なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのが偽善なのか?④

 前回は難民としてパレスチナに渡った収容所の生存者が、シオニストや入植者によってどのように扱われたかを確認した。

5.活発化していく「ホロコースト」の政治利用

 1948年にイスラエルが建国すると、少しずつ生存者の待遇は良くなっていく。彼らも形はどうあれアラブ人との戦争に加わり、建国の基礎となった人々なのだから、当然それなりの尊敬は得られるべきだった(その裏にはパレスチナ人の追放があったし、中東やアフリカを出自とするユダヤ人が新たな差別の対象になったという事情もあるわけだが)。
 さらに、1961年にアドルフ・アイヒマンの裁判が行われたことも大きかった。強制収容所への移送を取り仕切ったとされるこの被告の裁判を、果たしてイスラエルで行ってもいいものかという疑問は見逃せないものだった。が、この裁判で多くの生存者が証言台に立ち収容所体験を話したのは、テレビの前で裁判の様子を見守ったイスラエル人にとって同情心を掻き立てるには十分な出来事だった(一方で、法廷で証言中に気絶した生存者を馬鹿にする連中もいるにはいたが)。
 こうして大量虐殺が徐々にイスラエル国民にとって記憶されるべき歴史となっていく中で、代わって登場したのが「ホロコースト」という言葉の濫発だった。シオニストは戦争や対外的な危機を迎えるたびに、ことあるごとにユダヤ人にとっての最悪の過去を引き合いに出しながら、自らの政治的立場を正当化するようになっていく。
 とくに「第二のホロコースト」はイスラエル史において頻発するフレーズである。たとえば、第一次中東戦争において1948年1月末までに、およそ400人のユダヤ人入植者たちが死亡したとされる。これについてベン=グリオンは「第二のホロコーストの犠牲者」と形容したそうだ。たしかに、傷ましい事実だ。しかし一方で、その周辺の村々でおよそ1500人のパレスチナ人がユダヤ人によって殺されていた事実もあるのだが。

 ホロコーストから三年という時期に、パレスチナ人やアラブ人一般をナチスと描写するのは、ユダヤ人兵士が他の人間を浄化し殺し破壊するよう命じられてもやる気を失わないようにするための、意図的な宣伝策だった。

イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』法政大学出版局p115

 「政治利用」という言葉は、今となってはすっかり陳腐になって元の意味を失いつつある。とはいえ、ついこの間までヨーロッパで起きていた出来事を傍観し、あまつさえ難民となってパレスチナに行き着いた人々を冷遇していた連中が、自らの侵略行為を正当化するために抜け抜けと「ホロコースト」という言葉を用いている様子を見せられると、やはりそれは政治利用としか形容しようがないと思われる。
 こうした政治利用は、第三次中東戦争においても見受けられた。エジプト、シリア、ヨルダン、イラクに包囲されるように対峙したイスラエルは、兵士たちの士気を上げるために過去の記憶を振りかえるよう呼びかけた――この戦争に負けたら我々はヨーロッパで起きたように虐殺されてしまうだろう、とばかりに。

「戦争に負けたら、ぼくらはみんな絶滅させられると、みんな本気で信じていました。ナチの強制収容所から来た――受け継いだ考えだと思います。自分個人としては直接ヒトラーの迫害を経験していなくても、イスラエルで育った者ならだれでも持っている考えでしょう。ジェノサイド――それは現実にあり得るのです。それを行う手段もあります。ガス室がそのことを教えてくれました」

『七番目の百万人』p458-459

 だが、周知のとおりこの戦争はわずか6日ばかりで、イスラエルの圧倒的勝利のもと終わった。アラブ側はすべて合わせればイスラエルの5倍にものぼる兵士が参加していた。が、イスラエルにはすでに様々な国々から支援を受けたおかげで、大勢の敵を圧倒できるだけの兵器がそろっていた。そしてこの結果イスラエルはガザやシナイ半島、そしてゴラン高原を手に入れた。

