なぜ「なぜホロコーストの犠牲者であるユダヤ人がパレスチナ人を虐殺するのか?」と問うのは偽善なのか?③

4.大量虐殺の犠牲者はイスラエルでは侮蔑されていた

 前回はパレスチナのシオニストが、第二次世界大戦のさなかにヨーロッパで起きていた大量虐殺を、傍観に近い態度で受け止めていたことを確認した。

 大戦末期に各地の収容所が連合軍によって解放されると、シオニストは派遣員を送りこみユダヤ人の現状を確認させにいった。当然ながら、どれくらいのヨーロッパユダヤ人をパレスチナへ移住させられるかの調査も兼ねていた。派遣された役人たちは当初、衰弱しきったユダヤ人たちの様子を見て驚くと同時に、国民社会主義による虐待の恐ろしさを味わっていた。が、やがて派遣員たちは嫌悪の目をもって大量虐殺からの生存者たちを見つめるようになる。

 派遣者たちは一様に生存者たちに厳しかった。自尊心も、同胞愛や利他精神への信頼も失い、無感動な冷笑主義、虚無主義、無法主義に陥っているように思った。イシュヴの傍観者たちは、それをキャンプ生活の過酷さや大戦後ヨーロッパに充満していた退廃的空気のせいばかりでなく、ホロコースト以前の異郷生活のせいだと考えた。彼らにとって、難民との出会いは、誇り高き社会主義シオニストとしていつも軽蔑していた「異郷生活メンタリティ」との初めての出会いだったのである。彼らはショックを受けた。ホロコースト生存者は労働を嫌う、と報告した派遣員もいた。

同p143強調引用者

 筆者はこの論考を書きはじめてから一貫して、シオニストは同化ユダヤ人を伝統的に蔑視し続けていたと述べてきた。そうした態度は、虐殺の実態が明らかになった後でも変わらなかったのだ。
 生存者たちに蔑視が向けられたのは、彼らがパレスチナにやってきてからも同様だったという。

 後にイスラエル軍将軍、大使となったダヴィド・シャルティエルは、ホロコースト生存者の一行をパレスチナ見学旅行に連れてきた話を、マパイ党会議で報告した。「まったくとんでもないことばかり起きたよ」と彼は語った。若い連中は年長者を寝台から追い出そうとし、何かにつけ遊び回るばかりだった。「最低の道徳心しかなかったので、我々は絶えず警官のように見張っていなければならなかった。夜になると男の子は女の子の寝室へ行く。追い払うとまたいつの間にか戻って来ている。女の子は女の子で船員や兵隊たちといちゃついてばかりで、貞操観念のかけらもない。一定の秩序を守らせようとしたが、大変だった。彼は、報告の後、一つの説を提起した。「私が思うに、生存者は、利己主義的に自分のことしか考えなかったので、生き残れたのだ。」ドイツ人支配のなかで、「金儲けすらした連中もかなりいたと思う」と言った後で、「難民キャンプにいるという事実だけではパレスチナへ移住する資格にならない」と結論付けた。
 〔……〕「強制収容所の生き残りの中には」とベン=グリオンも言った、「あんなふうに無情で、邪悪で、利己的だからこそ生き残れた人々もいる。過酷な体験のなかで精神の善良な部分が全部根絶してしまったのだろう」「眼をしっかりと開いて見なければならない」と『ハアレツ』が書いている。「我々に残された僅かなヨーロッパ・ユダヤ人は、必ずしも民族最良部部分ではない。最良部分は真っ先に殺されてしまったのだ。」そして、残っている者たちの中には「倫理的に欠陥のある者が多い」と指摘している。

同p143-144

 「最良部分は真っ先に殺されてしまったのだ」――筆者としてはこうした文言に接すると、プリーモ・レーヴィを思いださざるを得ない。アウシュヴィッツの生存者であるレーヴィは、1947年に早くも収容所体験の記録『これが人間か』を著し、我々に貴重な証言をもたらしてくれた人だ。シオニズムにも批判的で、1982年にレバノン侵攻があった際には共同で非難声明を出したことがある(もっとも、それに対してレーヴィの周囲にいたユダヤ人は批判的に接したため、彼は以後イスラエル関連の話題について沈黙を余儀なくされた)。

