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三線持って沖縄へ#03三線持って墓参り

沖縄旅行の目的のひとつが他人の墓参りだった。
旅行中に墓参りをする予定だと話すと周囲は驚く。
皆、沖縄まで行ってどうして?と目を丸くする。

私だってビックリだ。
それもこれも三線のおかげと言って間違いがない。
そして三線墓参りの旅は私の人生でかけがえのない経験となった。

その人は登川誠仁さん。
三線の名手で琉球民謡登川流宗家、琉球古典音楽湛水流名誉師範であり、三線を専用のツメではなくピックを使って弾きこなすことから沖縄のジミヘンと称された。Wikipediaによると8歳で喫煙し、9歳で飲酒を覚え、終戦後は米軍基地で働きながら、物資の横流しで稼いだ。時代背景もあるだろうが、圧倒させるロックな人生を歩んだ誠仁さんのお墓は沖縄県沖縄市にある。

誠仁さんを知ったのは、1本のDVDだった。
「登川誠仁まつり」っと銘打った画面の先で、ちっちゃなおじいちゃんが三線を弾いていた。
その人こそが登川誠仁さん、その人だった。
歌三線の歌い方のクセと日本語の字幕がなければ理解できない沖縄の方言に戸惑い、正直、夫がまた変わったモノを探してきたと思ってしまった。
しかし、繰り返し観ていると、また観たくなる。
また、誠仁さんの歌三線が聴きたくなる。

誠仁さんの魅力の虜になった。

残念ながら2013年3月に逝去されたため、生の歌声を聴く機会は無くなってしまったが、誠仁さんのお墓が沖縄県沖縄市にあることを知った私はいつか墓参りに行きたいと思うようになっていた。

沖縄旅行が決まって、迷わず墓参りの日程を組み込んだ。

誠仁さんのお墓は広い墓地の一画にあって、管理事務所でお墓の場所を聞いた時に「車で行くので後をついてきて下さい」と案内されるほどの広さであった。
沖縄独特の亀甲墓と現代的な墓のデザインをミックスしたような立派なお墓で、隣には誠仁さんが作った「豊節」の歌碑が建てられていた。
私はお墓の側に腰かけて、DVDで誠仁さんが1曲目に弾いていた「国頭(くんじゃん)ジントヨー」を披露した。歌詞は誠仁さんが作詞したものである。
すぐそこに誠仁さんがいるかもしれないと思うだけで緊張してしまう。
歌いながら誠仁さんはどんな最期だったのだろうか、最期に歌った歌はなんだったのか、誠仁さんにとって三線はどんな存在だったか、私の歌三線を誠仁さんはよろこんでくれただろうか。聞いてみたいことが山ほどあった。

歌い終わって、改めてお墓に手を合わせ、歌三線の道で研鑽を積んで参ります、と誓った。
誠仁さんに誓ってしまった今、私は三線をやめられない。

三線は私に歌う喜び、弾く楽しみを教えてくれたが、故人を思う気持ちも芽生えさせてくれた。