なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?②
3.シオニストはヨーロッパユダヤ人の虐殺をどう受け止めていたか
前回はパレスチナに入植していたシオニストが、ナチスに抵抗するどころか、むしろ結託さえしていたことを確認した。
とはいえ、後にドイツのユダヤ人たちがたどった運命を踏まえると、シオニストを非難するのは厳しすぎるのではないか、との声も聞こえてくるところだ。たしかにハーヴァラ協定はナチスを利したかもしれない。しかしながら、ユダヤ人にとって数少ない避難所としてパレスチナが機能したのはゆるぎない事実だ。もしシオニストがこうした取引を思いつかなかったのなら、この時期にやってきたユダヤ人たちも強制収容所に向かっていたのかもしれない。それに比べれば、たとえ少数であろうと命が救われたのだからシオニストの行動は一概に否定すべきではないのではないか……。
しかしながら、パレスチナのユダヤ人が戦中にヨーロッパから聞こえてくるユダヤ人虐殺の報にどのように接したかを見ていくと、そのように擁護するのはだいぶ難しくなる。
ナチスによる大量虐殺が本格化していったのは1942年以降だが、当初から多くの収容所でユダヤ人が殺戮されているのではないか、とのニュースはパレスチナにも届いていた。しかし、パレスチナで発行される新聞の多くはそれを大見出しで伝えず、他のニュースの添え物として伝えるだけだったという。あげく、こんな意見を述べる新聞まで出てくる始末だった。
たしかにパレスチナに移住してきたユダヤ人の中には、東欧のポグロムから逃げてきた人もまじっていた。彼らにとって多数のユダヤ人が殺されるというニュースは、聞き飽きていたのかもしれない。そのうえ、パレスチナでもアラブ人の反乱によって少なからぬユダヤ人が犠牲になっている。これに追い打ちをかけるようにやってくるヨーロッパのユダヤ人が殺戮されているというニュースを真面目に受け取っていたら、気が滅入ってしまう、というのが彼らの本音だったのだろう。
世間の反応も鈍ければ、指導部の反応も鈍かった。特にヨーロッパ・ユダヤ人の救出作業においてシオニストは基本的に積極的でなかった。どころか、彼らはパレスチナにやってきた難民たちにも冷淡に振舞った。
大戦中、パレスチナには「約五万人のユダヤ人難民がパレスチナへ来た。そのうち約一万六千人が密入国であった」。1939年にドイツからの亡命者およそ1000人を乗せたセントルイス号がアメリカへの入国を拒まれ、ヨーロッパにとんぼ返りせざるを得ず、ほとんどの人々が後に強制収容所へと連行された物語は良く知られている。
同じようなことはパレスチナでも起きていた。1940年11月、ハイファ港にやってきたパートリア号はおよそ1800人のユダヤ人難民を乗せていた。入国許可証を持っていなかった彼らはイギリス当局から拒否され、モーリシャスへと強制送還されかけていた。シオニストはこれを阻止するために、船を爆発させればそもそも出航さえできないと考えた。モシェ・シェルトク(シャレット)のもとで行われた作戦は、ところが爆発の威力を見誤ったがために267人の死者を出す大事件となってしまう。
1957年まで真相が覆い隠されていたこの事件は、とはいえユダヤ人を救わなければいけないと気が急いてしまったがために起こった悲劇だった、との言い訳が効くかもしれない。
しかしながら、作戦の実行者となったシェルトクの不法移民に対する態度を確認すると、果たして本当に彼がヨーロッパ・ユダヤ人に同情を寄せていたかは極めて怪しくなる。
この引用を読むとシェルトクがヘルツルの方針を、より劣悪な形で引き継いでしまったのが分かるだろう。ヘルツルはシオニストとして目覚めない同化ユダヤ人を「Mauschel」と罵っていたのだった。それに対してシェルトクは、パレスチナにおいて戦力となる「良質な者」がやってくるのはかまわないが、役に立たたないユダヤ人は「クズ」だから「放っておけ」と言っているのだ。
なにより、こうしたシオニストの「人材選択」への執着は、同時期にヨーロッパで進行していた出来事を思い合せると、なんとも心胆を寒からしめる。
