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東京でお酒を飲むならば

いつものように本屋に入り浸っている時の出来事である。
レジ店員と客の会話はふきだす笑いをマスクで必死に押さえたほどであった。
会話の一部始終は私の想像力を一気にかき立て、今宵の酒のつまみが決まった。

この本屋はショッピングモールの一画にある。都心から電車で30分の便利さをアピールし、東京のベットタウンをまっしぐらに進む街の象徴と言える。事実、近年は爆発的に人口が増え、真新しい駅前には総合病院や金融機関が立ち並び、ナビゲーションでは追い付かないほどに生活道路が整備された。
衣食住に困らぬ生活を保証されたような場所である。

「東京でお酒を飲むならばって本あります?これなんすけどぉ。」

本屋のレジで会計を済ませ財布をカバンに入れるタイミングで耳に飛び込んできたセリフを私の耳は聞き逃さなかった。
パッと顔をあげ、声の聞こえた方を確認すると20代前半と見受ける男性が3人居心地が悪そうにソワソワと立っていた。スマホの画面を店員に見せている彼は、金髪でダボッとしたオーバーサイズ過ぎるTシャツにダボダボのロールアップジーンズを重く腰にぶら下げていた。
スマホ画面を店員に見せる彼らは、この本屋に「東京でお酒を飲むならば」と言う本の在庫がありますようにと言う不安感と期待感が交差しその表情はマスクの上からも伺えるほど真剣だった。

もう、たまらなく愉快だ。
言わずもがな今や何でもスマホですよ。
Google先生が何でも教えてくれます。それでも彼らは紙媒体を頼りにここまでやって来ました。
そして何より東京で酒を呑むくらいで気負うなよ。約3年続いたコロナ禍でろくに呑み歩けず、家飲みの気楽さを知ったかも知れない。
しかし、たかが外食です。
今宵の彼らの行動を想像すればするほど私の妄想は暴れた。

気になるのは彼らが探していた「東京でお酒を飲むならば」と言うタイトルの本である。
数多あるガイドブックや、居酒屋の指南書の中からなぜ、「東京でお酒を飲むならば」をチョイスしたのか、暴れた妄想のおかげで謎は深くなるばかりであった。

驚愕の事実が発覚したのはそれから1週間後のことである。

「東京でお酒を飲むならば」は甲斐みのりさんさんが書いた東京居酒屋エッセイ集であり、女性の視点から見た落ち着く居酒屋から昭和感満載の大衆居酒屋、おでん屋、歴史のあるバーに至るまでセンスが光る女子にはたまらなく魅力的なお店が終結した一冊だった。
甲斐さんは他にも張り子やこけしなどの郷土玩具に注目した書籍を発表している。郷土玩具の可愛らしさ満載のキラキラした一冊であった。
要するに私の大好物の類いの本だったのである。

甲斐さんの文章は詳細な店の雰囲気からメニュー、ならではのエピソードなど文章で誰かに伝えると言う工夫が言葉の端々に感じて、情報量の豊かさを感じた。
物書きにおいても大変参考になる。
彼らをあんなにゲラゲラ笑って、東京で酒を呑むくらいで気負うなと、くだをまいた自分に苦笑いが止まらない。

「東京でお酒を飲むならば」と言うフレーズで広がった想像と発見は流行り病でくたびれた憂鬱をしばし忘れさせれくれたのであった。