 度重なる周辺諸国との戦闘を経た後、イスラエルはもはや弱小国などではなく、れっきとした軍事大国となった。そんな国が民族の絶滅の可能性を気にかけるなど、はた目から見ると馬鹿馬鹿しく思える。が、建国から約30年経って労働党からリクードへと政権交代が行われ、メナヘム・ベギンが首相になると「ホロコースト」の政治利用はより一層強化されるようになる。
 彼の家族は大量虐殺によって多くが亡くなったのだが、イラクの原子炉を破壊した後、わざわざ記者会見を開いてまでこう述べたことがある。

もし我々が2年、3年、長くても4年、何もせずに傍観し、サダム・フセインが3発、4発、5発の爆弾を製造していたら、この国と民族はホロコーストに続いて失われていただろう。〔……〕ユダヤ民族の歴史に第二のホロコーストが起こっていたかもしれない。そんなことは繰り返されてはならない、繰り返されてはならないのだ! 君たちの友人や知人に伝えてくれ、我々は、我々が自由に使えるあらゆる手段を使って、我々の民族を守る。いかなる敵にも、我々に敵対する大量破壊兵器の開発を許さない。

https://www.jpost.com/middle-east/iran-news/article-702840

 ついさっき見たように、建国の父ダヴィド・ベン=グリオンによると「第二のホロコースト」は1948年に起こったそうなのだが、ベギンはその出来事を知らなかったのだろうか?
 それでなくとも、この時期にすでにイスラエルが核兵器を非公式ながら所有していた事実を思い合せると、そんな国の首相が「我々に敵対する大量破壊兵器の開発」を許さないなどと言ってのけるのは、あまりに傲慢というほかない。

 イラク原子炉の破壊については以前言及したことがあるので、詳しくはそちらにゆずる。
 余談ではあるがベギンの厚顔無恥ぶりを示すエピソードとして、彼がアイザック・バシェヴィス・シンガーと会談した時の出来事は是非とも紹介しなくてはいけない。
 ベギンはキャンプ・デーヴィッド合意を成立させた功績をもって、1978年にノーベル平和賞を受賞している。この年は、奇しくもシンガーが文学賞に選出された年でもあった。折よくアメリカに滞在していたベギンは、ニューヨークにいるシンガーのもとへと祝福に駆けつける。シンガーはアメリカで活動しつつも、イディッシュ語で著述を続けていた作家として知られているが、ロシアのユダヤ人家庭に生まれたベギンもこの言語には通じていたため両者の会話は滞りなく進んだ。だが、やがて話題は妙な方向へと逸れていく。

「なぜ、イディッシュ語で書くんだ? あれは死んだ言葉で、死者の言葉じゃないか」。
 シンガーは説明を試みたが、ベギンが割って入る。「イディッシュ語は、自分の身さえ守れないユダヤ人の能力のなさを体現している」。そして突然、次のように言い放つ。「しかも、イディッシュ語では「気をつけ」の号令がかけられないじゃないか」。
 シンガーはむっとしたが、作家としてのユーモアを発揮して、「ご存知のように、ドイツ語で「気をつけ」の号令がかけられるのならイディッシュ語でもできますよ(イディッシュ語はおもにドイツ語を基本とする方言)。しかし、これだけははっきり言っておきます。イディッシュ語は、将軍たちのためにつくられた言語ではないのです」。
 この小話は、シオニズムのイディッシュ文化に対する敵意だけでなく、シオニズムがディアスポラ、つまり、自分の身を守ることもできずに虐殺された「小さなユダヤ人」を軽蔑していることを物語る。

シルヴァン・シペル『イスラエルvs.ユダヤ人』明石書店p314(注4)