 そんな彼は、1986年にふたたび収容所体験をもとにした『溺れるものと救われるもの』を出版し、自分が「だれか別の者にとって代わって生きているという恥辱感」に苛まれていると訴えている。レーヴィは「だれの地位も奪っていないし、だれも殴らなかったし」、ゾンダーコマンドに代表されるような「職務は受け入れなかったし」、「だれのパンも奪わなかった」。にもかかわらず、「隣人の地位を奪い、彼に取って代わって生きている」という嫌疑を否定できない。
 彼は、収容所における生死を分けた基準などなく、自分が生き延びられたのは単に偶然であるとわきまえつつも、それでも呵責に悩むあまりこう書かざるを得なかった。

ラーゲルの「救われたものたち」は、最良のものでも、善に運命づけられたものでも、メッセージの運搬人でもない。私が見て体験したことが、その制反対のことを示していた。むしろ最悪のもの、エゴイスト、乱暴者、厚顔無恥なもの、「灰色の領域」の協力者、スパイが生き延びていた。決まった規則はなかったが(人間の物事には決まった規則はなかったし、今でもない)、それでもそれは規則だった。確かに私は自分が無実だと感じるが、救われたものの中に組み入れられている。そのために、自分や他人の目に向き合う時、いつも正当化の理由を探し求めるのである。最悪のものたちが、つまり最も適合した者たちが生き残った。最良の者たちはみな死んでしまった。

プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われたもの』朝日新聞出版p86

 生存者に「最悪のもの」を見取りつつ、ならば自分もまた「最悪なもの」の中の一人ではないかと疑い、そして「最良の者たちはみな死んでしまった」と結論づける――こうした屈折した叙述と、ベン=グリオンが大上段に構えて放つ「最良部分は真っ先に死んでしまったのだ」という判断とを比較することは可能だろうか?
 両者の言葉は、一見似たもののように思える。「最良の者たちはみな死んでしまった」「最良部分は真っ先に死んでしまったのだ」。しかしながら、収容所で死んでいった者たちを惜しみつつ自罰的に漏らす「最良の者たちはみな死んでしまった」と、あたかも自分には目の前の道徳性を判断する力量があるのだと豪語するかのような「最良部分は真っ先に死んでしまったのだ」とのあいだには、とうてい乗り越えられないほどの亀裂が穿たれているように思えてならない。レーヴィとベン=グリオンのあいだに横たわっている隔たりは、そっくりそのまま収容所の生存者とシオニストとのあいだの隔たりになぞらえてもいいのではないだろうか。

 ともあれ、シオニストによって軽蔑されていた生存者たちではあるが、一方で彼らにとってもシオニズムへの期待は薄かった。難民キャンプに派遣された役人たちは口をそろえて、「パレスチナ居住を望んでいない生存者が大多数です」と報告していたという。そもそも衰弱しきった元収容者たちからはすでに新たな地で生活をやり直すだけの気力すら失われていたのだし、ましてや居住地を失ったからにはシオンの地へとおもむき新たな国家を建設するしかない、だなんて考えは夢にも思い浮かばなかっただろう。
 もっとも、ここで一つの疑問が浮かび上がってくるところだ。ヨーロッパユダヤ人の「最良部分」がナチスによって葬られてしまったのならば、もともと人手に乏しいシオニストはどのようにして不足を補ったのか? なにより今日に至るまで、シオニストはアラブ人との「人口比」に執着している。簡単にいえば、ユダヤ人よりもアラブ人が多ければいつ追い出されてもおかしくない、と彼らは恐れているのだ。シオニストにとっては常にユダヤ人の移民を進めてアラブ人に勝る人口を持たなければいけないのだが、このころ彼らはどこから人材を調達してきていたのか?
 灯台下暗しというべきか、答えはシオニストが拠点を置いていた中東にこそあった。実はこの時期、ユダヤ人はヨーロッパだけでなく中東各地にも散在していた。北アフリカも含めると、その数は「七十五万人」とも推計されていたという。ヨーロッパユダヤ人がアテにならないと悟ったシオニストは、アラブ人と同化しながら暮らしていたユダヤ人を移民の対象としたのだ。
 念のために言うと、シオニストが入植してからというもの、パレスチナ以外の中東の地でもユダヤ人迫害は発生していた。シオニストは当初それらの事件も冷淡に見過ごしていたが、ヨーロッパで起きた大量虐殺を受けて、もしかしたら中東でも同じような事態になりかねないと考えた。「最終解決」を傍観した上に、中東のポグロムまでも見殺しにしてしまったとなってはいよいよユダヤ人国家を建設するという目標に懐疑的な目が向けられかねない――そう考えたシオニストはようやく重い腰を上げて、忘れられかけていたユダヤ人を救ったのである。
 もちろん、こうした計画には打算も含まれていた。シオニストは「大量移民こそが『働き手や兵隊』への需要を満たす」と考えたからこそ彼らをパレスチナへと迎えようと決定したのだ。彼らが入植を有利に進める頭数としてしか見なされていなかった証拠として、イスラエル指導層が様々な形で残した差別的発言が挙げられる。たとえば、1960年代に「オペレーションヤヒン」という名称のもとモロッコからイスラエルに大量のユダヤ人が移民した出来事があったが、彼らに対してベン=グリオンは以下のようなコメントを残している。

