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怒りの矛先

これからの話は2022年5月の出来事である。

東日本大震災から11年が過ぎ、復興五輪と銘打った東京オリンピックはメダルの獲得数が過去最多の58個と言う華々しい結果を残し閉幕した。
復興五輪が成功し、日本は不死鳥の如くよみがえり1つの節目を迎えた。そんな生ぬるい雰囲気に流されていたことに気づく体験をした。

この怒りの矛先をどこに向けるべきか。
何をもっての復興か。
常磐線双葉駅の旧駅舎にある休憩スペースに常駐している職員の方に双葉町の現状を教えていただいた時に感じた。
この休憩スペースにはテーブルや椅子、電子レンジやウォーターサーバーが設置されており、休憩はもちろんのこと、一時帰宅する町民の方が立ち寄ることもあるそうだ。また、双葉町を紹介する情報誌や双葉町が歩んだ震災からの歩みが一目で分かるパネルが展示してある。

福島県双葉郡双葉町は東日本大震災で起こった東京電力第一原子力発電所の事故の影響で町民全員が避難を余儀なくされた。6月からようやく10件ほどの住人が準備宿泊のために双葉町に戻ってくる予定になっているという。
あくまでも自宅に帰る準備のための滞在であり、いまなお誰一人住むことのできない場所が日本に存在する。
衝撃的な事実が大きな音を立て頭を叩いた。

今年のゴールデンウィークは夫の提案で実家から高速道路を使わずに帰ることにした。この先、高速道路を使わずに帰る状況になっても慌てないための準備として国道6号線をひたすら南下する。
福島県双葉郡浪江町を通りすぎてしばらくすると、ある場所からパタリと生活の息が途絶え、時間止まった。

明らかに人がいない。
人の気配がない。
生活のにおいがしない。

そこは福島県二葉郡二葉町。
人口約7000人の二葉町は温暖で心地よい浜風が吹き込み、おいしい農作物や果物の実る豊かな土地であった。
東日本大震災では震度6強、最大限16.5mの津波が沿岸部を襲った。
そして震災当日の夜に発令された原子力緊急事態宣言により、3月12日には全町避難が決まる。

当時は毎日、毎分のように震災関連のニュースが流れていた。
しかし、年を越す毎に話題は移り変わり、常磐自動車道の全線開通や、実家のある宮城県の美しく生まれ変わる被災地の変化をかじり見ては、復興を遂げつつある東北にホッとしていた気になっていた。
一方、福島の被災地に対しての感情は薄く、過去の出来事の1つになりつつあった。
小学校時代の修学旅行は会津若松、子供会の海水浴と言えば相馬市松川浦と決まりだった。縁がある土地のことを聞き流し過ごしてしまっていた。
完全に他人事であり対岸の火事である。

常磐線二葉駅に併設されている復興支援センターの職員の女性が今までの二葉町と、これからの二葉町について丁寧に教えてくださった。
私は福島の置かれている今を何一つ、ろくに知らないということを知った。

日本には生まれ育った土地に住むことができない、命を削って建てた家に住むことができない人がいる。
常磐自動車道は道路沿いの除染活動が積極的に行われたことにより開通したが、周囲を囲む山々の除染は手付かずであり、山の持ち主たちは同じようなに自分たちの山も除染をして欲しいと声をあげているが、一向に進展がない。新緑がまぶしい遠くの山並みが目に優しく映るが、実際は線量が高くてどうしようもないのだという。
私は双葉町のそして福島の今を知り、職員の女性の目を見て話を聞くことができないほど動揺した。
彼女は「人が住めるようになるまでは30年かかると言われていたのに、10年で成し遂げようとしている日本はすごいですよね。」と噛み締めるように話していたが、私は素直に同調が出来なかった。
10年で成し遂げた成果より、現状に怒りが込み上げた。
「よくもひどい目にあわせやがって」と言う誰に対してなのか、理解できない思いが頭の中を占領する。

夫は「被災地を観光地めぐりのように見てきたって人に対して嫌悪感を感じた時があったけど、こうして見るって大事なんだね。来てよかったよ。」とつぶやく。
興味でもいい、身を持って体験する、見る、聞くことに意味がある。

双葉町復興支援センターは常磐線双葉駅に隣接し、私たちが訪れた時には、すぐそばで町役場の仮庁舎の建設が始まっていた。
町役場が町に戻ってくる。
大きな一歩に違いない。

東日本大震災の復興完結は原発事故で避難を余儀なくされた福島の人たちが、それぞれのふるさとの優しい海風に頬を当てるまで終わらない。