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「あかりの燈るハロー」第九話

吃音という証明(2)

 カウンセリングルームを出ると、お父さんが立ち上がってあたしの頭に手を置いて笑顔で迎える。
「おかえり! 茜、今日はどうだった?」
「い、いつ…っもと、かわ、変わらな、……い、いいよ」
「そっか、じゃあちょっと待っててくれな。支払いをしてくるからね。その前にトイレに行ってきていいかな? お父さん、暑くてお水を飲みすぎちゃったよ。茜にはあとでソフトクリームを買ってあげるから、それも待っててくれな」
「う、うん」
 お父さんは、受付の女の人に声をかけてから、奥の洗面所に入っていった。
 待合室には幼い子向けのプレイルームがある。そこで二歳くらいの男の子がお母さんと一緒に遊んでいた。鼻にチューブを刺しているけど元気そうだ。三角と四角のブロックを使って、丸いボールを作っている。
 外に出るといつも思うことがある。それは幼い子どもに一緒に付き添っているのは、だいたいがお母さんだってこと。あたしにお父さんしかいないから、うらやましいといってるわけじゃない。だけど授業参観でも、ヤマタケでも、信号待ちでも、こうして病院にくるときも、それこそ大和と大和のおばさんを見てるときだって、いつだって「あたしにはお母さんがいないんだ」ってことを知らされ続けている。
 お母さんはよく笑う人で、よくパソコンとにらめっこする人で、それからよくあたしを連れて、近くの遊園地につれていき観覧車に乗せてくれた。――この三つの記憶がほとんどすべて……。
 それに不満なんてない。でも誰かに話すには、ささやかすぎる思い出に思えた……。

     ♮

「それにしても暑いなあ……、こう毎日ジリジリ焼かれたら、干からびちゃうよ。茜、ソフトクリーム食べるだろ?」
「う、うん」
 病院を出てバスを待つまでの間に、お父さんはいつもなにか買ってくれる。バス停の脇にある小さな古いお好み焼き屋さんで、持ち帰り用に焼きそばを売っている小さなお店だ。バスまでの時間があるときは、店内でかき氷を食べることもある。お店の外に赤いのぼりの旗がたってるけど、日に焼けて雨のあとなのか、白い筋がぽたぽた入っている。
『焼きそば、280円』
『ソフトクリーム、120円』
 ちょっと安すぎるんじゃないかな? っていまどき思うけど、クリームが出てくる機械は子どものあたしからみても古いことが簡単にわかる年代物。それでもこうしてお父さんに買ってもらうソフトクリームは大好きだ。
「茜、今日は夜、なにが食べたい?」
「な、なんでも…いい……いいよ」
「そっかあ、じゃあ帰りに吉田くんのお母さんのヤマタケで、なにか食材を買っていこうか。暑いからさっぱりしたものがいいよねえ。久しぶりにシソたっぷりの素麺にでもする? ほら、茜の好きな白ゴマのすりおろしをいっぱい入れて」
 そんな話をしながら、あたしたちはやってきたバスに乗り込む。《弱冷房車》とかかれてはいるけど、それでも乗客の少ない車内は冷えていて、気持ちがいい。
 バスを乗り継いでの帰り道、あたしはお父さんの手を握り直しながらつぶやいた。
「……ね、ねえっ、お父さん、あー…あたしはっ、な、ななおるのかな?」
「茜、練習は大切だけれど、それは吃ることを治すためじゃないと、先生はいっていたよ。茜が人に伝えたいことをしっかり伝えることができるように、間違ってもいいからどんどん話せばいいんだよ」
 お父さんは困ったように笑い、「なっ?」といってハンカチを出すと、あたしの手の汗をぬぐってくれた。
「うん……」
 だけど、いくら吃音を治すためじゃないといわれたって、お父さんや先生があたしの吃りを治そうとすごく頑張っていることをあたしはわかっている。
 菊池医院に通い始めたころの幼いあたしは、すっかり怯えておどおどしていた。慣れない場所でいろんな人に声をかけられて親切にされるたび、悲しい気持ちになった。
 外へ出ても同じだった。みんながかわいそうな目で見た。誰かに「大丈夫?」ときかれるたび、ちょっとずつ不安は増していった。
 そっか、あたしかわいそうなんだ。お母さんが死んでしまって、しゃべれなくなったのは当たり前なんだ。だってこれはお母さんのことが大好きだった証拠なんだから……。
 いつしかあたしは、吃音を治すことは死んだお母さんのことを忘れようとする作業なんじゃないかと考えるようになっていった。あたしは自分の吃りを思い出の一部のように大切にしている。捨てきれない思い出のように……。
「それにね、吃音が治っても、お母さんを思う愛情はちっとも変わらないんだよ」
 お父さんは手を握り、おだやかな声でいった。冷房の効いたバスをおりると、熱気のカーテンをくぐったみたいにして一気に目の前にもやがかかった。

