なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?①

 イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、一見すると汗牛充棟の感もある第三帝国期の強制収容所に関する研究について、「それらの出来事が産み出された特有の法的‐政治的構造を考察することが端的に怠られていることもしばしばである」と不満を述べつつ、以下のように述べている。

したがって、収容所で犯された残虐行為を前にして立てるべき正しい問いとは、人間に対してこれほど残酷な犯罪を遂行することがいったいどのようにして可能だったのか、という偽善的問いではない。それより真摯で、とりわけさらに有用なのは、人間がこれほど全面的に、何をされようとそれが犯罪として現れることがないほどに(事実、それほどに一切は本当に可能になっていたのだ)自らの権利と特権を奪われることが可能だったのは、どのような法的手続きおよび政治的装置を手段としてのことだったのか、これを注意深く探究することであろう。

ジョルジョ・アガンベン「収容所とは何か?」『人権の彼方に』以文社p48

 「人間に対してこれほど残酷な犯罪を遂行することがいったいどのようにして可能だったのか」という問いは「偽善的」である――この主張を受けて、岡真理は『ガザに地下鉄が走る日』のなかで迫害されつづけるパレスチナ人を念頭におきながら、以下のような類推を行っている。

 そうであるなら、「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜ?」という問いもまた、偽善的であるだろう。ホロコーストのような暴力の被害者なら、それが倫理的誤りであることを己が体験によって熟知しているはずであり、そうである以上、同じような暴力を他者に対して振るったりはしないはずだという考えが、この問いの前提にある。自らが被害者であるにもかかわらず、そのような暴力を他者にふるう者たちは歴史から――自らが被った暴力的体験から――何も学んでいないように見える。しかし、歴史から何も学んでいないのは、実はこのような問いをナイーヴに投げかける者たちのほうであるのかもしれない。

岡真理『ガザに地下鉄が走る日』p57-58

 今般のイスラエルによるジェノサイドに際してもまたぞろ同じような問い――「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜ?」――が投げかけられているのを踏まえれば、岡の主張は是非とも検討しなければいけないだろう。その問いは本当に偽善なのか? 偽善だとしたら、我々はどのような問いを探究しなければいけないのか?
 筆者の考えではこの主張は、大筋正しいとは思うが、部分的には問題を抱えているように思う。
 まず岡は、「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜ?」と問うことがいかに偽善なのかをくわしく論証しているわけではない。彼女はこの引用の手前でイスラエルの歴史家イラン・パぺによる、イスラエルがパレスチナ人を「非人間」とみなしたために虐殺を容易にしたのだ、という研究を断片的に取りあげている。つまり岡は、そのような研究こそがイスラエルを批判するにあたって最も有効な戦略であり、イスラエルの良心や過去に訴えるような手法は偽善的なのだ、とやや急ぎ気味に主張しているだけにすぎない。「偽善的」な問いを投げかけることのどこが間違っているかを、細かく証明しようと試みているわけではないのだ(そもそも、岡自身も引用末尾において消極的に「かもしれない」と付している時点で、必ずしも確信に基づいて繰り出された主張というわけではなさそうだ)。
 筆者はこれを補うために、以下でシオニズムの歴史をさかのぼりつつ「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜ?」と問うことがいかに間違っているかを見ていく。さらにここでは深く掘り下げないが、岡がいかに細かな点で問題のある文章を書いてしまったのかも追々明らかにしていくつもりだ。

1.シオニズムは反ユダヤ主義への抵抗から生まれたのではない

 「ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がなぜ?」と問うためには、「犠牲者であるユダヤ人」と、現在にいたるまで虐殺を行ってきたシオニストとの間に連続性があると想定しなければいけない。悲惨な過去を持つ民族は犠牲者に思いを馳せつつ、新たな国家で他民族と共生しながら生きていくはずである、でも現実はそうなっていない、なぜだ、といった具合に。
 しかし、あらかじめ結論を述べておくと、シオニストの指導層は「最終解決」の犠牲者の救出を怠ってきたし、収容所が解放されて難民がパレスチナの地に渡って来てからも彼らを侮蔑してきた。そのような者たちが支配する国家には到底、「犠牲者であるユダヤ人」との間に連続性は認められない。パレスチナの地を簒奪したシオニストを犠牲者などとは呼べないのだ。