「モロッコ出身の(ユダヤ人は)教育を受けていない。彼らの習慣はアラブ人のものだ」彼はこうも主張した。「モロッコのユダヤ人はモロッコのアラブ人から多くを受け継いだのだろうが、彼らの文化は、イスラエルには持ちこみたくない」。
 ベン=グリオンはこう締めくくった。「我々はイスラエル人がアラブ人になることを望んでいない。我々の義務は個人と社会を腐敗させるレバントの精神と闘うこと、そして(ヨーロッパの)ディアスポラで結晶化した本物のユダヤ人の価値を守ることである」。

https://www.middleeasteye.net/opinion/israel-ashkenazi-mizrahi-divide-still-extreme-right

 本稿の論旨とはかけ離れた内容になるので、いわゆるセファルディム系ユダヤ人やミズラヒについてはこれ以上詳述しないが、シオニストが(ヨーロッパに限らず)あらゆる同化ユダヤ人を蔑視していたという証拠の一つとして数えられるべき逸話であることは間違いないだろう。

 このような背景はありつつも、最終的に大量虐殺の生存者の内、「一九四五年後半」には「約九万人」、「建国までの三年間に六万人、そして建国の年には二十万人がパレスチナへ渡った」。彼らの中にはヨーロッパやアメリカに渡ることを望んでいた者も多かったが、これらの国々はユダヤ人難民を受け入れるのをためらった。大戦で疲弊していた社会に、多くの難民を受け入れようものなら混乱は避けられない。だから連合国にとっては、ユダヤ人のための国家を作ると豪語しているシオニストたちがすでに入植を勧めているパレスチナは、恰好の受け皿として映った。
 一般的には、出来上がって間もない国際連合がイスラエルを承認した理由として、ユダヤ人の大量虐殺を見過ごしていたことについて良心の呵責を感じていたから、と語られやすい。もちろんそうした面も否定はできないだろうが、実利的な面も語らなければこの時代の事情を語るにあたってはどうしても片手落ちにならざるを得ないだろう。
 もちろん、中には難民を温かく迎えたキブツの住人もいた。しかし、一方で生存者に対して冷ややかに接していた者が多かったこともまた銘記しておかなければいけないだろう。
 生存者がパレスチナにやってきた際に真っ先に直面した問題は、強制収容所の経験を「イスラエル・ユダヤ人が必ずしも聞くことを望んでいるわけではないこと、いや、聞くことができないこと」だった。収容所経験に限った話ではないが、人間はあまりに非現実的な体験談を聞いても、それを真正面から呑みこむのは難しい。「辛い体験を語るということは、聞き手にも圧倒的な情緒的負荷を共有せよという厳しい要求の表現でもある」からだ。

 話しても頭から信用されないことが多かった。一九三四年、ナチがポーランドのプレミスルの町近くに作った強制収容所で、囚人のミハエル・ゴールドマンという一七歳の少年が、フランツ・シュヴァムベルガー所長の前に引きずり出された。所長は少年を鞭で打ち始めた。少年は気絶した。息を吹き返すと、また鞭打ちがつづいた――八十発の鞭打ち刑だった。とうとうゴールドマンはぐったりしてしまった。彼の中の皮膚は裂けて血だらけだったが、幸い死ななかった。彼はホロコーストを生き残り、イスラエルへ渡った。イスラエルの親族に鞭打ちの罰について話したが、彼らはそれを信じなかった。想像と誇張による作り話だと思った。「私にとって、それは八十一発目の鞭だった」とゴールドマンは後の語っている。この物語は一つの象徴となっている。「誰も私の言うことを信じない!」と、一九四二年末にパレスチナにやってきたヤアコヴ・クルツが書いている。「いろいろ質問し、まるで私を誤った指導で人々を死に導いた指名手配犯人であるかのように、厳しい尋問を繰り返したくせに。」これが、ホロコースト生存者が新しい国で遭遇した第一の困難であった。

