なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?②

3.シオニストはヨーロッパユダヤ人の虐殺をどう受け止めていたか

 前回はパレスチナに入植していたシオニストが、ナチスに抵抗するどころか、むしろ結託さえしていたことを確認した。
 とはいえ、後にドイツのユダヤ人たちがたどった運命を踏まえると、シオニストを非難するのは厳しすぎるのではないか、との声も聞こえてくるところだ。たしかにハーヴァラ協定はナチスを利したかもしれない。しかしながら、ユダヤ人にとって数少ない避難所としてパレスチナが機能したのはゆるぎない事実だ。もしシオニストがこうした取引を思いつかなかったのなら、この時期にやってきたユダヤ人たちも強制収容所に向かっていたのかもしれない。それに比べれば、たとえ少数であろうと命が救われたのだからシオニストの行動は一概に否定すべきではないのではないか……。
 しかしながら、パレスチナのユダヤ人が戦中にヨーロッパから聞こえてくるユダヤ人虐殺の報にどのように接したかを見ていくと、そのように擁護するのはだいぶ難しくなる。
 ナチスによる大量虐殺が本格化していったのは1942年以降だが、当初から多くの収容所でユダヤ人が殺戮されているのではないか、とのニュースはパレスチナにも届いていた。しかし、パレスチナで発行される新聞の多くはそれを大見出しで伝えず、他のニュースの添え物として伝えるだけだったという。あげく、こんな意見を述べる新聞まで出てくる始末だった。

「当地の新聞の中には、ユダヤ人の血が流されたという黒い噂をわざと誇張する好ましくない報道をやっているものがあり、当紙はそういうやり方に何度も反対してきた。黒い縁取り記事で犠牲者や死者の数をセンセーショナルに報道するのだ。陰うつな運命をいっそう陰うつにして、強い印象を植え付けようとする。いったい何のためにそんなことをするのか。ユダヤ人はもうたくさんすぎるほど問題を抱えているのに」

同p85

 たしかにパレスチナに移住してきたユダヤ人の中には、東欧のポグロムから逃げてきた人もまじっていた。彼らにとって多数のユダヤ人が殺されるというニュースは、聞き飽きていたのかもしれない。そのうえ、パレスチナでもアラブ人の反乱によって少なからぬユダヤ人が犠牲になっている。これに追い打ちをかけるようにやってくるヨーロッパのユダヤ人が殺戮されているというニュースを真面目に受け取っていたら、気が滅入ってしまう、というのが彼らの本音だったのだろう。

「みんなはそのことはもう耳にしたくないのではないだろうか」と、『ダヴァル』編集者ベール・カツネルソンが、ヒスタドルートの集会で言った。「人々がラジオでニュースを聴いている状態を見たことがあるだろう? 世界ニュースが終わって『我々に関する』ニュースが始まると、みんなはたちまち注意をしなくなるのだ。しかし、私には彼らを責める気はない――とても聴き続ける気力がないのだろう。」ホロコースト・ニュースへの需要は大きくなかったといえる。「読んで、ため息をついて、それで終わりだ」とユダヤ機関の指導者の一人が書いている。「誰だってホロコーストのニュースを聴いて激怒すべきだと分かっている」とカツネルソン、「誰だってヨーロッパ・ユダヤ人が恐ろしい目に遭っていることは分かっている。しかし、記事に書かれていることが自分の身に降りかかる悲劇だという形で理解できないのだ。」

同p88-89

 世間の反応も鈍ければ、指導部の反応も鈍かった。特にヨーロッパ・ユダヤ人の救出作業においてシオニストは基本的に積極的でなかった。どころか、彼らはパレスチナにやってきた難民たちにも冷淡に振舞った。
 大戦中、パレスチナには「約五万人のユダヤ人難民がパレスチナへ来た。そのうち約一万六千人が密入国であった」。1939年にドイツからの亡命者およそ1000人を乗せたセントルイス号がアメリカへの入国を拒まれ、ヨーロッパにとんぼ返りせざるを得ず、ほとんどの人々が後に強制収容所へと連行された物語は良く知られている。
 同じようなことはパレスチナでも起きていた。1940年11月、ハイファ港にやってきたパートリア号はおよそ1800人のユダヤ人難民を乗せていた。入国許可証を持っていなかった彼らはイギリス当局から拒否され、モーリシャスへと強制送還されかけていた。シオニストはこれを阻止するために、船を爆発させればそもそも出航さえできないと考えた。モシェ・シェルトク(シャレット)のもとで行われた作戦は、ところが爆発の威力を見誤ったがために267人の死者を出す大事件となってしまう。
 1957年まで真相が覆い隠されていたこの事件は、とはいえユダヤ人を救わなければいけないと気が急いてしまったがために起こった悲劇だった、との言い訳が効くかもしれない。
 しかしながら、作戦の実行者となったシェルトクの不法移民に対する態度を確認すると、果たして本当に彼がヨーロッパ・ユダヤ人に同情を寄せていたかは極めて怪しくなる。

