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エルサレムでの聖母マリアとの出会い

なぜイスラエルに?

 20代、許す限り旅をした。数ある訪れた場所の中で二カ所、また必ず戻ってきたいと強い縁を感じた場所があった。一つがイタリア。思った通りに戻ってくる事ができた。それどころか、現在こうして住んでいる。もう一つの場所は、イスラエルだった。しかし、20年以上前に一度訪れたきり、再訪の機会は、まだない。

 思い返すに、イスラエルに旅したいと思った理由はなんだったのだろうか?ひと言で言うと知的好奇心だろう。学生時代から国際報道やドキュメンタリーなどにも興味があった私は「重い歴史が積み重なり、戦争の絶えない場所では、どのような空気が流れているのだろうか?」などと、よく思い巡らせたりしたものだった。

 そして、その頃と言えば、写真のクラスを取っていたニューヨーク州立ファッション工科大学(F.I.T.)のスケジュールがユダヤ暦に従っていたことに、面食らったタイミングでもあった。9月のユダヤ新年の「ロシュハシャナ」や、贖罪日の「ヨムキプール」など、馴染みのない名前の祝祭日が学校の休日だったのだ。州立大学であるにもかかわらず、出資の半分は、ニューヨークのファッション業界を牛耳るユダヤコミュニティーから来ていると聞いた。推奨された写真用品店に行けば、もみあげをくるくるにカールさせた黒装束のユダヤ超正統派の男性達が、フィルム、薬品、印画紙を売ってくれ、写真のモデルをしてくれていたユダヤ系ニューヨーカーは、イスラエルに移住することを決意し、その熱い想いを語ってくれたりもした。さすが、世界最大のユダヤ人コミュニティーが存在するニューヨーク。私の小さな生活圏でさえも、それを肌で感じるほどだったのだ。

聖なる岩とは?

 ユダヤ人クラスメートのアドバイス通り、イスラエルへの旅はエジプトから入国した。モーゼが海割りをしたとされる紅海沿いのビーチはエデンの園の様だった。南の乾いた砂漠地帯を旅し、死海では塩水に体を浮かばせ、自給自足のキブツでは地球のエネルギーがほとばしる最高の食事にありついた。北の森林地帯では静かに黙想しつつ、想像以上にモダンなイスラエル人の若者や首都テルアビブに驚いたりして、通り一遍の観光ルートも訪れたのだが、しかし、やはりイスラエルの旅のメインイベントは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と世界の一神教共通の聖地、エルサレムへの巡礼だろう。地球広しと言えど、ここほど、歴史が複雑に積み重なった場所もない。特別な信仰心もなく宗教的に中庸だった私は、それぞれの聖地を見てやろうと意気込んでいたのだった。
 
 ユダヤ教の唯一神ヤハウェの聖所とされる神殿の丘には「聖なる岩」があり、過去にはユダヤ神殿があった。しかし、複雑な歴史の巡り合わせで現在ではイスラム教徒の管理下にあり、そこにはイスラムの聖地である岩のドームがある。現存する神殿の基礎部分の一部をユダヤ教徒は「嘆きの壁」と呼び、祈りの場としている。1000年以上も彼らは、わずかに残された壁に向かって独特な方法で体を揺らし、悲願の祈りを続けているのだ。一神教の三宗教は、ともに旧約聖書を聖典としており、全く同じ地点、要するに「聖なる岩」が、微妙に意味合いを異にしつつ、聖地としている。しかし、何世紀にも渡り世代を超えて行われている、この「祈り」とは一体なんなのだろう。

「そんなに祈って、飽きないんですか?」
 
 簡単には答えが出ない問いに打ちのめされつつも、エルサレムで最も重要とされるキリスト教の教会にも行ってみた。聖堂は、ローマカトリッ クやギリシャ正教、その他の複数教派により共同管理されていると言う。キリスト教の聖職者といっても、教派によって、服装から顔立ち、祈りの動作や立ち振る舞いなども違って興味深い。有名な教会なのに、入り口が極端に小さいことに驚いた。それは、敵から教会を守ることが、命がけだった証拠でもある。