たぶん、シオニストは第三帝国の占領地で繰り広げられていた出来事をつぶさに知っていたわけではないだろう(後でくわしく見ていくとおり、戦時中にもヨーロッパからパレスチナへと逃げてきたユダヤ人は少なからずいたが、彼らの証言は入植者たちにまるで聞き入れられなかったのだから)。もっとも、本稿の序盤で見たようにシオニストが反ユダヤ主義と浅からぬ結託関係を結んでいた歴史を踏まえるのならば、彼らが「人材選択」や「選抜」に対して並々ならぬこだわりを見せたのは、単なる偶然の一致以上のものを嗅ぎ取らざるを得ない。(注3)
こうした態度は、ヨーロッパで虐殺されていったユダヤ人に対しても向けられた。たとえば、後に初代内閣の内務大臣を務めることとなるイツハク・グルェンバウムは、自らの出身であるポーランドで起きた虐殺について、「ポーランド・ユダヤ人が抵抗する「勇気すらなかった事実」を思うと「私の心は悔しさで苛まれる」と言った」。
念のために繰りかえすが、グルェンバウムは後に内務大臣を務めるほどの有力者だ。そんな権力を持っている人間が、このように公言してはばからなかったのが当時のパレスチナ・ユダヤ社会だったのである。
しかも、これは特殊例ではない。グルェンバウムのように、ヨーロッパのユダヤ人をみじめにくたばっていった者として評した人間は多数いた。
一応公平を期して言うのならば、パレスチナのシオニストたちの中でヨーロッパユダヤ人を救出しようと試みる動きがないわけではなかった。先程のシェルトクに関する引用でも見たように、主流派でなかった修正主義者は不法な手段を用いてでもヨーロッパからパレスチナへの移民を企てようとしていた。
あるいは、落下傘部隊を連合軍に派遣する試みもなされていた。様々な形でパレスチナに移住したヨーロッパを出自とするユダヤ人たちが、故郷の同胞たちの窮地を救おうと志願したのだ。これはこれでたしかに感動的な逸話ではあるが、一方で指導層は事態を冷淡に捉えていた。
この引用でもわかるように、ベン=グリオンたちがこういった救出活動をなぜ承諾したのかと言えば、「ホロコースト生存者がシオニストから救援の手が差し伸べられなかったことを悟ると、『反シオニズム風潮』が広がる恐れがある」だとか、「やがてホロコースト生存者に、イシュヴが彼らを見放したのではないという説得活動を行う必要に迫られるであろう」とかいった懸念があったからだった。
その証拠に、落下傘部隊に参加した若者たちに軍歴はなかった。行く先々で彼らはまともに任務をこなせず、お荷物扱いされていた。ベン=グリオンを始めとした指導層はそうなるだろうことを予測しつつも、自分たちは決して虐殺を見過ごしていたわけではなかったのだ、とのアリバイが欲しかったからこそ彼らを派遣しただけなのである(仮に練兵された若者たちをヨーロッパに送りこもうものなら、アラブ人たちと戦うための貴重な戦力を失いかねなかっただろう)。
ここまで再三再四引用しているセゲフは、こんな逸話も紹介している。
でも、こうした救援活動の結果すこしでもヨーロッパのユダヤ人が救われたのなら、やらないよりはマシだったのではないか、との声も聞こえてきそうだ。
もっとも、シオニストが重い腰を上げてこういった活動に手をつける頃には「もう手遅れの状態だった」。セゲフによると、トルコでスパイ活動をしていたユダヤ人たちは、「我々が救えたのはごく僅かで、虐殺された人数に比べれば大海の一滴にすぎない」だとか、最悪の場合トルコでの活動の成果は「ゼロだ」ったと答えているという。
実際のところ、仮にシオニストが本腰を入れて救援活動を行っていればヨーロッパユダヤ人の被害は減ったか、と言えばだいぶ疑わしい。シオニストは長年の植民活動を通しても依然として勢力を伸ばせていなかったし、経済的にも政治的にも貧弱と言わざるを得なかった。そんな連中が国民社会主義と真っ向から取っ組み合っても、返り討ちにされたに違いない。
とはいえどのみち、パレスチナのシオニストがヨーロッパで起こっている出来事に対して冷淡な態度をとりつづけたことをふまえるのならば、「最終解決」による犠牲者たちと、イスラエルを建国した者たちとの間に連続性を認めるのは、たとえ彼らがそれぞれ「ユダヤ人」と呼ばれる人々であろうときわめて難しいように思われる。
次回は収容所解放後、難民としてパレスチナに渡った生存者がどのように入植者に扱われていたのかを見ていく。
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