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「ファミリア」第二話

第一部

Cate Cooper

(1)

 けたたましい音でアナログな目覚まし時計が朝を知らせると、まず驚いてベッドから飛び起きるのは、わたしの弟分で小型の雑種犬「チク・タク」
 普段、滅多に吠えることのない彼が、唯一小さな牙を剥き出して吠えるのは、この同じくチク・タク鳴るのジリリリいう激しいアラームに対してだけだった。
 チク・タクなんてすごくおかしな名前だけど、由来は別に、彼が時計のアラームに向かって吠え立てるからでもなんでもない。
 チク・タクが我が家にやって来たのは二年前で、わたしの十歳の誕生日。隣のアパートに住むマギーおばさんが日課の散歩をしていたときに、公園で捨てられている子犬を見つけて拾ったらしい。それをわたしの誕生日プレゼントにするためにお母さんが譲り受けた。
 なぜ犬を?って思うかもしれないけど、それにはちゃんと理由があった。
「プレゼントには何が欲しい?」
 誕生日が近づくにつれ、しつこく訊いてくるお母さんに、わたしは「弟が欲しい!」と答えてはわざと困らせていた。きっと反抗期だったのね。だってわたしの身体はクラスメイトの誰よりも大きかったし、だから反抗期だって他の子たちよりも早く来てしまったのよ。
 そんないきさつで家にやって来たのがチク・タクだった。
 もちろんすぐに後悔した。だって毎朝目覚まし時計のアラームに負けないくらい大きな声で、しかも枕元で吠えるんだから。とても二度寝なんてできやしなかった。
 そんな彼の毛の色は薄いグレー。体はもふもふで、所々色の濃いグレーがシミみたいに体中にあった。毛並みは少し長くて、緩いパーマをかけたようなくせ毛をしている。それこそ見た限り、使い古されてくたびれたモップのよう。爪の音だって、中国の木で出来たおみくじみたいにカチャカチャいってうるさい。
 だから名前を決めるとき、わたしは初めDirty mop汚れたモップの頭を取ってDimディムって名付けようって提案した。実際、その頃のわたしはそんな名前の付け方が格好良いって思ってたから。
 でも、お母さんは苦い顔をしてそんなわたしをたしなめた。
「汚れたモップだなんて、それじゃこの子があんまりにも可哀相よ! これから家族になるのよ? もっと愛のある名前にするべきよ」
 お母さんは腰掛けたまま、コーヒーを口に含んで首を振った。
「家族って言ったってただのペットじゃない。それに、この子だって人間の言葉を理解してるわけじゃないし、なんだって構わないでしょ?」
 Dimって言葉の響きを勝手に気に入っていたわたしがそんな風に抗議すると、お母さんはカップを静かに置いて言った。
「ケイト、あなたはわかっていないのね」
「なにをよ、ママ」
「家族よ。家族のこと、ケイト」口を尖らせるわたしにまた首を振り、そしてじっと目を覗きこむ。
「この子は、わたしたちの三人目の家族になるのよ?」
 わたしは不貞腐れた振りをして黙りこくり、Dimって響きがいかにクールかを、どう説得しようか考え込んだ。
「良い? ケイト。家族にとって大切なのは血の繋がりなんかじゃないと、お母さんは思うの」
 お母さんがこんな風に目を見て語りかけるときは、いつだって大事な話をしようとしているとき。だからわたしは次の言葉を待ち構えてじっと見つめ返す。
「本当に大切なもの、それはきっと心の繋がりだって思うの。そしてそれが家族にとって何よりも必要なものなのよ」
 そして一呼吸置いた後、再び話し始める。
「あなたがこれから彼を迎え入れるにあたって、彼をただのペットだと決めつけるならそれはただのペットよ。でも、もしあなたが彼を新しい家族の一員として迎え入れるのなら、きっと、彼もあなたのその気持ちに応えてくれると思うわ」
 お母さんは話し終わると、顔を傾けて微笑んで見せた。
「彼を家族にするのも、彼をペットにするのも、私たち次第――ケイト、あなた次第よ」
 お母さんのいうことは小難しくて、そのときのわたしにはよくわからなかった。
 だってペットはペットでしかないんじゃない? 
 そう思いながらやって来たばかりの仔犬に目をやると、彼は床の上でチャカチャカ歩き回っている。タップダンスでも踊って、自分の爪が床に当たるのを楽しむみたいに、リズム好く音を躍らせてたんだ。時計の秒針のように正確に。
 それでついた名前が「チク・タク」
 この名前には、お母さんも大笑いしながら喜んだ。もちろん本人も、尻尾を振って喜んでいるようにわたしには見えた。