聖堂の小部屋での出来事

 聖堂の入り口近くの階段を登ったところに、小部屋があり、巡礼目的の観光客が順番に並んで、それぞれの方法で祈りを捧げていた。その小部屋訪問が、その後の人生を左右する場所になるとは、まだ全く知らずに、私は部屋の隅の聖母像の近くで静かに立ち止まり、他の巡礼者を真似て、なんとなく思い澄ましてみた。

 ところがである。どういうわけか私はそこで何の前触れもなしに、突然に泣き崩れたのだ。トントンと肩を叩かれ、気がつくと、どこからともなく暖かな白い光がやってきて、全方向から私を優しく包んでくれたのだった。その白い光は、空に浮かぶ白い雲のようにフワフワしているものの、人格をもった何かだと感じられた。とてつもなく暖かい無限大の愛のエネルギーを感じ、それと一体化した。あれ以前にも以後にも、あの時の様な100%の至福感を感じた事はない。今まで気がつかなかっただけで、その存在は、常に自分といてくれ、すべてが許されていることも知った。時間の感覚が麻痺していて、五分泣いていたのか、一時間泣いていたのかも分からない。静かに涙がこぼれると言う泣き方ではなく、声をだして激しく嗚咽してしまった。ただただ感情が吹き出し、自分を覆っていたレイヤーの一つから脱皮していく様な感覚だ。ザワザワした観光客の動きを涙越しに眺めながら、平行して同時に、その無限の白い光も見ていたのだった。自分が、矛盾なく二つのパラレルな世界に存在していた。

 探し求めていたわけでもないのに、いきなりそんな神秘体験をしてしまったわけだ。聖母像の近くにいたせいか、その暖かく無限の愛の存在を聖母マリアだと信じるようになった。白い雲に反射する光に女性の人格を感じたのだ。その体験以降、その光の存在だけには従順でありたいと思うようになった。例え、地球上のすべてのものに反抗したとしても。。。

 激しい嗚咽の後、帰り際に私は聖母像の写真を撮ったようだ。そして、その白黒フィルムをニューヨークの自宅で現像して、また驚かされた。その彫像が生きているような生々しい表情をしていて、しかもうっすらと涙を浮かべているように見えたからだ。

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「マリア様も泣いているではないか?そして、この第三の目は、なんだろう?」

 ちょうど額の第三の目の辺りが、なぜか発光していて仏教の観音像のようにも見えた。写真を撮った時には、その額の光には気がつかなかった。実際、そんな光はあったのだろうか?科学的に説明すれば、多分、ろうそくなどの光が反射していたに違いない。ただ、ものの見事に聖母マリア像の両方の目に光が反射して涙をためているような表情を作りだし、また別の光が観音像のように額の第三の目のところで反射していたのである。そんな完璧な偶然が起こるのは稀な事だ。第三の目のおかげで、それはキリスト教の聖母マリア像でありながら、仏教の観音像にも見える不思議な写真となった。

 この偶然も作用したであろう出来事を、今では「意味のある偶然」と解釈する事にしている。私を包んだあの白い雲の様な光は、普遍的で女性的な愛の現れだと思うのだ。あの光を、仏教徒は観音と呼び、キリスト教徒は聖母マリアと呼び分けているだけなのではないか?洋の東西を行き来する自分に大きなメッセージをくれているような気がした。東と西の狭間の架け橋として、何か自分にできることはないのだろうか?

