なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?③
4.大量虐殺の犠牲者はイスラエルでは侮蔑されていた
前回はパレスチナのシオニストが、第二次世界大戦のさなかにヨーロッパで起きていた大量虐殺を、傍観に近い態度で受け止めていたことを確認した。
大戦末期に各地の収容所が連合軍によって解放されると、シオニストは派遣員を送りこみユダヤ人の現状を確認させにいった。当然ながら、どれくらいのヨーロッパユダヤ人をパレスチナへ移住させられるかの調査も兼ねていた。派遣された役人たちは当初、衰弱しきったユダヤ人たちの様子を見て驚くと同時に、国民社会主義による虐待の恐ろしさを味わっていた。が、やがて派遣員たちは嫌悪の目をもって大量虐殺からの生存者たちを見つめるようになる。
筆者はこの論考を書きはじめてから一貫して、シオニストは同化ユダヤ人を伝統的に蔑視し続けていたと述べてきた。そうした態度は、虐殺の実態が明らかになった後でも変わらなかったのだ。
生存者たちに蔑視が向けられたのは、彼らがパレスチナにやってきてからも同様だったという。
「最良部分は真っ先に殺されてしまったのだ」――筆者としてはこうした文言に接すると、プリーモ・レーヴィを思いださざるを得ない。アウシュヴィッツの生存者であるレーヴィは、1947年に早くも収容所体験の記録『これが人間か』を著し、我々に貴重な証言をもたらしてくれた人だ。シオニズムにも批判的で、1982年にレバノン侵攻があった際には共同で非難声明を出したことがある(もっとも、それに対してレーヴィの周囲にいたユダヤ人は批判的に接したため、彼は以後イスラエル関連の話題について沈黙を余儀なくされた)。
そんな彼は、1986年にふたたび収容所体験をもとにした『溺れるものと救われるもの』を出版し、自分が「だれか別の者にとって代わって生きているという恥辱感」に苛まれていると訴えている。レーヴィは「だれの地位も奪っていないし、だれも殴らなかったし」、ゾンダーコマンドに代表されるような「職務は受け入れなかったし」、「だれのパンも奪わなかった」。にもかかわらず、「隣人の地位を奪い、彼に取って代わって生きている」という嫌疑を否定できない。
彼は、収容所における生死を分けた基準などなく、自分が生き延びられたのは単に偶然であるとわきまえつつも、それでも呵責に悩むあまりこう書かざるを得なかった。
生存者に「最悪のもの」を見取りつつ、ならば自分もまた「最悪なもの」の中の一人ではないかと疑い、そして「最良の者たちはみな死んでしまった」と結論づける――こうした屈折した叙述と、ベン=グリオンが大上段に構えて放つ「最良部分は真っ先に死んでしまったのだ」という判断とを比較することは可能だろうか?
両者の言葉は、一見似たもののように思える。「最良の者たちはみな死んでしまった」「最良部分は真っ先に死んでしまったのだ」。しかしながら、収容所で死んでいった者たちを惜しみつつ自罰的に漏らす「最良の者たちはみな死んでしまった」と、あたかも自分には目の前の道徳性を判断する力量があるのだと豪語するかのような「最良部分は真っ先に死んでしまったのだ」とのあいだには、とうてい乗り越えられないほどの亀裂が穿たれているように思えてならない。レーヴィとベン=グリオンのあいだに横たわっている隔たりは、そっくりそのまま収容所の生存者とシオニストとのあいだの隔たりになぞらえてもいいのではないだろうか。
ともあれ、シオニストによって軽蔑されていた生存者たちではあるが、一方で彼らにとってもシオニズムへの期待は薄かった。難民キャンプに派遣された役人たちは口をそろえて、「パレスチナ居住を望んでいない生存者が大多数です」と報告していたという。そもそも衰弱しきった元収容者たちからはすでに新たな地で生活をやり直すだけの気力すら失われていたのだし、ましてや居住地を失ったからにはシオンの地へとおもむき新たな国家を建設するしかない、だなんて考えは夢にも思い浮かばなかっただろう。
もっとも、ここで一つの疑問が浮かび上がってくるところだ。ヨーロッパユダヤ人の「最良部分」がナチスによって葬られてしまったのならば、もともと人手に乏しいシオニストはどのようにして不足を補ったのか? なにより今日に至るまで、シオニストはアラブ人との「人口比」に執着している。簡単にいえば、ユダヤ人よりもアラブ人が多ければいつ追い出されてもおかしくない、と彼らは恐れているのだ。シオニストにとっては常にユダヤ人の移民を進めてアラブ人に勝る人口を持たなければいけないのだが、このころ彼らはどこから人材を調達してきていたのか?