「まるでなんでもありだ」と、モシェ・シャレットは不法移民のあり方を非難した。「狼ども(修正主義派)が活動を再開、今後も続けるだろう。あいつらは誰でも彼でも連れてくる――盲人でも、障害者でも、ひどいのは老人ホームを丸抱えで連れてくる」と書いている。シャレットは不法移民をやめろとは言わなかったが、ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅が一番盛んなときでも、ハアパラ(不法移民)が人材選択をしないことを批判した。戦争開始後しばらくして、状況の如何に関わりなく、移民の原則を主張した。「良質の者」に限定し、「クズ」は放っておけ、という原則を。

同p102-103強調引用者

 この引用を読むとシェルトクがヘルツルの方針を、より劣悪な形で引き継いでしまったのが分かるだろう。ヘルツルはシオニストとして目覚めない同化ユダヤ人を「Mauschel」と罵っていたのだった。それに対してシェルトクは、パレスチナにおいて戦力となる「良質な者」がやってくるのはかまわないが、役に立たたないユダヤ人は「クズ」だから「放っておけ」と言っているのだ。
 
なにより、こうしたシオニストの「人材選択」への執着は、同時期にヨーロッパで進行していた出来事を思い合せると、なんとも心胆を寒からしめる。

 一部の文献には、シオニズム運動が対象者の「選抜」を行っていた、つまり、政治ないし経済の観点からシオニズムの企図に積極的な貢献をなし得る人々のみをパレスティナに受け入れようとしていたという批判も散見する。ここで批判者が用いている「選抜」という言葉は、とりわけ重々しい観念連合を内部に宿すものだ。なぜといって、かつて絶滅収容所に到着したユダヤ人を貨物列車から下ろす際、SS隊員らが、当面、第三帝国の経済に貢献し得る人々を「選抜」する一方、その「選抜」から漏れた人々は、即刻、ガス室に送りこまれていたからだ。

ヤコヴ・M・ラヴキン『トーラーの名において』平凡社p285-286

 たぶん、シオニストは第三帝国の占領地で繰り広げられていた出来事をつぶさに知っていたわけではないだろう(後でくわしく見ていくとおり、戦時中にもヨーロッパからパレスチナへと逃げてきたユダヤ人は少なからずいたが、彼らの証言は入植者たちにまるで聞き入れられなかったのだから)。もっとも、本稿の序盤で見たようにシオニストが反ユダヤ主義と浅からぬ結託関係を結んでいた歴史を踏まえるのならば、彼らが「人材選択」や「選抜」に対して並々ならぬこだわりを見せたのは、単なる偶然の一致以上のものを嗅ぎ取らざるを得ない。(注3)

 こうした態度は、ヨーロッパで虐殺されていったユダヤ人に対しても向けられた。たとえば、後に初代内閣の内務大臣を務めることとなるイツハク・グルェンバウムは、自らの出身であるポーランドで起きた虐殺について、「ポーランド・ユダヤ人が抵抗する「勇気すらなかった事実」を思うと「私の心は悔しさで苛まれる」と言った」。

 〔……〕グルェンバウムは、かつての同国人のことを嫌悪感むき出しで語った。死地へ運ぶ貨車に積み込まれるのを、「何千人ものユダヤ人が列を作って静かに順番を待っていたのだ」と、吐き捨てるように言った。彼には、「そんな状態で」抵抗がなかったこと、戦って死ねと鼓舞する一人もいなかったことが、とても理解できないことだったのだ。半年前にポーランド・ユダヤ人は「名誉ある死よりは犬のように生きる方を好むのだ」と発言したグルェンバウムは、今度は、「彼らはボロ雑巾になった」と発言した。

『七番目の百万人』p130

 念のために繰りかえすが、グルェンバウムは後に内務大臣を務めるほどの有力者だ。そんな権力を持っている人間が、このように公言してはばからなかったのが当時のパレスチナ・ユダヤ社会だったのである。
 しかも、これは特殊例ではない。グルェンバウムのように、ヨーロッパのユダヤ人をみじめにくたばっていった者として評した人間は多数いた。