 それを見ていく前に、いったんイスラエル誕生以前まで時間をさかのぼろう。
 イスラエルの根幹を成すイデオロギーであるシオニズムの案出者の一人として、テオドール・ヘルツルが挙げられる。彼が記者としてドレフュス事件に接し、フランスを始めとしたヨーロッパに依然として根付いている反セム主義に衝撃を受けたために、同化ではなくユダヤ人による国家を作らなければいけない、と決心したという伝説は有名である。
 とはいえ、事件の顛末を知っている我々からすると、彼の思想形成の道行きには少々首をひねらざるを得ない。なぜかといえば、アルフレッド・ドレフュスはエミール・ゾラをはじめとした多くのフランス人たちからの支援を受け、最終的には無罪を勝ち取っているからだ。たしかに当時のフランスには反ユダヤ主義が深く根付いていた。しかし同時に、反ユダヤ主義に抗するフランス人のほうが多くいたからこそ、ドレフュスが軍への再入隊を認められた事実も見逃してはいけない。ここからすれば、ヘルツルは同化をあきらめるのではなく、むしろ積極的に反ユダヤ主義に抵抗する運動を展開してもよかったはずだ。にもかかわらず、なぜ彼はユダヤ人国家の創設へと進路をとったのだろうか?
 その後のヘルツルの動向を見ていくと、彼が何を考えていたのかが見えてくる。ヘルツルが拠点としていたウィーンでは、1895年にカール・ルエーガーという反ユダヤ主義をおおっぴらに公言する人物が市長選挙で当選する事件が起きた。当時のウィーンには、1880年代に繰りかえされたポグロムから逃れた東方からのユダヤ人の移民が流入し、人口の少なからぬ部分を占めるようになっていた。その反発として特定の人種を排除する言説がまかりとおっていたのだ。
 皇帝ヨーゼフ二世はこの差別主義者を市長に認証するのを拒みつづけていたが、この間ヘルツルは首相との会見でなんと「ルエーガーを市長として認証しなければならない」と進言していたという。にわかには信じがたい話だが、これはヘルツルが直々に日記に書きつけているほどなので、おそらくは事実なのだろう。一体、彼はなぜ反ユダヤ主義の政治家を援助するような真似に出たのだろうか? レニ・ブレンナーはこう解説する。

この新しく流入したユダヤ人がひとつの「問題」になったのも、受け入れ〔ウィーン〕社会の支配者にとってばかりではなかった。すでにその地方で受け入れられていたユダヤ人にとっても問題となった。彼らはその地方土着の反セム主義の台頭を恐れねばならなかったからである。ヘルツルは、流入してくるユダヤ人の人波が惹き起こす問題に対する、すでにできあいの回答を用意していた。それは、流入される側の土着ユダヤ人の上流階級と西欧資本主義の支配階級をともに満足させられるとヘルツルが考えた答えであった。すなわち、そうした階級の手を煩わせぬよう貧しいユダヤ人をその地域から連れ出す提案をこれら階級に対して行っていたのである。

レニ・ブレンナー『ファシズム時代のシオニズム』法政大学出版局p9-10

 より直截に言うのならば、ヘルツルはウィーンに反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れるのを好機と捉え、それを利用しながらユダヤ人国家の実現を図ろうとしていたのである。
 一つの国家を創り出すためには多くの人手が必要となる。すでにヨーロッパに棲みついているユダヤ人を、よその土地への移住へとそそのかすのは難しい。しかし、ポグロムから逃れてきたばかりの難民ならば再移住も心理的障壁は少ないはずだ。それに帝国としても厄介なユダヤ人の問題を考えなくても済むのならば、きっと喜んでこの提案を受け入れるはずだろう……。
 このように考えていただろうヘルツルには、ハナから反ユダヤ主義と戦うつもりはなかった。だからこそドレフュス事件についても早々と見切りをつけ、むしろそれを踏み台にしようと企てたのだ。

 こうしたヘルツルの方針はロシアに対しても維持されている。
 当時のロシアではユダヤ人労働総同盟(ブンド)が創設され、ロシア社会民主労働党に合流しつつ社会主義革命を目指していた。当局はブンドがシオニズムと敵対関係にあったことに目をつけ、シオニストを篭絡しユダヤ人による抵抗運動を分断しようともくろんだ(ロシアにおける文化的自治を目指していたブンドに対して、シオニストが望んだのは領土だった)。しかし、シオニストはやがてロシアにおけるユダヤ人の権利に関心を持ちはじめる。その結果当局はシオニストの銀行を禁止した。
 そこでヘルツルはペテルブルグに向かい、ヴヤシェスラフ・フォン・プレーヴェ内相らとの会見を企画する。プレーヴェはロシアにおけるポグロムを組織した張本人だった。