『七番目の百万人』p190-191

 場合によっては、「最終解決」が本格化する前にヨーロッパから移住してきた者が、生存者に向かって心無い言葉を投げかけることさえあったという。

 生存者だけでなく新生イスラエル社会全体が情緒的危機の中で苦闘していた。戦前にパレスチナへ移住してきた人々の多くも親族を殺されて悲嘆の声をあげ、ホロコースト生存者と同じような自責の念に苦しんでいた。ヨーロッパへ残してきた愛する者が死んだことを、安全なパレスチナへ逃げた自分の責任だと感じたのである。だから、イスラエルへ渡ってきた生存者を自分の親族や身内だと思って、救いの手を差し伸べるべきだと考える人々がいたのは当然である。しかし、生存者を、同胞を犠牲にして生きのこった奴等とみなして非難する人々も多かった。生存者の一人シムハ・ロテムは次のように書いている。「この国の人たちと会話をすると、どうやって生きのこったのだと質問されます。何度もされます。それも、必ずしも気を使った質問の仕方ではないのです。生きのこったことを非難されているような気持ちにさせられます。」

同p196

 入植者との良好な関係を築けなかった生存者の中には、結局よその地へと移住しなおした人々も多かったという。さらに、自責の念に苦しんだあげくに自殺を選んだ人々も少なくなかった。
 このように建国期のイスラエルにおいては、生存者と入植者との間の軋轢が絶えなかったのだが、では指導者たちはどのように事態を捉えていたのだろうか。

イスラエルの指導者たちは、彼らに新しい価値観を教え込み、彼らに新しい人格を与えることを自分たちの任務だと考えた。「彼らに祖国愛、労働倫理、人間的精神を教え込まなければならない」とマパイ党指導者が言うと、もう一人の指導者も「人間らしさの基本概念」を彼らに学習させなければいけないと付言した。また、ある指導者はまるで生存者をパン生地練り粉であるかのように、「よく顔を作ってやらなけれればならない」と言った。マパイ党書記局会議では生存者の「再教育」が議題となった。

同p193

 要するに、いかに生存者をイスラエル社会に「同化」させるかどうかが課題になっていたのであって、彼らの壊れてしまった精神をいかにケアするかという問題は無視されていたのである。
 そうした「再教育」は子供にも向けられた。パレスチナでは1930年代にアリヤト・ハノアルと呼ばれる、ドイツの青少年ユダヤ人を移民させるプロジェクトが行われていた。しかし、当初は人道主義的配慮の元に成り立っていたこの運動は、虐殺で親を亡くした子供の移民が増えるにつれて途端に民族主義的な色合いが濃くなっていった。わかりやすく言えば、教育が行き届いていない子供をシオニズムに共鳴するような若者へと育てるプロジェクトへと変わっていったのである。とはいえ、ヨーロッパで相当なショックを経験した子供たちが、そうした「再教育」を易々と受け入れられたはずもない。

 ホロコースト青少年とイスラエル指導員との葛藤は、「旧いものと新しいものの間の全面戦争」とか「暗闇の息子と光の息子の間の神話的戦闘」と言われた。その闘いの目的は「無秩序、醜い傷、精神的肉体的去勢の中に僅かながら残っている人間的要素を集めて、新しいパイオニア的ユダヤ人格を形成すること」であった。それは「価値観の根本的変革、病的で利己的な習癖、考え方、倫理基準を打破し、代わって建設的価値観を植えつけること」であった。一般にニューカマーであるホロコースト生存青少年がキブツの子どもたちといっしょに生活することはなかったものの、ニューカマーが自己変革して新しい生活に順応しない――あるいは順応することを望まなければ、その行動は「逸脱」「逆行」「恩知らず」と見なされた。もしキブツの教育やキブツそのものを批判したりすれば、「ニヒリスト」とか「相対主義者」のレッテルを貼られた。

同p206

 差別の対象には独特のスラングが用いられるものだ(たとえば、ドイツにおいてユダヤ人が「Mauschel」と呼ばれたように)。セゲフによると、イスラエルにおいても同様の俗語が流通していたという。

いつの頃からか「サボン」(石鹸)がホロコースト生存者を指す言葉として使われるようになっていた。いつ生まれたかについては諸説があるが、それが広く普及していたことは異論の余地はなかった。この言葉は、ナチがユダヤ人の死体を原料にして石鹸を製造したという一般に流布した考えに由来している。このぞっとする噂は絶えず繰り返されたので、周知の事実として確立し、ついにはクネセト演説や、学校教科書や、イスラエル文学作品(ヨラム・カニウク著『犬の息子、ある男』には「店舗にはオリーブの木の絵入りの包装紙に包まれて、ロビノヴィッチ一家が陳列されていた」というくだりがある)の中でも使われるようになった。この言葉ほど、イスラエル生まれのイスラエル人がホロコースト生存者に対して抱いていた侮蔑感を的確に表したものは他にない。