ヨーロッパ・ユダヤ人を蔑む言葉は、ホロコースト悲劇の全貌が明らかになり、アウシュヴィッツがみんなに知られるようになった時でも、パレスチナ・ユダヤ人社会で頻繁に聞かれた。「何故ハンガリー・ユダヤ人は自衛しないのだ」と、一九四四年六月、『ダヴァル』第一面の見出しが描いていた。「反撃もできない被虐者たちの泣き声にはうんざりだ」と書いた新聞もあった。

同p130-131

 一応公平を期して言うのならば、パレスチナのシオニストたちの中でヨーロッパユダヤ人を救出しようと試みる動きがないわけではなかった。先程のシェルトクに関する引用でも見たように、主流派でなかった修正主義者は不法な手段を用いてでもヨーロッパからパレスチナへの移民を企てようとしていた。
 あるいは、落下傘部隊を連合軍に派遣する試みもなされていた。様々な形でパレスチナに移住したヨーロッパを出自とするユダヤ人たちが、故郷の同胞たちの窮地を救おうと志願したのだ。これはこれでたしかに感動的な逸話ではあるが、一方で指導層は事態を冷淡に捉えていた。

 任務に出発する前夜、イシュヴの指導者たちが落下傘特殊部隊の若者たちに会った。ベール・カツネルソン、ダヴィド・ベン=グリオン、ゴルダ・メイルもその中にいた。若者たちは、ヨーロッパユダヤ人のために何をすることが自分たちに期待されているのか、指導者がはっきり言ってくれるだろうと固唾を呑んで待った。しかし、作戦的な指示は一切なく、ただ激励の言葉を受けただけだった。ベン=グリオンは、戦後ヨーロッパ・ユダヤ人が集団でパレスチナへ移住してくるように、「イスラエルの地こそ彼らの国であり彼らを守る要塞であることを、確実に認識させよ」と言った。

同p104

 この引用でもわかるように、ベン=グリオンたちがこういった救出活動をなぜ承諾したのかと言えば、「ホロコースト生存者がシオニストから救援の手が差し伸べられなかったことを悟ると、『反シオニズム風潮』が広がる恐れがある」だとか、「やがてホロコースト生存者に、イシュヴが彼らを見放したのではないという説得活動を行う必要に迫られるであろう」とかいった懸念があったからだった。
 その証拠に、落下傘部隊に参加した若者たちに軍歴はなかった。行く先々で彼らはまともに任務をこなせず、お荷物扱いされていた。ベン=グリオンを始めとした指導層はそうなるだろうことを予測しつつも、自分たちは決して虐殺を見過ごしていたわけではなかったのだ、とのアリバイが欲しかったからこそ彼らを派遣しただけなのである(仮に練兵された若者たちをヨーロッパに送りこもうものなら、アラブ人たちと戦うための貴重な戦力を失いかねなかっただろう)。
 ここまで再三再四引用しているセゲフは、こんな逸話も紹介している。

 戦争が勃発したとき、連合キブツの一つハキブツ・ハメウハドの役員七人がナチに占領されたポーランドで取り残された。なんとか三か月以内で脱出してパレスチナへ帰ることができたが、それに対してベール・カツネルソンが激怒した。「占領地で十人ぐらいは殉死して欲しかった」と。イシュヴはシンボルを必要としていたのだった。

同p105-106

 でも、こうした救援活動の結果すこしでもヨーロッパのユダヤ人が救われたのなら、やらないよりはマシだったのではないか、との声も聞こえてきそうだ。
 もっとも、シオニストが重い腰を上げてこういった活動に手をつける頃には「もう手遅れの状態だった」。セゲフによると、トルコでスパイ活動をしていたユダヤ人たちは、「我々が救えたのはごく僅かで、虐殺された人数に比べれば大海の一滴にすぎない」だとか、最悪の場合トルコでの活動の成果は「ゼロだ」ったと答えているという。
 実際のところ、仮にシオニストが本腰を入れて救援活動を行っていればヨーロッパユダヤ人の被害は減ったか、と言えばだいぶ疑わしい。シオニストは長年の植民活動を通しても依然として勢力を伸ばせていなかったし、経済的にも政治的にも貧弱と言わざるを得なかった。そんな連中が国民社会主義と真っ向から取っ組み合っても、返り討ちにされたに違いない。
 とはいえどのみち、パレスチナのシオニストがヨーロッパで起こっている出来事に対して冷淡な態度をとりつづけたことをふまえるのならば、「最終解決」による犠牲者たちと、イスラエルを建国した者たちとの間に連続性を認めるのは、たとえ彼らがそれぞれ「ユダヤ人」と呼ばれる人々であろうときわめて難しいように思われる。

 次回は収容所解放後、難民としてパレスチナに渡った生存者がどのように入植者に扱われていたのかを見ていく。

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