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大人になって歩く通学路

私は気づいた時には徒歩が嫌いな子どもで、特に徒歩通学は修行だった。
遅刻確定の日は、それはそれは孫に甘い祖父が車を出してくれたので、あっと会う間に味をしめた私は毎日遅刻確定時刻を狙って起きるような子どもだった。

大人になって突如歩く楽しみを理解すると帰省中に元通学路を散歩する事が増えた。
なぜ通学路かと言うと歩く事が嫌いだったので、今さら地元のどこを散歩すればいいか分からないのだ。
仕方なく馴染みの通学路でも歩いてみるかという安直な選択である。
ただ、その通学路散歩がクセになる。
なんせ気楽だ。
通学路の先に退屈な授業やウンザリする朝の計算プリント課題がないだけで無駄に往復できるくらい足取りは軽い。
眠い目をこすりながら歩かないだけで、こんなに楽しい通学路はないぞ。

楽しい瞬間はいたるところにあって、例えば建物の変化に気づくことや、今だから気づく真実である。
かつてつま楊枝に刺さったきな粉あめにドはまりして通いつめた駄菓子屋は、スタイリッシュな平屋の戸建てになっていた。
高校時代に幼なじみがこっそりバイトをしていたピザ屋は跡形もないくらい拡張工事を終え、広い道路の一部になっていた。
今にも潰れそうだった小屋らしきモノはグッドデザイン賞を取るような建築会社が一階部分に屋根のないずん胴な三階建ての家に変わっていた。
近道と思っていた田んぼのあぜ道は近道ではなくただの遠回りだった。

道のりは変わらないのに道に寄り添ってきたモノたちはパタパタと姿を変えた。
なにより小学生の頃よりも目線が高くなった為か、見晴らしが少しだけ良いので気持ちも自然とアガるというものだ。

思い出に浸る訳でもなく、センチメンタルになる訳でもない。
ただ、地元の変化を楽しむことが通学路散歩の醍醐味である。

通学路散歩でいつも気になることは、阿藤内科の玄関先にあるガラスの塀の角っこの存在である。ドリフターズのガラスに体の半分を映して変顔や変な動きをするコントが体験できるのだ。
このガラスの角を今の小学生は知っているだろうかと言うことだ。
おそらく知らないだろう。
なぜなら小学3年生の甥っ子にカミングアウトし、半強制的にガラスに映る私の変顔を見せたがピンと来ない微妙な反応だった。
面白いだろ、変顔で体が宙に浮くんだよ。
こんな通学路ないだろう。 

今日も飽きもせず通学路散歩をした。
当時と違うことはその手にぶら下げているのは体操着袋ではなく、通学路にある酒屋で買った日本酒が入ったエコバッグということである。