言葉にすることの難しさ

 今なら写真を見せながら、人に軽く話せるこの体験も、当時は誰にも、一部始終を語る事はなかった。どう語って良いか分からなかったからだ。数年後に読んだ臨死体験に関するノンフィクションの本に、あの世とこの世の間で「透明な泡に包まれた雲のようなものが見えた」という表現を見つけ驚いた。私が旅日記に書いた表現に酷似していると感じ、無知で鈍感だった私は、それでやっと、自分の体験が神秘体験だったのかもしれないと気がつき始めたのだった。いくら体験しても、言葉が追いついてこないと、体験を語ることはもちろん、その意味付けさえもできない。

 そして、それから随分と時が経ってから、あの教会がエルサレムの聖墳墓教会という名前であることや、私が泣き崩れた小部屋が、キリストが磔刑にされたゴルゴダの丘があった地点とされている事などを知った。ピエタ、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く哀れみの聖母の現場とも言える。

 「その光の存在に人格があったとして、なぜ聖母マリアと思うのか?」と質問を受けた事があった。確かに「その時、聖母像の近くにいたから」だけでは説明不足だろう。もちろん、私の勘違いもあるかもしれない。しかし、それは「なんとなくわかるものだ」としか言いようがない。どう言葉で説明して良いのかわからないくらい明白な事、そんな事はあってはならないのだろうか。

 この聖母マリアとの出会いのエピソードを話すと、面白がってくれる友人達も多いのだが、「聖書にも言及されていないマリア崇敬に違和感がある」と、その心情を露わにするプロテスタント系のキリスト教徒の知人もいた。「神秘体験はあまり軽々と人に話すものではない」という意見や、「その体験自体が、悪魔の仕業の恐れがある」と、悪気なく本気で心配してくれる友もいた。

 それぞれに一理ある。しかし、誰がなんと言おうと、それはもう起こってしまったことなのだ。とは言え、正直な話、実は私自身もしばらくは理性で受け入れることができずに、宗教比較や瞑想ヨガも長い時間をかけて触れ、日本人らしく仏教や神道も勉強してみた。それぞれが、とても崇高な教えと感じ、今現在でも尊敬を禁じえないのだが、心の奥底で、あの白い光の存在が、すべての私の行動の規範となってしまったのだった。堅苦しい事はなにもない。すべては許されるのだから。とにかく、あの存在だけは裏切る事はできない。そして、神秘体験から約十年後、私はカトリックの洗礼を受ける事となった。カトリックの解釈によると、恩恵の仲介者である聖母マリアへの崇敬は、神やキリストへの信仰の一つの表れとも言われる。決して、信仰対象として聖母を崇拝するわけではないのだそうだ。

 自分を高めたり、こちらから追い求めたつもりもない。きっと、誰もがなんらかの形で、お天道様、ご先祖さま、神様、仏様など、天からのアプローチを受けているに違いない。私の場合は、キッカケがたまたま聖母マリアだった。ただ、それを受け入れるのかどうか。それだけのことだ。そして、それを少しづつでも受け入れるたびに、自分が生まれてきた理由に近づけている様な気がして、身も心も軽くなっていくのだ。

 話を飛躍させて、そんな私が今現在、また改めて思うこと。

 「世の中が、いろんな側面で男性的に偏ってはいませんか?もちろん、男性的な垂直的な理論構築や腕力や勢いも、物事を前に進める上で大切なはず。でも、女性的に漂う感性や調和が疎かにされすぎていないでしょうか?」

 多分、私だけでなく、似たような事を多くの人が感じているはず。むしろ、変化の途中なのかもしれない。しかし、何十年経っても、紋切り型の言い回ししか思い浮かばず、なかなか成熟できない自分に恥ずかしさを感じつつも、エルサレムの聖母マリアとの出会いから始まった、永遠なる「男性性と女性性の違い」への問い。

 次にイスラエルに行けたなら、知的好奇心だけでなく、カトリック信者としても巡礼することになる。前回のように自由な身で行くのも楽しいだろう。しかし、今の様に立ち位置がはっきりした上で歩いてみると、また違った視点で新しい事に気が付けるかもしれない。自分の信じている宗教や信条などが、他よりも優れているなどと言う偏狭な想いを持たない限り、まだまだ面白い情報が入って来ると信じたい。

 歴史的に戦争の火種が多い場所だからこそ、「愛と許しのテーマ」を背負って、キリストが、かの地で十字架にかけられたのかもしれない。2000年経っても、簡単に理解できるテーマではないのだが。

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