 なんとも呆れるほかない逸話ではあるが、あえてベギンを擁護するなら、イディッシュ語への冒瀆はシオニストにとっては日常茶飯事だった。

第二次世界大戦のさなかに、ヴィリニュス・ゲットーのある生存者の女性がヨーロッパユダヤ人の絶滅についてイディッシュ語で実体験を語り聞かせる催しがあった。その場に居合わせ、締め括りの発言を行ったベン=グリオンは、「非常に冷たく、ほとんど敵意を感じさせるような口調で」、彼女が語り聞かせに用いた言語を「異邦の耳障りな言語」と評したという。

『トーラーの名において』p283

 一般的に、政治的シオニズムは二種類に分けられるとされる。ひとつはダヴィド・ベン=グリオンらが率いる労働シオニズムで、社会主義に影響を受けているため左派と見なされやすい。もうひとつはウラジーミル・ジャボティンスキーらが率いる修正主義シオニズムで、こちらは穏健派に対抗してより多くの領土を求めたために右派と見なされやすい。若き日にジャボティンスキーの思想に影響を受けたベギンもこちらに含まれる。
 このように政治的立場を異にする二人の首相経験者が、大量殺戮の記憶の政治利用や、イディッシュ語に関しては一致した態度を示すあたりに、シオニズムの救いがたさがこれ以上なく表現されているといっていいだろう。もちろん、ここで改めてシオニズムの開祖の一人テオドール・ヘルツルが、同化ユダヤ人を「Mauschel」と呼んでいたことを思いだしてみてもいい。

 ところでヘルツルが編み出したシオニズムは、同化ユダヤ人への蔑視と、反ユダヤ主義との癒着の両輪で成り立っているのだった。同化ユダヤ人への蔑視が建国以降も続いていたのを確認したからには、反ユダヤ主義との癒着はどうなっていたのか、と気になるところだろう。
 大戦後、イスラエルに対して負い目を抱いていた西ドイツが様々な形で援助を行っていたことは良く知られている。そして、こうした西ドイツの援助は、今日世界で名を轟かしているイスラエルの情報機関モサドの隆盛をも後押しした。しかもそこには、戦犯となるはずだった元ナチスも関わっていた。
 戦後、西ドイツにはゲーレン機関という諜報組織があった。これは簡単に言えばアメリカが対ソ連用に設けた機関で、元ナチスであるラインハルト・ゲーレンがゼネラルマネージャーを務めていたことから付けられた名前だった。大戦中に陸軍参謀本部の課長を務めていたゲーレンは、独ソ戦の末期にヒトラーに悲観的な報告ばかり提出した結果、軍を解雇になったことでも知られている人物である。ほかのナチス幹部同様に強い共産主義アレルギーを持っていた彼は、大戦中に行っていた諜報活動をもとにアメリカに売り込みをかけ、ソ連の危険性を説くことで延命を図った。徐々にソ連との関係が悪くなっていったアメリカは、ゲーレンの情報収集能力を高く買い彼を訴追対象から外した。そのうえ、ゲーレン機関にはゼネラルマネージャーのコネクションのもと、元ナチスが少なからず名を連ねていた。(注5)
 ゲーレン機関は1955年にドイツ連邦諜報局(BND)へと発展し、ゲーレンは初代総長に就任する。そして、同時にこのころからモサドとの連携も始まっていく。元ナチスが率いる諜報機関と、ユダヤ人が率いる諜報機関がなぜ協力できたのか? その理由は複数あるが、一つには西ドイツがアラブ諸国に深い関係を築いていたことが挙げられる。たとえばイスラエル黎明期の天敵であったエジプトは近代化された軍隊を持っていたが、彼らの練兵を後押ししたのはドイツ人だった。
 平たく言えば、イスラエルは西ドイツが持っているアラブ諸国の情報が欲しかったがために、たとえ元ナチスがトップを務めている機関であろうと協力する道を選んだのだ。

