度の中で、コンスタンティノープル総主教は正教側の家臣の代表となって正教徒内での自治を司りました。ビザンツ帝国滅亡後も総主教の重要性は変わらなかった一方で、スルタンの意のままに操られる存在となりました。同じくオスマン帝国の支配下になったセルビアやブルガリアの教会も、コンスタンティノープル総主教の管轄下に置かれました。
こうした中で、教会の独立を勝ち取ったのがモスクワでした。16世紀初頭、モスクワは第一のローマ、第二のローマ(コンスタンティノープル)に次ぐ第三のローマであるという理念が提唱され、モスクワ大公はローマ皇帝を意味するツァーリを自称するようになりました。1589年には、コンスタンティノープル総主教エレミアス2世が、モスクワ府主教を総主教へと昇格させ、モスクワ教会はコンスタンティノープル、アンティオキア、アレクサンドリア、イェルサレムに次ぐ第5番目の地位を獲得しました。こうしてモスクワはビザンツ帝国の正統な後継者を自認し、統一国家を築き、発展していきます。
7.まとめ
ローマとコンスタンティノープルの両教会は、ラテンとギリシャの文化的違いから様々な相違を抱えるようになり、二つの大シスマ、第四回十字軍を経て完全に分裂してしまいました。両者が和解するのは、1965年にコンスタンティノープル総主教アテナゴラス1世とローマ教皇パウロ6世が、相互破門を撤回するまでかかりました。
正教会を受け入れた東欧・南欧諸国は、そのほとんどがオスマン帝国の支配下に置かれます。こうした中で独立を保つことができたロシアは、やがて大国化し、正教そしてスラヴ人の盟主としてふるまうようになります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
参考
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