 ヘルツルは植民信託銀行再開許可をとりつけ、プレーヴェからシオニズム運動支持を表明した書簡も得たが、その支持は、シオニズム運動が出国のみに自己の機能を限定し、ロシア国内でのユダヤ人の民族的権利問題を取り上げない場合に限ることを条件にしたものであった。折り返しヘルツルはプレーヴェにロスチャイルド卿に宛てた自らの書簡の写しを送った。その書簡のなかでヘルツルは「親ユダヤ的な新聞がロシアに対するひどい非難の論調を展開しなくなれば実質的に状況のさらなる改善に寄与するでしょう。その方向で続けて影響力行使につとめるべきです。」と述べていた。

『ファシズム時代のシオニズム』p15

 このようなヘルツルによるツァーリ体制へのすり寄りが、社会主義を志向するロシアのユダヤ人たちから批判されたのは言うまでもない。後にユダヤ人社会主義労働者党(セイミスト)を結党するハイム・ジトロフスキーは、ヘルツルを「心情で動く政治家ではなく何より利害で動く政治家」と唾棄している。(注1)
 一方ヘルツルはヘルツルで、同化ユダヤ人に対して軽蔑の念を抱いていた。
 彼は自身が立ち上げた機関紙『ディ・ヴェルト』に「Mauschel」という論考を寄せている。Mauschelとは、イディッシュ訛りでドイツ語をしゃべるユダヤ人に対する蔑称だ(この言葉にはモーセ(Moses)とドイツ語のネズミ(Mous)がこだましている)。なぜヘルツルは同胞が差別されるときに使われる言葉をわざわざ用いているのか? 論述を読み進めていくとここで「Mauschel」と呼ばれているのは、ウィーンへの同化を望み、シオニズムを批判するユダヤ人であると気づく。彼はシオンの地へと向かう者を称賛する一方で、一向に覚醒しないままウィーンにしがみついている者をMauschelとののしっているのだ。
 この論考は、『ウィリアム・テル』を引用しつつMauschelに対する憎悪のこもった言葉で締めくくられている。

Mauschel、気をつけろ! シオニズムは、伝説の中で(ウィリアム・)テルがしたように行動するかもしれない。テルは息子の頭からリンゴを射ようとしたとき、二本目の矢を用意していた。もし最初の矢が外れたら、2本目の矢は復讐のために使われた。友よ、シオニズムの2本目の矢はMauschelの胸を狙っているのだ!

Theodol Herzl. "Mauschel". Zionist Writings: Essays and Addresses. Vol. 1. Herzl Press.p168

 反ユダヤ主義との癒着と、同化ユダヤ人への蔑視――この両輪こそが黎明期のシオニズムを駆動していた要因だった。ヘルツルは1904年に志半ばでこの世を去るが、彼の思想はあらゆる点で後継者たちに受け継がれていく。

 我々は一旦ここで現代のイスラエルに戻って、ヘルツルの思考がどのように生き残っているのかを確認しよう。特に、現在の首相ベンヤミン・ネタニヤフが、ハンガリーの首相オルバーン・ヴィクトルとの間で結んでいる奇妙な友情は注目に値する。
 ハンガリーは第二次大戦中に矢十字党がクーデターを起こし、ドイツの傀儡政権を築いたことで知られる国だ。国家社会主義による「最終解決」と、戦後の共産主義支配により多くのユダヤ人はこの国から去った。とはいえ、現在でもいくらかのユダヤ人が居住しており、過去の反省も含めて反ユダヤ主義には依然として警戒しなければならない国でもある。
 高名な投資家であるジョージ・ソロスは、同時に最も有名なハンガリー出身のユダヤ人と言っていいだろう。数多くの民主主義運動を支援していることでも知られるソロスは、一方でハンガリーの右翼には敵視されている。特に反移民を掲げるオルバーンにとって、移民の拡大を支持するソロスは天敵ともいえる存在だ。2017年には、彼の顔写真の横に「最後に笑うのはソロスであってはならない」との文言を付したポスターまで掲示されたほどだ。
 当然ながら駐ハンガリーのイスラエル大使は、この誹謗中傷を反ユダヤ主義につながるものとして抗議した。しかし、その数時間後イスラエルの外務省はこれと全く食い違う声明を発表した。なんと、「ソロス氏は批判を受けるべき正当なターゲットである」とハンガリーの右翼を擁護したのだ。(https://www.reuters.com/article/idUSKBN19W0DJ/)

