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子どもたちの支援をする仕事の夢を叶えた私の生い立ち④

そして、小学校3年生の夏、私は母親と2人で夜逃げをすることになります。場所は食材を運んでいた若い男性の家の近くのマンションです。夜逃げについて私は当日まで何も知らされていませんでした。私が気に入っていたおもちゃ、本、全てその時に失いました。家、家族、友だち、持ち物まで全てを一瞬にして失ったのでした。母親に夜逃げのことを聞かされると泣きじゃくる私を母親がハマっていた宗教の仲間の所に連れて行きました。幼少期のところで書いた素手では叩いてはいけない宗教とは別の宗教でした。仮にその方をAさんとするとAさんはとても良くしてくれたように思います。私はその後数週間Aさんのお宅にお邪魔することになりました。Aさんは女性の方で5人ほどのご家族で暮らしてらっしゃりました。Aさんのお子さんは私の姉と同じぐらいの年頃で私とよく遊んでくれたのを覚えています。そのこともあってその時の思い出は楽しいものしかありません。しかし、楽しい時間は長くは続かず母親にAさんのお宅から出て行くことを告げられます。私はずっとここに住みたいと泣きながら何度も母親に訴えたのを今でも覚えています。全て失ってやっと少し手に入れそうになったものをまた失うことになったからです。あの時のことを思い出すと今でも心が揺れます。そのあとの引っ越した先では辛い小学校生活が待っていたのを知っているからです。その後の小学校生活は孤独との戦いでした。

Aさんのお宅を出て私は母親とワンルームのマンションに引っ越すことになりました。古びた茶色のマンションで最上階の4階に住むこととなります。母親はすぐに仕事を見つけ事務の仕事を始めました。そして私は小学校3年生の2学期から新しい学校に転校することとなりました。新しい小学校では馴染むまでに時間はかかりましたが、その時の女性の担任のH先生が事情を知っていてとても良くして下さりました。今でこそ離婚や片親などの話しはよく聞く話しになっていますが、私が幼い頃の当時はとても珍しく差別めいた扱いもよくありました。このH先生とは4年生の終わりまで一緒に過ごさせて頂きました。話しは逸れてしまいますが、H先生はその後は転勤されてお会いすることはなかったのですが、私が大学院生で教育センターでアルバイトをしていた時、偶然小学校でお会いして何度かお話しをすることが出来ました。子ども達の力になりたいと動いていた自分が現場でH先生と再会出来るなんて夢のような瞬間でした。私が転校してからの数少ない理解者で支援者であったH先生です。私が今の仕事をやりたいと思えた根底にはH先生との思い出が沢山あったのだと思います。

引っ越してからの生活はほとんどが夜遅くまで1人の生活でした。仕事で忙しいと母親は夜遅くまで家に帰って来ませんでした。ある日私のことをよく気にかけてくれていた下の姉が夜に家に来てくれたことがあります。一緒に夜ご飯を外で食べようと声をかけてくれ、2人でお店を探しに行きました。いつも1人での食事なのに久しぶりに姉が来てくれて私は心が弾んでいたのを覚えています。夜に家を出ると言うのもあって私は心が浮かれていました。するとその時、遅くまで仕事をしているはずの母親が、前から知らない男性と腕を組んで歩いて来たのです。それを見た私は泣きながらダッシュで走って家に帰りました。私はその時こう言い聞かせました。「止まっちゃダメだ、止まるな、苦しくても進め、絶対追いつかれるな、そして振り返るな、絶対振り返るな」今となってもなぜそう思ったのか理由はわかりません。この時の走った感覚は今でも残っていて、周りの景色が歪んでスローモーションの中を走っているような感覚だったのを覚えています。家に帰ると鍵をかけて私は立て篭もりました。帰って来た母親と下の姉はドアの向こうから話しかけて来ます。その時母親が少し笑いながら話しかけていたのを覚えています。泣きじゃくっていた私でしたが母親に最後に「許して。500円あげるから。」と言われたのを聞いて我に返りました。「500円くれるならええよ。」私はそう答えました。私は大根芝居でバカを演じたのです。私の心の傷はワンコインです。ワンコインで傷が治ると思っている母親が目の前に居るのです。子どもながらにこれしかここを乗り切る方法はないと思ったのです。私の内心を悟られずいい落とし所はここしかなかったのです。ドアを開けて下の姉の顔を見ると姉は暗い顔になっていました。下の姉にはきっとこの大根芝居がお見通しだったのだと思います。本当は下の姉が泣き叫びたかったのではないかと私は感じました。この後の3人での会話は違和感だらけのものでした。笑ったり冗談を言ったりあたかもさっきの出来事を無かったことにするために次々に出来事を上書きして、手をポンっと叩いて「はい消えました。」と最後に言いそうな勢いでした。吐き気がするほど心底気持ち悪かったです。この頃は色々と限界が来ている時期でした。人生で一番辛い時期です。のちの自分がしたいと思った仕事に繋がるのですが、なぜ一番辛かったかと言うと誰にも助けを求めることが出来ずどこにも行く場所も無いからです。子どもは限られた大人としか出会えません。自分から出会いに行くことは不可能です。気持ちがあっても子どもに何かを動かしたり働きかけたりする力は無いのです。私はそのことを忘れないことを今でも仕事で一番大事にしています。今目の前に居るこの子と話している私はこの子が出会う数少ない大人の1人だと常に律しています。先程話した母親が腕を組んでいた男性は初めて見た人でした。引っ越しして2か月ほどしか経っていないのに、食材を運んでいた若い男性から鞍替えしていたのです。若い男性は少し前まで泊まりに来たりもしていました。部屋が1つしかないので3人で並んで寝ていましたが、母親と若いその男性は私の横で男女の関係を平気でしていました。その当時の私は何が行われているのか分からず、布団に潜って音が出ないようにずっと泣いていました。バレてはいけない、起きているのを絶対バレてはいけない、私は唇を噛み締めて音が出ないようにずっと堪えていました。この一文を書く時が一番辛いです。私がダッシュで逃げた事件からしばらくすると、若い男性が久しぶりに家に来ました。その後母親と腕を組んでいた男も現れ、この男は若い男性を殴りつけました。若い男性は倒れて泣きながらブルブルと震えていました。母親は間に入って何かを2人に話していました。今でもこの時のことをよく覚えています。この時私は心底怒りました。自分が壊れてしまうのではないかと言うぐらいに心の底から怒りが湧いて溢れて来ました。「あなた達のせいで私は全てが奪われて、目の前に居る私のことは誰も見えていなくて、勝手なことを勝手な大人達がやって、人の人生に勝手に土足で踏み込んで、いい大人が見えないふりしてんじゃねえよ!」大人になってから思ったのではなく、私はこの時に心底このように思いました。ずっと自分の心に刻み込まれています。この話を私は今まで誰にも話したことがありません。ずっと私なりに人知れず向き合って来ました。なぜこのタイミングで話せたかと言うと、仕事で沢山の悩みを抱えた子ども達と接して自分にも娘が出来て向き合って、その中で自分はこの人達みたいにならないと確信が持て心の底から否定することが出来たからです。大人の私は心の底からあなた達の生き方を否定します。子どもの私も心からあなた達を否定します。私はあなた達とは違います。

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