見出し画像

読むことと、忘れることと。

僕は毎日何かしらの本を読んでいます。
恐らく「教養という脅迫」に追い立てられて頭に鞭打ち寝るのも惜しんで頭に詰め込んでいるが、たぶん勉強法としては最適ではない。

小説を焦りのあまり同時に数冊読んでいる時もあり、これはダメだなと思いつつも積読のグランドキャニオンを切り崩すにはこれしかないのかもしれないと、ついついそんなことをやってしまいます。なのでたまに頭の中が混乱してしまうことがあります。例えるならそう、メロスがムーミン谷でトロッコを押しすぎて引き返せなくなる、といった具合に小説のミックスジュースが出来上がる時があり、そんな事はないとすぐ気づいて鳥が羽ばたくよりも早く正気に戻ってまた読み進める。最近はちょっとそれにブレーキをかけて一回につき一冊としています。これ以上メロスに無理をさせたくないし、メロスが白鯨と戦闘を繰り広げたりバオバブの木を切っても困る。

でもそれではなぜ、そこまで無理をして毎日読み進めるのか。


大学生の頃出会った呪いの言葉
その当時ドラッガーが流行っていた。
新潮文庫から出ていた「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という本が記録的な大ヒットを記録し、書店のゴンドラエンドにはこれでもかと言うぐらいにその書籍と関連書籍が並んでいたことを覚えている。当時相当な天邪鬼であった僕は流行りなんぞはと斜に構えて買う事はなかったがその中にこういう言葉を見つけた。

教養ある人間は、勉強し続けなければならないということを自覚している。

もしかすると後々のどこかで見つけたその言葉を大ブームのその頃の記憶と融合させてしまってそこで見た錯覚を覚えているのかもしれないが、いずれにせよ、当初は深く考えてもなくすぐに忘れてしまうだろうと思っていたそれは、今の今まで良い意味での呪いとして僕の頭の根幹に居座り続けている。

それ以来冒頭で出てきた言葉「教養という脅迫」に駆られて貪欲に色んな知識を食べてしまう癖がついてしまった。その言葉を知ってしまった自分の無知も追い風にその黒船教養号は鎖国を続けていた自分へ完全に風穴を開けて、以来どんどん外部データに自分が晒されてゆく。

だから毎日が勉強で、毎日何かを読み進める。それが20代の指針となった。

消化される教養、淘汰される情報。
しかし大学四年間はその情報の酒池肉林ローマ貴族状態で過ごせたのだが、社会人になるとそんな贅沢な時間は限られてしまう訳で、次第にその勢いは減退したが情報を貪ると言う癖だけは依然として居座り続けた。

それを続けているとある恐怖心が湧き上がる。
身につけた知識を忘れてしまうと言う勿体無い精神から来るそれ。
どんどんと手当たり次第に学ぶ姿勢はいいものの、入った時からその対岸の記憶が崩れ落ちている音が聞こえる。使える掲示板は一つだというのにありったけのチラシやポスターを貼ってしまうから見難くもなる、その結果いらないものは外されてしまう訳で。それが怖くて怖くて仕方なかった。どうにか忘れない良い方法はないかとのたうち回るも一向に解決策は見つかることなく忘却は続くよどこまでも。

そんなある日Twitterを何気なく眺めていると良い言葉に出会った。

その恐怖は忘れてしまった情報はもう二度と手に入らないと言う強迫観念や会話の咄嗟の時に言えない恥ずかしさや思い出せないもどかしさと言うプライドがそうさせていたのかもしれない。

人間忘れる動物なんですね。大前提のそんなことも忘れてしまっていたとはそれが一番恥ずかしい。穴があったら入ってそこである程度快適な生活環境を整えて暮らしたいぐらい。

忘れても良い。一度しっかり覚えたものは忘れても必ずその人の助けになる。絶対使わないだろこれって覚えたものが後々活躍したりするし、しかもそう言うものって忘れた頃にやってくる。
忘れて意識しなくなっても必要な時になればそっと現れてくれる。
きっとそれこそが教養の正体なんだろうな。

忘れていたら忘れていた時できっと無意識に経験上から不必要と思ったから頭が自動処理してくれたんだろう、最近は上記の言葉に会ってからそう思う様にしてます。

だからどんどんと読む、どんどんと知識を集めて、ちゃんと身につけた上でパッパと忘れる。積読グランドキャニオンを更地にするその日まで。

それでは。

にきち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?