 ネタニヤフはこの事態をどう裁いたのか。ネタニヤフは、なんとイスラエル大使に対して「君の仕事は、自分が大使を務める国の政治に関わることではない。内政に干渉するな」と叱責したのだ。

シルヴァン・シペル『イスラエルvsユダヤ人』明石書店p233

 一見すると不可解なこの一連の動きは、シオニズムを駆動している両輪(反ユダヤ主義との癒着と同化ユダヤ人への蔑視)を踏まえれば簡単に理解できる。さらに、ハンガリーがイスラエルから移民阻止用のセキュリティフェンスの購入を交渉するための首相会談が予定されていたこと、ソロスがイスラエルに対して普段から批判を浴びせていることに鑑みればなおさらだ。イスラエルを益する者であれば、それがたとえ差別主義者であろうと味方と認めるが、イスラエルを害する者であれば、それがたとえユダヤ人であろうと敵とみなす。それこそがシオニズムの典型的な思考法なのである。

2.シオニストはナチスといかに交渉したか

 前節ではヘルツルを動かしていた両輪(反ユダヤ主義との癒着と同化ユダヤ人への蔑視)を確認した。ここで気になるのは、シオニストたちがいかにナチスと対峙したか、という点だ。反ユダヤ主義の極致ともいえる存在は、普通に考えればシオニズムとは相容れないはずである。しかしながら、ヘルツルの精神を後継者たちが受け継いでいるのだとすれば、国民社会主義とさえ結託していたのではないか、との危惧も思い浮かんでくるところだ。
 はたして歴史を振りかえってみると、政権奪取当初からシオニストはナチスとの交渉を行っていたことが確認できる。念のために言っておくと、アメリカでは反ユダヤ法を堂々と施行しようとするナチスに対して、現地のシオニストも参加したボイコットキャンペーンが展開されていた。だが一方で、パレスチナに入植していたシオニストたちは、そうした状況を利用してナチスとの取引を実行しようとしていたのだ。

 世界シオニスト機構が自らの目的のためにナチスと交渉しまた利用しようとかなり準備していたことは確かである。ナチスへの交渉申し込みは一九三三年、テル・アヴィヴのレモン輸出業者、ハノテア有限会社のオーナー、サム・コーエンという人物によって独自に行われたのが最初であった。すでにブリューニング政権下でも出国資本課税措置がとられており、コーエンは、シオニスト出国者がドイツ製品購入によって免税措置を受け、後にパレスティナで商品販売後キャッシュで払い戻しを受けるというシステムをドイツ政府に提案していたのであった。〔……〕彼はドイツ外務省に宛てて「このような方法でユダヤ人によるドイツ・ボイコットに反対のキャンペーンを展開しうるかもしれません。これは問題の突破口になるかもしれません。」と書いていた。

『ファシズム時代のシオニズム』p97

 シオニストはこうした取引で何を狙っていたのだろうか。ここでは、ユダヤ人国家の提唱者がウィーンやロシアでどのように振舞っていたのかを思い出せばいいだろう。要は反ユダヤ主義者にとって邪魔なユダヤ人をパレスチナに送りこむよう差し向ければ、ユダヤ人国家の建設が近づくとの先駆者の考えを踏襲していたのだ。(注2)
 コーエンたちの交渉の結果、シオニストとナチスの間には「ハーヴァラ協定」が結ばれる。この協定の中身をトム・セゲフは以下のように解説している。

ユダヤ人移住者はドイツを出る前にドイツの信託銀行に資金を預金しなければならなかった。この資金でユダヤ人輸出業者はパレスチナ向けのドイツ製品を購入することができた。ドイツ製品を注文したパレスチナのユダヤ人顧客は地元通貨で地元信託銀行に代金を納入し、ドイツでは同額のマルクがドイツの会社に支払われた。一方パレスチナに着いたユダヤ人移住者は、ドイツで預けた預金を、地元通貨で地元信託銀行から受け取る。もちろんかなり割引された額になっている。