同p220

 ちなみに、「ユダヤ人の死体を原料にして石鹸を製造」していたというのはあくまで噂であって、事実ではないとセゲフは注釈でつけ加えている。急いで付け加えておけば、『七番目の百万人』において参照されているのは歴史修正主義者ではない。彼は「しかし、その目的のためのユダヤ人殺害はなかったと、ヤド・ヴァシェムは結論を出している」と書いている。

 入植者による生存者への冷遇は、第一次中東戦争において頂点を迎える。何が何でもアラブ人に勝たなくてはならなかったシオニストは、当初は頭数として数えていなかった生存者たちを徴兵することを決断した。難民キャンプの間では「入隊者の親が尊敬され、入隊しない者が疎んじられる雰囲気があ」り、「帳簿に応じなかった若者はキャンプ内を歩くこともできないほど肩身の狭い思いを」迫られたという。

 合計二万三千人のホロコースト生存者が参戦した――兵士三人に一人の割合であった。ほとんどの者は難民キャンプかキプロスの不法難民抑留施設にいる間に入隊署名をした。イスラエル到着前に基本的訓練を受けた者も何人かいたが、大部分の人々はきちんとした訓練も受けず、防衛するために送り込まれた新しい国について何も知らないまま、到着後二、三日で軍へ入れられた。ヘブライ語ができなかったので、事務処理など後方任務に就くことができず、みんな前線へ送られた。戦争死傷者の三人に一人がホロコースト生存者だった。

同p214

 もちろん、彼らの中には敵の兵士を殺した者もいただろうし、パレスチナ人の虐殺に加担した者も含まれていただろう。くわえて、この戦争の末にパレスチナ人の多くは郷里から逃げ出し、もぬけの殻となった家屋をユダヤ人が奪い取ったのだが、その大半はシオニストに住居を用意してもらえなかったヨーロッパからの難民だったという話もある。だから、彼らも決して罪を免れられない存在であることには違いない。
 だが、上で見てきたような歴史的背景を踏まえるならば、必ずしもヨーロッパを追い出された生存者が、パレスチナに渡り率先してアラブ人を追放したなどという一面的な見方はできないはずである。何より、最前線の戦闘に駆り出された生存者の死傷者数が全体の「三人に一人」を数えた一方で、パレスチナ人の民族浄化を推し進めたシオニストの指導層(注3)は無傷のまま終戦を迎え建国期の内閣を結成したという非対称な現実があるからには、「ホロコーストでヨーロッパを追い出されたユダヤ人が自らの居住地欲しさにパレスチナ人を追い出した」などという図式はあまりにも単純すぎるのだ。

 次回はイスラエルが建国された後、大量虐殺の記憶がシオニストによってどのように利用されていったのかを見ていく。

脚注

(注3)簡単に、パレスチナ人の民族浄化の計画立案者の名前と来歴を見ておこう。イラン・パペによると、以下の人々こそが加害者と名指すべき権力者であるという。(『パレスチナの民族浄化』p18-19)
・ ダヴィド・ベン=グリオン(1906年にパレスチナに移住)
・ イガエル・ヤディン(1917年にエルサレムで生まれる)
・ モシェ・ダヤン(1915年にパレスチナで生まれる)
・ イーガル・アロン(1918年にパレスチナで生まれる)
・ イツハク・サデー(1920年にパレスチナに移住)
・ モシェ・カルマン(1923年にパレスチナで生まれる)
・ モシェ・カルミル(1924年にパレスチナに移住)
・ イツハク・ラビン(1922年にエルサレムで生まれる)
・ イツハク・プンダク(1933年にパレスチナへ移住)
・ イサル・ハルエル(1930年にパレスチナへ移住)
・ シモン・アヴィダン(1934年にドイツからパレスチナへ移住)
 見てのとおり、ほとんどはナチスが政権を握る前にパレスチナに移住しているか、移民2世としてパレスチナで生まれた者ばかりである。いずれもまかり間違っても「ホロコースト生存者」などとは呼べないが、唯一の例外と言えるかもしれない存在としてシモン・アヴィダンがいる。彼はドイツ共産党員だったが、やがてナチスが政権を奪取したため、迫害を逃れパレスチナにやってきた。大戦中はイギリス軍に従軍し、ドイツ軍と戦っている。とはいえ、彼もまた実際に収容所を体験したわけではない。

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