 わたしたち家族にはお父さんがいない。随分昔に病気で死んでしまったと聞いた。その話になると、お母さんは表情を曇らせて悲しそうに笑うから、それ以上のことはあまり知らない。
 お父さんがいなくなったのはわたしが赤ん坊の頃だから、ちゃんとした思い出なんて何ひとつない。クラスメイトにはいろいろと詮索されるけど、答えないことにしている。
 最愛の人を病気で亡くしたお母さんにしてみれば、話したくないのは当然。だからあれこれ訊き出そうとは思わない。お母さんの悲しげな表情を見るのはとっても辛いことだし、それに、あまりにも小さいときの話だから、わたし自身、お父さんって人物にあまり興味がなかった。
 そういうわけで、お母さんとわたし、そして新たに迎えられた弟のチク・タクが主な家族だった。
 お母さんはとても女性的で素敵な人で、仕事も家事も、完璧にこなす非の打ちどころのない人だ。わたしはと言うと、学校の成績は中の下くらい。負けん気だけは強くて、喧嘩の相手はいつもクラスメイトの男子。
 体が大きくて目立つ存在だったのは確かだけど、実はその他にもわたしには目立つ部分があった。それは、左目の下辺りから、頬全体を覆うほどの大きな火傷の痕。幼い頃、お母さんが少し目を離した隙にアイロンの上に転んで、頬に当ててしまったらしい。
今は痛くも痒くもないけど、傷痕だけははっきり残っている。
「本当にごめんね、ケイト。女の子は顔が命なのに、私の不注意でこんな大きなハンデを負わせてしまって……」
 この火傷については、お母さんは今でも本当に申し訳なさそうに謝る。わたしの左頬にキスしながら、いつも目を少し赤くして涙を滲ませた。
 もしわたしがお化粧やボーイフレンドなんかに興味津々で、ませた女の子だったなら、そりゃあ少しは恨んだのかもしれない。でも実際のところ、そんなことには何の興味もなかったし、お母さんが気にするほど傷痕のことを気にするような性格じゃなかった。もちろん左頬をからかう相手には容赦なく立ち向かっていったけどね。
 学校から帰るとチク・タクが一人で留守番しているだけで、他には誰もいない。お母さんは、センターシティーに近い大きな保険会社のコールセンターで働いている。保険の案内やアドバイス、クレーム処理なんかが主な業務らしい。やり甲斐のある仕事だけどストレスも溜まるって、帰ってくると今にも泣きそうな顔で愚痴をこぼすときもあった。
 そんなときは何をしてても放り出して駆け寄り、くたくたに疲れきったお母さんの体を抱き寄せて頭を撫ぜて言う。
「シー、わかってるよ。いつもありがとう」って。
 何を隠そうこのセリフは、他でもないお母さんからの受け売り。学校で嫌なことや辛いことがあるといつもこうして宥めてくれる。
「シー、大丈夫よ。わかってる。全部わかってるわ」
 そうやって抱き寄せられるだけで、もやもやした気持ちはどこかに吹き飛んで、後に残るのは優しい声だけ。
 何も説明しなくたってお母さんは全部わかってるんだ。きっとそれは、わたしたちが家族でちゃんと心が繋がっているから。