トム・セゲフ『七番目の百万人』ミネルヴァ書房p21

 なんとも回りくどい取引だが、これによって生じる結果はシンプルである。ナチスはユダヤ人を追い出せる上に、ボイコットで減ってしまった輸出を増やすことまでできた。シオニストにとっても新たに移住者を増やせた上に、現地の業者や銀行も取引の過程で多くの利益を得た。ドイツからやってきたユダヤ人はいくらかの富と定住地を失ったものの、排斥の危機を脱することができた。そしてシオニストがナチスの増長を防ぐどころか、手助けしたという歴史的事実が残った。
 もちろん、だからといってすべてのユダヤ人がパレスチナへの移住を選んだわけではない。パレスチナは第一世代のシオニストたちの入植から数十年経っていたが、依然として経済的には貧弱だった。そのうえ、アラブとの衝突が始まったのもこのころだった。ほとんどのユダヤ人にとってはそんな土地に向かうくらいなら、より経済的に豊かでユダヤ人への差別もゆるやかなアメリカやイギリスを選ぶ方がよかった。もちろん、ドイツに残ったユダヤ人も多かった。
 とはいえ、1933年から1939年の間に移送された数万人という数字だけでもシオニストたちにとっては十分だった。なにより移住者たちは富を持っていたので、まだまだ未熟なパレスチナの経済を大いに潤してくれた。
 もっとも、こうしたパレスチナの動向が他の国で活動するユダヤ人たちにとって、ドイツへのボイコットに欠かせない連帯を乱すものと映ったのはいうまでもない。たとえば世界ユダヤ人会議の議長であったスティーヴン・ワイズは、「パレスティナのリーダーのひとりが、プラハの会議で何度も繰り返したお題目は『パレスティナが一番重要』だった」と憤っている。ワイズの言う「リーダー」が誰だったのかはわからないが、ともかくとしてパレスチナで入植活動を進めていた指導部がボイコットに消極的だったのは事実だ。後に「イスラエル建国の父」と呼ばれるダヴィド・ベン=グリオンは、当時このような言葉を残している。

現在その闘いはヒトラーに対する「ボイコット」という形で表現されている。一方シオニズムは常に郷土におけるユダヤ人の独立を主張してきた。ところが、今、一部のシオニストが同化主義者の合唱、つまり反セム主義に対する「戦争」に加わろうとしている。しかし、我々は、ドイツ・ユダヤ人の惨事に対し、シオニスト的回答を与えるべきである。すなわち、シオンのためにドイツ・ユダヤ人の生命と財産を救うことである。ほかの何よりもこの救済が優先されればならない。

同p26-27

 こうした経緯を踏まえたうえで、次回はシオニストがどのように強制収容所で行われていた虐殺を捉えていたかを見ていくことにする。

脚注

(注1)一方でヘルツルは、同時代の反ユダヤ主義者からは(歪んだ)好感をもって遇されている。たとえば、ウィーンの教区委任司祭ヨーゼフ・デッケルトは『ユダヤ人国家』を評してヘルツルを「名誉反ユダヤ主義者」と呼び、積極的にシオニズムを支援してウィーンからユダヤ人を出国させようではないか、と訴えかけていたそうだ。(村山雅人「テオドール・ヘルツル『ユダヤ人国家』の反響」『上智大学ドイツ文学論集(31)』p113https://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000006393

(注2)もっとも、こうしたナチスとの裏取引がすべてのシオニストの賛同を得ていたわけではないことは銘記しておかなければいけない。ハイム・アルロゾロフという人物の末路は、いかにこの裏取引が少なからぬシオニストに憤りをもたらしたかを物語っている。コーエンと同時期にナチスとの交渉を思いついたアルロゾロフは、より露骨に、パレスチナでアラブ人よりもユダヤ人の人口を多くするためには、ヨーロッパからの移民を促進しなければならない、と判断していた。そして彼はナチスやイタリアの間に密約を結ぶことで、ユダヤ人の移住はうまく進められるだろうと考えた。実際にアルロゾロフは何度かドイツを訪れ、ハーヴァラ協定へとつながる土台作りに貢献している。しかし、1933年6月にテル・アヴィヴにて彼は暗殺された。犯人は現在までわかっていないが、おそらくは修正主義シオニストであるアッバ・アヒメイルの指示があったのではないかと推測されている。

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