 ヤマタケで簡単な買い物をすますと、家に向かって歩道橋をのぼる。あたしが昔落ちたあの歩道橋だ。花火大会のときはここから花火も見える。
 上からみえる港の景色が、だいだい色に染まり始めている。晩ご飯を食べたら、「朱里」という人にメールの返事を書こう。でもなんて書こうかってぼんやり考える。なんとなく集中できないでいると、お父さんが口を開いた。
「お母さんの部屋にさ、茜が小さい頃に使っていたベビーベッドがあるだろ? あれをちょっとどかして片付けようかなと思っているんだけど、今度手伝ってくれるかい?」
 それを聞いてあたしはドキッとする。
「か、かたっ…かたづけっ?」
「島根のおばあちゃんが来たら、今回はお母さんの部屋に泊まってもらおうかなって。いつもはリビングに寝泊まりしてもらうけど……ね……」
「あ、あー…う、うん……わーわ、わかった、よ」
『片付け』という言葉が何かひっかかった。
「ところで、茜、昨日はわりと夜遅くまで起きていたみたいだけど、朱里ちゃんにメールの返事を書いていたのかい?」
「う、ううん。ままっだ…まだだよ」
「そっか……。仲良くなれるといいね。なにかあったらなんでもいってくれな」
「うん……」
「あのパソコンをはじめて茜が触ったころがなんだか懐かしいなぁ……。最初の頃は、おこりんぼの茜がよく泣き喚いて、パソコンにご自慢の『筆談』という名の悪口を書いていたよね?」
「わー、わる…わっ、悪口?」
「そう。ぼくがいかに悪いお父さんかっていうことを、これでもかっていうくらい、つらつらと書いてるんだよ」
 お父さんが小さく吹き出す。そんなこと全然覚えていない。
「おや? 茜覚えてないのかい? ひどいなあ、あんなにお父さんをいじめてくれたのに。『おとうさんつうちひょう』ってがんばって打ってあったよ。『あたしがいっしょうけんめいなのに、おとうさんがわらったこと』とか『おきにいりのくつしたをすてたこと!』とかね」
 のぞき込みながら、意地悪げに笑う。
「あれ印刷でもして残しておけばよかったなあ。1って書かれてたときはお父さんショックだったけど、ほらこんなに茜だって、お父さんに対していじわるだったんだぞって、今なら茜をおどせるのに」
「い…いーいじわるじゃ、なーない、な…ないよっ!」
「ははっ! 大丈夫大丈夫、わかってるよ。冗談だって」お父さんがあたしのほっぺたをつまんで笑う。「……もともとそれが目的だったんだ。茜がうまく話せなくてもどかしい思いをしないようにってね、今だってお父さんに不満があるなら、どんどん書いて見せてくれてかまわないんだぞ」
 病院では、できるだけ口に出して話しましょうといつでも繰り返される。吃音指導ではそれがスタンダードなんだろう。さすがのあたしだって、いくつも病院をはしごしてその度に同じことをいわれれば、そういうものなんだってわかる。
 紹介状をもらってあちこちつれていかれるうちに、あたしの吃音はみるみるひどくなっていった。話しづらそうなあたしをかわいそうに思ったのか、お父さんはこっそりあたしにノートパソコンを渡すと、どうしてもうまく話せないときは、これで『筆談』しなさいと教えてくれた。本当は紙に直接書いた方がもっと楽だと思う。お父さんはそのときこんな風にいった。
『パソコンの使い方を覚えておくことは、茜にとっても後々プラスになるよ。それに手軽にメモ用紙に書くクセをつけてしまったら、それこそ言葉を話す努力をおこたってしまうからね。でもこれは一応先生には内緒な』って。
 はじめてパソコンの電源を入れたとき、お父さんはさびしそうにあたしの肩に手を置いていった。
『茜……、茜は覚えてないかもしれないけど、このノートパソコンはね、お母さんがずっと最後まで使っていたものなんだよ……。だからこれは、お母さんの形見でもある。つらいときは、きっとこのパソコンが茜の味方になってくれるよ……』
 あたしは、『形見』と『味方』という言葉を数えきれないほど聞いてきている。それでもお父さんはこの言葉を口にするたび、はじめて話すように懐かしい目をする。
「じつはおばあちゃんが出雲大社に一緒に祈願に行きたいっていってるんだけど、島根まで行くのはちょっとしんどいよね……?」
「…き、きがん?」
「うん……」
 お父さんはそれ以上はなにもいわず、黙ってあたしの手を引いた。
 だいだい色に染まった空がその顔を照らすと、お父さんの目が、学校で飼っているウサギみたいに赤く滲んで見えた。


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