 お母さんが勤める保険会社の規則はとても厳しくて、携帯電話を持ち込めない。私用電話は休憩時間以外は勿論禁止。だから今日みたいに喧嘩で大騒ぎになろうものなら、学校からの緊急連絡で保護者として呼び出されるのは、決まってお隣りのマギーおばさんだった。
 マギーおばさんは、わたしたち親子がこのフィラデルフィアに越してくるずっと前から、一人で隣のアパートに暮らしている。とても面倒見が良くて、父親のいないわたしたちをいつも気にかけてくれていた。
「いつだって頼ってくれて良いのよ? このアパートに住むことになったあなたたちは、もう家族みたいなものよ」
 休日にマーケットから荷物をいっぱい抱えてアパートの入口にたどり着くと、マギーおばさんはいつだって優しい声をかけてくれた。
 そんな彼女の優しさに甘えて、わたしの緊急連絡先はマギーおばさんの番号になっている。なぜなら彼女は、学校では親戚のおばさんってことになっているから。
 学校からの知らせを受けて飛んできたマギーおばさんは、担任のコラントーニ先生にお説教されている膨れっ面のわたしを見るなり、クスクスと笑いながら職員室へと入ってきた。
「またやったわね? いけない子」
 先生の恒例の呼び出しに応じて、にこやかに挨拶をするマギーおばさんはこれっぽっちも怒ってない。むしろその表情は愉しんでるように見えて、コラントーニ先生は深い溜め息をつく。これも恒例の光景になりつつある。
「クーパーさん、今年に入って、彼女が男子生徒と掴み合いの喧嘩をするのはこれで三度目です。彼女の気性の荒さについて、ご家庭でもう一度ちゃんと話し合っていただけませんか?」
 でも今日は、少しだけ様子が違っていた。何度も顎髭を触りながら苛立つコラントーニ先生に、マギーおばさんが反論したんだ。
「確かに暴力はいけないことだと私も思います。ですが、誰にだって許せる領域と許せない領域があるのも確かなことだわ!」
 突然声のトーンをあげて反論したマギーおばさんに、コラントーニ先生はたじろいで、顎髭をいじる手を止めた。
「ミスター・コラントーニ? 学校で生活する多くの大切な生徒たちのお世話をなさるのは、さぞかし大変なお仕事でしょうね?」
 微笑みを浮かべたまま、その語尾のニュアンスはきつい。
「先生は今、暴力を振るった彼女の気性の荒さを指摘されてますが、ケイトが暴力を振るうほど、許せない領域に踏み込んだ相手の男子生徒に対してはどう考えてるのかしら?」
 座る椅子からちらりと上を仰ぎ見ると、先生はおばさんの勢いにすっかり飲み込まれてしまったようにポカンと口を開けたまま、顎の前に手を置いた姿で固まってしまっていた。
「でも、まぁ、確かに暴力を振るうことはいけないことですから、ケイトには家で良く言って聞かせておきます。さぁケイト、行きましょう」
 まくし立てるように一方的に話を終わらせると、おばさんはわたしを手招きして職員室のドアを開け、最後にニッコリ笑ってこう言った。
「それでは、御機嫌よう」
 あっという間の出来事で、わたしたちが扉から外に出ていく間もコラントーニ先生はずっと同じ姿勢で立ち尽くしたまま。
 そんな姿が、とても可笑しかった。