 BNDが元ナチの巣窟であることが、ユダヤ人たちに問題でなかったわけではない。モサドの諜報員の中には、ドイツ人と協力することに抵抗感を持つ者も少なくなく、転属を申し出る者もいた。こんな時、一九五〇年代のモサドを率いたイサル・ハルエルは、過去にしがみつくのではなく、イスラエルの安全保障のためには「悪魔とも」仕事をせよと怒鳴りつけたと、後のインタヴューで本人が語っている。BNDとモサドの関係は、実利的なギブ・アンド・テイクであり、感情を排したきわめてプロフェッショナルな関係であった。

武井彩佳『〈和解〉のリアルポリティクス』みすず書房p49

 これだけを見ると、いかにもイスラエルが過去の出来事を水に流したうえでプラグマティックに振舞っていたかのようだ。だが、この話には続きがある。
 1950年代末から60年代初頭にかけて、エジプトではミサイル開発が盛んにおこなわれていた。その技術援助に携わっていたのはドイツ人科学者だったのだが、先の引用でも登場したモサドの長官イサル・ハルエルは、それがナチス時代の研究の産物であるとの情報をつかんだ。やがて彼は「ドイツ人科学者に対する直接行動」を敢行し、郵便爆弾を送り込んだり、エジプトへの協力を止めなければ命がないと脅迫したり、暗殺を企てたりした(一連の策動をハルエルは「ダモクレス作戦」と呼んでいた)。
 だが、こうしたモサドの暗躍は、1963年に諜報員の一人がドイツ人科学者の娘を脅迫した様子が盗聴されたのをきっかけに世界に暴露されてしまう。窮地に陥ったハルエルは、どうにか形勢を立て直そうとイスラエルの新聞に情報を売り渡した。ドイツ人科学者はエジプトで大量破壊兵器を製造しており、もしもモサドが直接行動に打って出なければイスラエルの命運は潰えていたかもしれない、何よりこの科学者がナチスの残党であるからにはイスラエルは是が非でも彼らを殺さなければいけない、との世論を形成しようと試みたのだ(実際には、当時のエジプトで製造されていた兵器の威力はたかが知れていた。それはこの数年後に起きた第三次中東戦争の結果を見れば明らかだろう)。
 しかしながら、当初モサドの直接行動を容認していたベン=グリオンとしては、これ以上世界から批判を浴びることは避けたかったし、何より経済的にも軍事的にも欠かせない支援をよこしてくれる西ドイツとの関係は良好に保ちたいと望んでいた(西ドイツからはドイツ人科学者の娘を脅迫した諜報員の身柄引き渡しを要求されてもいた)。結局ベン=グリオンは西ドイツとの関係維持を選び、梯子を外されたハルエルはやがてモサド長官を辞任することとなった。
 一方で反ユダヤ主義の残党とつるみつつ、一方で反ユダヤ主義の残党がイスラエルの脅威となりかねないと扇動する――ハルエルの撞着した態度をどのように解釈するべきだろうか? 筆者はいたってシンプルな話だと考える。つまり、イスラエルを益する者であれば反ユダヤ主義者だろうと手を組むし、イスラエルを害する者であれば容赦なく叩き潰す、といった単純な論理でしか彼は動いていなかったのだろう。

 ところで、筆者は第1節においても似たような単純な論理で動いている人物を取り上げた。現在のイスラエル首相であるベンヤミン・ネタニヤフである。彼はユダヤ人であるジョージ・ソロスへの差別的スローガンを容認する一方で、ソロスの敵にして民族主義者であるオルバーン・ヴィクトルを援護していた。一見すると撞着した態度であるが、ハルエルの例を見た後ではなおさらネタニヤフの態度は理解しやすくなるだろう。

 次回は時間を戻して、ここまで見てきたシオニストの基本原理が現代のイスラエルでどのように生きているかを見ていく。


脚注

(注4)同年に行われたシンガーのノーベル文学賞受賞記念スピーチは、こういった文脈を踏まえながら読まなければいけない。冒頭から明らかなように、シンガーはベギンに抗しながら原稿を書いているのだ。