灯台下暗しというべきか、答えはシオニストが拠点を置いていた中東にこそあった。実はこの時期、ユダヤ人はヨーロッパだけでなく中東各地にも散在していた。北アフリカも含めると、その数は「七十五万人」とも推計されていたという。ヨーロッパユダヤ人がアテにならないと悟ったシオニストは、アラブ人と同化しながら暮らしていたユダヤ人を移民の対象としたのだ。
念のために言うと、シオニストが入植してからというもの、パレスチナ以外の中東の地でもユダヤ人迫害は発生していた。シオニストは当初それらの事件も冷淡に見過ごしていたが、ヨーロッパで起きた大量虐殺を受けて、もしかしたら中東でも同じような事態になりかねないと考えた。「最終解決」を傍観した上に、中東のポグロムまでも見殺しにしてしまったとなってはいよいよユダヤ人国家を建設するという目標に懐疑的な目が向けられかねない――そう考えたシオニストはようやく重い腰を上げて、忘れられかけていたユダヤ人を救ったのである。
もちろん、こうした計画には打算も含まれていた。シオニストは「大量移民こそが『働き手や兵隊』への需要を満たす」と考えたからこそ彼らをパレスチナへと迎えようと決定したのだ。彼らが入植を有利に進める頭数としてしか見なされていなかった証拠として、イスラエル指導層が様々な形で残した差別的発言が挙げられる。たとえば、1960年代に「オペレーションヤヒン」という名称のもとモロッコからイスラエルに大量のユダヤ人が移民した出来事があったが、彼らに対してベン=グリオンは以下のようなコメントを残している。
本稿の論旨とはかけ離れた内容になるので、いわゆるセファルディム系ユダヤ人やミズラヒについてはこれ以上詳述しないが、シオニストが(ヨーロッパに限らず)あらゆる同化ユダヤ人を蔑視していたという証拠の一つとして数えられるべき逸話であることは間違いないだろう。
このような背景はありつつも、最終的に大量虐殺の生存者の内、「一九四五年後半」には「約九万人」、「建国までの三年間に六万人、そして建国の年には二十万人がパレスチナへ渡った」。彼らの中にはヨーロッパやアメリカに渡ることを望んでいた者も多かったが、これらの国々はユダヤ人難民を受け入れるのをためらった。大戦で疲弊していた社会に、多くの難民を受け入れようものなら混乱は避けられない。だから連合国にとっては、ユダヤ人のための国家を作ると豪語しているシオニストたちがすでに入植を勧めているパレスチナは、恰好の受け皿として映った。
一般的には、出来上がって間もない国際連合がイスラエルを承認した理由として、ユダヤ人の大量虐殺を見過ごしていたことについて良心の呵責を感じていたから、と語られやすい。もちろんそうした面も否定はできないだろうが、実利的な面も語らなければこの時代の事情を語るにあたってはどうしても片手落ちにならざるを得ないだろう。
もちろん、中には難民を温かく迎えたキブツの住人もいた。しかし、一方で生存者に対して冷ややかに接していた者が多かったこともまた銘記しておかなければいけないだろう。
生存者がパレスチナにやってきた際に真っ先に直面した問題は、強制収容所の経験を「イスラエル・ユダヤ人が必ずしも聞くことを望んでいるわけではないこと、いや、聞くことができないこと」だった。収容所経験に限った話ではないが、人間はあまりに非現実的な体験談を聞いても、それを真正面から呑みこむのは難しい。「辛い体験を語るということは、聞き手にも圧倒的な情緒的負荷を共有せよという厳しい要求の表現でもある」からだ。
場合によっては、「最終解決」が本格化する前にヨーロッパから移住してきた者が、生存者に向かって心無い言葉を投げかけることさえあったという。
入植者との良好な関係を築けなかった生存者の中には、結局よその地へと移住しなおした人々も多かったという。さらに、自責の念に苦しんだあげくに自殺を選んだ人々も少なくなかった。
このように建国期のイスラエルにおいては、生存者と入植者との間の軋轢が絶えなかったのだが、では指導者たちはどのように事態を捉えていたのだろうか。
要するに、いかに生存者をイスラエル社会に「同化」させるかどうかが課題になっていたのであって、彼らの壊れてしまった精神をいかにケアするかという問題は無視されていたのである。