 スプリングガーデン通り沿いにある学校を出て、自宅のあるグリーン通りに向かってノース17番通りを北に向かって歩く。
 このフィラデルフィアは、街の造りがチェス盤のようになっていて、ボーッと歩いていたら住み慣れた住人でさえ迷子になりかねない。
 アパートと学校は目と鼻の先で急げば十分ほど。ブランディワイン通りを越えてさらに北へ進み、グリーン通りを西へと向かった。
「ねぇケイト、あなたたちがこの街にやってきた日のことは忘れないわ」
 いつもの景色を眺めながら歩いていると、おばさんが昔話を始めた。
「突然タクシーがアパートの前に停まったかと思うと、小さな旅行鞄一つと、まだ小さかったあなたを抱いたジェシカがいきなり私の部屋に飛び込んで来たのよ。そういえば訊いたことがないけど、たぶん引越しの荷物を少なくするためだったのかしらね、夏なのにたくさん服を着込んでたわ」
 ジェシカというのはわたしのお母さんだ。
 マギーおばさんは空を見上げながら懐かしそうに目を細めた。もう幾度となく聞いた話だけど、わたしはこの話が大好きだった。
「酷く疲れた顔のジェシカは、カウチに座っている私と目が合うと、『あなたは誰!? ここで何をしてるの!?』って叫んだのよ。強盗か何かを見たみたいに怯えてたわ!」
 越して来たばかりのお母さんは、間違えてお隣りのマギーおばさんの部屋に入ってしまった。
「家を間違えたことに気づくと、ジェシカは顔を真っ赤にして何度も頭を下げていたわ。あのときのジェシカに抱かれたあなたの表情ったら……。まるで、『お母さんをイジメたら承知しないわ!』ってものすごく怖い顔で私のことをじっと睨みつけてたんだもの」
 そんな昔の記憶なんて残ってない。この街に越して来たのは確かわたしが三歳の頃だから、覚えてないのも無理はないけど、おばさんは絶対に嘘をつくような人じゃないから、きっと彼女の言う通り、わたしはおばさんを睨みつけてたんだろう。
「あなた、喧嘩の原因はいつもジェシカのことじゃない?」
 突然おばさんはそうつぶやくと、喧嘩の原因を見事に言い当てた。
 わたしは別に気が短いわけじゃない。自分のことをからかわれたって手をあげるほど怒ったりはしない。そりゃ、たまには抑えられなくなることもあるけど、そんなことは稀だって自分では思ってる。
 でも、お母さんの悪口を言われるのだけはどうしても許せないんだ。今日の喧嘩の原因も、やっぱりそれだった。
 お母さんは、一人でわたしを養うために頑張ってストレスも拘束時間も多い仕事をしている。だから、学校行事なんかにはまず来られない。それをクラスメイトの一人が、子供の学校に顔も出さないなんて、無責任な親だって揶揄したのが今回の原因。気がついたときには、わたしは彼に馬乗りになっていた。
「きっと、あなたには強い使命感があるんだと思うわ。お母さんを守らなくっちゃっていう強い使命感がね」
 わたしは黙ったまま、おばさんの手を握って歩いた。マギーおばさんの手はカサカサとしていて、柔らかくもないし温かくもない。それでも、そっと控えめに握るその手は、無言のまま歩き続けることがまったく気にならないほどには心地良いものだった。

 アパートに着いて部屋に入ると、少し元気のなさそうなわたしを気遣かって、チク・タクが心配そうに顔を見上げる。いつもと違って変に遠慮がちな彼に声をかけると、チク・タクは許可を得たみたいに突然興奮しだして、わたしの膝に前脚を置き、顔をべろべろと舐め回して涎でいっぱいにした。
「もういいわ、わかったよ! チク・タク!」
 マギーおばさんが隣で笑うなか、チク・タクは尻尾を千切れそうなほど振って喜んでいる。それでわたしもつられて笑ってしまった。
 血は繋がってなくても、言葉もなくても、わたしたちは心で繋がっている。そして辛いことがあっても、それをいつの間にか忘れさせてくれる。マギーおばさんも、そしてチク・タクも、お母さんと同様に大切な家族なんだって改めて実感した日だった。
 その日、おばさんはお母さんが帰ってくるまで一緒にいてくれた。

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