 人々はしばしば私に「なぜあなたは死にかけの言葉で書くんだ?」とたずねます。これについて私はいくつかの理由をもって説明したい。
 一つに、私は幽霊の物語を書くのが好きなのですが、死にかけの言葉ほど幽霊にピッタリなものはないのです。死語で書けば書くほど、幽霊は活き活きとする。幽霊もまたイディッシュ語が好きで、私の知る限り、彼らはみなその言語を話す人々なのです。
 二つに、私は単に幽霊を信じているだけでなく、彼らの復活をも信じているのです。何百万ものイディッシュ語話者がいつか墓から蘇ったら、彼らはきっとこうたずねるでしょう。「新しいイディッシュ語の本はないの?」彼らにとってイディッシュ語は死語ではないのです。
 三つに、ヘブライ語は2000年もの間死語とみなされていましたが、それが突然不思議なほど活き活きとしたものとなりました。同じようなことがイディッシュ語にもいつか起こるかもしれません(こうした奇跡がどのように起こるかは見当もつきませんが)。
 まだあります。イディッシュ語を見捨てない、四つ目の小さな理由。イディッシュ語は滅びゆく言語かもしれませんが、私が唯一よく知っている言語なのです。イディッシュ語は私の母語なのであり、母が本当に死ぬことはありません。

https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1978/singer/speech/

(注5)ゲーレン機関については、2011年に注目すべき新事実が明らかになっている。『ビルト』がBNDが保存しているファイルを公開するよう訴訟を起こした結果、前身のゲーレン機関が1952年の時点でアドルフ・アイヒマンがアルゼンチンにいるという正確な情報をつかんでいたことが判明した。

 インデックスカードには、「連隊指導者(Standartenführer)アイヒマンはエジプトにはおらず、CLEMENSという偽名でアルゼンチンにいる。その住所はアルゼンチンのドイツ語新聞『道』の編集長が知っている」と記されていた。この情報はいくつかの点で誤りを含んでいる(アイヒマンの正しい役職名は「上級大隊指導者(Obersturmbannführer)」であり、彼の正しい偽名「リカルド・クレメント(Klement)」だった)ものの、実際に調査に乗り出すには十分な情報だった。にもかかわらず、ゲーレン機関はなぜかこれを等閑に付している。アイヒマンの潜伏先については情報が錯綜し、エジプトにいるとかシリアにいるとか、中には建国間もないイスラエルでユダヤ人にまぎれているというものまであった。いずれについてもゲーレン機関は現地に赴いたうえで、相次いで寄せられてくる情報の真偽を確認する手間を惜しまなかった。にもかかわらず、不自然にも彼らはアルゼンチンには足を運ばなかった(この理由を『ヴェルト』は情報が間違えている上にファーストネームがわからなかったから取り合わなかったのだろう、と推測しているが、それに対してベッティーナ・シュタングネトは「諜報機関に対するひどい侮辱」だと一蹴している)。これがただ単に怠慢の結果だったのか、それともゲーレン機関が元ナチスのはびこる組織だったことに起因する意図的な結果だったのかはわからない。いずれにせよこの結果、アイヒマンの逮捕が8年持ち越されたのは確かだ。アイヒマンの研究書を著したシュタングネトはこのように憤りを隠さず述べている。

ドイツ当局の責任者は、これほど恥ずべき記録を一般に知らしめる仕事を大衆向け新聞に任せるのではなく、事態を公開する勇気を奮い起こし、関係文書を隠さず公開して、アイヒマン事件に携わった、すでに故人となった前任者たちの失策を告白すべき時ではなかろうか。好意的に解釈しても、西ドイツは八年間なにもしなかった。その後イスラエルと、勇気ある一人のドイツ人検事長によって、さらにこれ以上何もしないという罪を犯す事態が回避されたのだ。

ベッティーナ・シュタングネト『エルサレム〈以前〉のアイヒマン』みすず書房p171

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?