そうした「再教育」は子供にも向けられた。パレスチナでは1930年代にアリヤト・ハノアルと呼ばれる、ドイツの青少年ユダヤ人を移民させるプロジェクトが行われていた。しかし、当初は人道主義的配慮の元に成り立っていたこの運動は、虐殺で親を亡くした子供の移民が増えるにつれて途端に民族主義的な色合いが濃くなっていった。わかりやすく言えば、教育が行き届いていない子供をシオニズムに共鳴するような若者へと育てるプロジェクトへと変わっていったのである。とはいえ、ヨーロッパで相当なショックを経験した子供たちが、そうした「再教育」を易々と受け入れられたはずもない。
差別の対象には独特のスラングが用いられるものだ(たとえば、ドイツにおいてユダヤ人が「Mauschel」と呼ばれたように)。セゲフによると、イスラエルにおいても同様の俗語が流通していたという。
ちなみに、「ユダヤ人の死体を原料にして石鹸を製造」していたというのはあくまで噂であって、事実ではないとセゲフは注釈でつけ加えている。急いで付け加えておけば、『七番目の百万人』において参照されているのは歴史修正主義者ではない。彼は「しかし、その目的のためのユダヤ人殺害はなかったと、ヤド・ヴァシェムは結論を出している」と書いている。
入植者による生存者への冷遇は、第一次中東戦争において頂点を迎える。何が何でもアラブ人に勝たなくてはならなかったシオニストは、当初は頭数として数えていなかった生存者たちを徴兵することを決断した。難民キャンプの間では「入隊者の親が尊敬され、入隊しない者が疎んじられる雰囲気があ」り、「帳簿に応じなかった若者はキャンプ内を歩くこともできないほど肩身の狭い思いを」迫られたという。
もちろん、彼らの中には敵の兵士を殺した者もいただろうし、パレスチナ人の虐殺に加担した者も含まれていただろう。くわえて、この戦争の末にパレスチナ人の多くは郷里から逃げ出し、もぬけの殻となった家屋をユダヤ人が奪い取ったのだが、その大半はシオニストに住居を用意してもらえなかったヨーロッパからの難民だったという話もある。だから、彼らも決して罪を免れられない存在であることには違いない。
だが、上で見てきたような歴史的背景を踏まえるならば、必ずしもヨーロッパを追い出された生存者が、パレスチナに渡り率先してアラブ人を追放したなどという一面的な見方はできないはずである。何より、最前線の戦闘に駆り出された生存者の死傷者数が全体の「三人に一人」を数えた一方で、パレスチナ人の民族浄化を推し進めたシオニストの指導層(注3)は無傷のまま終戦を迎え建国期の内閣を結成したという非対称な現実があるからには、「ホロコーストでヨーロッパを追い出されたユダヤ人が自らの居住地欲しさにパレスチナ人を追い出した」などという図式はあまりにも単純すぎるのだ。
次回はイスラエルが建国された後、大量虐殺の記憶がシオニストによってどのように利用されていったのかを見ていく。
脚注
(注3)簡単に、パレスチナ人の民族浄化の計画立案者の名前と来歴を見ておこう。イラン・パペによると、以下の人々こそが加害者と名指すべき権力者であるという。(『パレスチナの民族浄化』p18-19)
・ ダヴィド・ベン=グリオン(1906年にパレスチナに移住)
・ イガエル・ヤディン(1917年にエルサレムで生まれる)
・ モシェ・ダヤン(1915年にパレスチナで生まれる)
・ イーガル・アロン(1918年にパレスチナで生まれる)
・ イツハク・サデー(1920年にパレスチナに移住)
・ モシェ・カルマン(1923年にパレスチナで生まれる)
・ モシェ・カルミル(1924年にパレスチナに移住)
・ イツハク・ラビン(1922年にエルサレムで生まれる)
・ イツハク・プンダク(1933年にパレスチナへ移住)
・ イサル・ハルエル(1930年にパレスチナへ移住)
・ シモン・アヴィダン(1934年にドイツからパレスチナへ移住)
見てのとおり、ほとんどはナチスが政権を握る前にパレスチナに移住しているか、移民2世としてパレスチナで生まれた者ばかりである。いずれもまかり間違っても「ホロコースト生存者」などとは呼べないが、唯一の例外と言えるかもしれない存在としてシモン・アヴィダンがいる。彼はドイツ共産党員だったが、やがてナチスが政権を奪取したため、迫害を逃れパレスチナにやってきた。大戦中はイギリス軍に従軍し、ドイツ軍と戦っている。とはいえ、彼もまた実際に収容所を体験したわけではない。
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